<第二話> その2
「人を傷つけて喜ぶような人にだけはなってはダメ」
生前、母は何度もそんな言葉を投げかけた。
人を傷つけることはよくない。
そんなことに喜びを覚える人間にだけはなるな。
至極当然の言葉。
けれども、母が生きていた頃から、俺は自分の加虐志向を自覚していた。
「人を傷つけて喜ぶような人にだけはなってはダメ」
母が亡くなった今も、その声はずっと聞こえている。
その度に俺は自覚する。
自分は最低の人間なのだと。
こんな自分に価値など――。
トトトトトトトトトトトッ
聞き慣れない包丁の音に目を覚ました。
朝の七時。俺にしてはかなり早起きな時間。
昨日、リョナ達がしばらくウチに泊まると決まり、彼女らは生前母が使っていた部屋があてがわれた。だからだろうか――。
――久しぶりに母さんの夢を見た。
内容は余り覚えてないが、どうにも気分がよくない。
「…………」
トトトトトトトトトトトッ
しかし、なんと手際のいい音だろうか。おそらく包丁がまな板に当たる音だと思うが、俺や父だと「トンットンットンットンッ」と言う感じのリズムになるのだが、聞こえてくるのは凄まじくアップテンポの「トトトトトトトトトッ」と言う音。
――まさか昨日は実力を隠してたが、実は職人顔負けな料理の腕前をリョナが持っているのか。
そう思いながら部屋を出て、リビングへ向かう。
――嘘だろ。
まさかの奈島さんだった。
制服にエプロン姿の奈島さんは驚くべき手際の良さで具材を調理し、朝っぱらから味噌汁を作っていた。
昨日はほとんどリョナが晩飯を作ってて、奈島さんは皿を並べるだけだったのだが、実際はここまで匠の人だったのか。
「……おはようございます」
「あ、その、おはよう」
目線が合い、ぺこりと挨拶され、こちらも慌てて挨拶を返した。
「…………すぐ朝ご飯作るので待っててください」
「あー、うん、ありがとう」
挨拶を返す間にも彼女は一分の隙のない動作で鍋に具材を入れ、かき混ぜていく。流水の如きその手際は匠のそれである。
「…………なんでしょう?」
洗面所で顔を洗った後、テーブルに座り、彼女の手際を見てると声をかけられる。
「いや、その……料理、上手なんだね」
「…………少しでもミスするとぶたれてましたから」
――重っ!
彼女の家庭環境がどうなっているかは知らないが、やっぱりいいものではないようだ。
このマシーンのような精確さで料理を作っていく様が家庭内の虐待によって作られたものだと思うと素直に喜べない。
「おはよー、て、うわっ、朝っぱらから味噌汁なんか作ってるっ! どしたの?」
髪がライオンみたいに跳ねまくった寝起きのパジャマ姿でリョナがやってくる。
「…………おはよう。ふつーに朝ご飯作ってるだけ」
「えーっ! 味噌汁なんてめんどくさいもの朝から作らないよっ! うちは共働きだったから絶対になかったなー。何か手伝おうか?」
「…………いい。もうすぐ出来るし」
――朝から騒がしい奴だ。しかしこいつ、気の抜けた姿のはずなのにくっそかわいいな。
美少女って人種はずるい。だらしがないよれよれのパジャマ姿でもあざとさすら感じる。
「何? ぼーっと見て。惚れた?」
「別に。とっとと顔を洗ってこい」
俺は無表情で言葉を返す。感情が顔に出ないおかげでこういう時便利だ。
「やーべー、すごくいいニオイっ! おっ、良奈ちゃん、おはようっ! パジャマかわいいねー」
「おはようございます。昨日も見たじゃないですか」
「夜のパジャマと朝見るパジャマはなんか違うよっ!
うぉぉおっ! 紅蓮ちゃんのエプロンすごくいいねっ! 謎のエロさがあるっ! 超可愛いよっ!」
――ああ、朝から鬱陶しいのが来た。
「…………ありがとうございます。もう少し待ってください。朝ご飯出来ます」
「ああ、紅蓮ちゃんの為なら幾らでも待つよーっ!
お、なんだお前。珍しいな、こんな時間に起きてるなんて」
浪人生になってから俺はいつも昼に起きてたから朝っぱらから父と顔を合わせるのは数ヶ月ぶりのことだ。
「うっさいな。いつ起きようと俺の勝手だろ」
俺がぶっきらぼうに応えると、父はあっそう、と軽く流してテレビの電源をつけた。
そのまま俺の隣にどっかりと座り、新聞を開く。
耳でテレビのニュースを聞きつつ、目では新聞をさらっと読み取っていく。
――相変わらず朝から疲れることをしてるな。
こちらは眠くてぼーっとニュースを眺めるのが限度だ。
そうこうしているうちに着替えたリョナがやってきて俺の対面に座った。
手慣れた動作でテキパキと奈島さんが皿を並べていく。白米、焼き魚、味噌汁、漬け物、とオーソドックスな和の朝食だ。
「いい匂いだねー。じゃあ、みんなで食べようか」
親父の言葉に頷き、奈島さんが俺と親父の間に座った。
――ん?
「それじゃ、いっただきまーす! うわー、なんだこの味噌汁。すっごい美味しいよ。紅蓮ちゃんはいいお嫁さんになるなぁ」
「…………どうも」
はしゃぐ親父と、頬を染める奈島さん。
俺の隣で何故か和気藹々空間が形成されている。
自然と、リョナと目が合った。彼女の目は飛び出そうなほど瞳孔が拡大している。
――何かがおかしい。
しかし、俺は考えるのをやめて味噌汁を啜った。
「あ、すっげー美味い」
「だろーっ! 息子よ、お前もこの良さが分かるかっ!」
薄味ではあるが、それ故に素材の味が分かる透きとおった味噌汁だ。味噌が他の具材の味を邪魔せず引き立てに回っている。大根などの野菜の味がやたら美味しく感じる、親父好みの関西風の味付け。
――近くのスーパーで買った安物の食材でこんなものが出来るとは。
先ほどの調理の手際といい、奈島さんの腕前はプロの料理人顔負けと言ってもいいだろう。これで高級食材を使わせたらどんなものが出来るのか。
「…………ど、どうも」
俺と親父の間で奈島さんが顔を真っ赤にして俯いた。なにこの可愛い生き物。
「って、ちょっと待って待って!」
それまで唖然としていたリョナがガタッと立ちあがる。
「どうした? お前も味噌汁食えよ。美味いぞ?」
「なっちゃんの料理がおいしいのは知ってるっ! そうじゃなくてっ!
……………………距離感おかしくない?」
とリョナが親父と奈島さんに掌を向けた。
――お、ちゃんと指をさしてない。えらいな。
そう思いつつ、俺は訊いた。
「どこが?」
俺達のいるテーブルは横に三人座れるスペースがあるので一対三で並んでも余裕がある。
「昨日、おじさまとあんたの対面に私となっちゃんが座ってたでしょ?
それが今、三人並んでるしっ! なんかなっちゃんはおじさまに寄り添ってるしっ!」
「――余計なことを。俺が怖くてあえて触らなかった事実にあえて踏み込むとは」
俺が舌打ちすると、リョナがすっごい睨んできた。
俺はため息をつくと、隣にいる二人へ目を向けた。
「おい、クソ親父。これはどういうことだ?」
父は何故かにやにやとしつつ、奈島さんに声をかける。
「よおーし、紅蓮ちゃん! 昨日教えた一発ギャグを使う時だよ!」
我が父の無茶振りに、奈島さんは最初は目をぱちくりしていたが、やがてかぁぁぁ、と顔面を紅潮させる。
そして、たどたどしいながらもはっきりと言った。
「………………あ、I`m your mother」
「Nooooooooooooooo! って何を言わせんだよ、クソ親父っ! ダースベイダー気取りかっ!」
「こらこら、お前の新しいお母さんに対して失礼だぞ」
――ああやっぱり! 即堕ちしてるぅぅぅ! この子、何があったか知らないけど、一夜にして親父にオトされてるっ!
昨日会った時には、世界の全てに絶望して絶対に親父みたいな軽薄な男には屈しない、という雰囲気だったのにどうしてこうなった!
「ちょ……え? え? えぇぇぇぇえ?」
俺の対面で目をぐるぐるとさせながら混乱の極みに陥るリョナ。
「えっ、だって……昨日、私と一緒に部屋で寝る前はそんなことなかったのに……あれ? なんで?」
「俺も自室で寝る前はそんなことなかったと思うが――」
リョナと俺が混乱する中、親父と奈島さんは目を合わせ――。
「何があったって」
「…………その」
「なぁ?」
二人して意味深に顔を赤らめる。
「そんな……なっちゃんを守る為に一緒に付き添いでこの家に泊まり込みに来たのに……」
愕然と肩を落とすリョナ。
「…………りょーちゃん。大丈夫だよ」
「なっちゃん」
「…………私、今、京士郎さんと巡り会えて幸せだから」
ぴとりと自分の顔を親父の肩に合わせる奈島さん。
昨日とは正反対の仕草に俺は思わず無表情のまま二人を見つめた。
「はっはっはっ……紅蓮ちゃん。息子が見てるよ」
「…………いいじゃないですか、見せつけても」
――なにこのバカップル。
俺の対面で「う゛ぞーー」と頭を抱えて崩れ落ちるリョナ。が、すぐに気を取り直して立ちあがる。
「ちょっと! おじさま! 自分の息子より年下の女の子に手を出すとか恥ずかしくないんですかっ?!」
「全然。恋には年齢も時間も関係ないさ」
奈島さんの肩に手を置き、無駄にダンディなスマイルを見せつけてくる父。
「この子が困ってる。ならば俺は命がけで守ると決めただけのことだよ」
「命がけって――」
大仰な言葉に俺は思わず言葉を漏らす。
「言葉通り、生涯を共にする、と言うことだ。紅蓮ちゃんが来年、十六になったら籍を入れる」
親父の言葉に奈島さんは嬉しそうにこくりと頷く。
――なんだこれ。本当に、昨日何があったんだ?
「そんな、この子は友達として私が守るって――」
「高校を卒業した後も、社会人になった後も、老後もずっと君は紅蓮ちゃんを守れるのかい?」
「ぐっ……」
想像以上に重い言葉にリョナも言葉を詰まらせる。
未だに俺は事情を把握できないが、リョナは奈島さんを守る為に、彼女の家族から引き離したのだろう。自分の家には連れて行けなかったのか、何故か俺の家に連れ込んだ。
なかなか立派な行動力だろう。
普通ならそこまで他人の家庭環境に踏み込めない。連れだしたからにはここから彼女なりのプランがあったのかもしれないが、いかに親しい友人でも生涯面倒をみることなんて出来ない。
そこへ、俺の父親は自分の人生を賭けると言った。
リョナもさすがにそこまでの覚悟は持てないに違いない。
「ほら、せっかくの味噌汁が冷めてしまう。早く食べよう。君達も学校があるだろう?」
パンッ、と手を叩き、親父は場を仕切り直した。
「詳しい話はまた今夜しよう。ささっ、食べなさい」
そう言って親父と奈島さんは食事を再開する。
リョナはしばらく、奥歯を噛みしめていたが――。
「ちょっと!」
俺に目線を送り、睨みつけてきた。
――俺に振られても困るのだが。
「なんだ?」
――俺に親父を説得しろとでも言うのか?
しかし、リョナの言葉は意外なものだった。
「隣に座ってっ!」
「は?」
自分の席の隣を指さすリョナに俺は間の抜けた声を返す。
「私一人だけこっち側とか寂しいでしょっ! 察してっ!」
――えらくかわいい要求だな。
俺は皿などを対面へと移動させ、箸と茶碗を持ってリョナの隣、親父の対面へ移動する。
「ヒューヒューっ! お熱いね!」
奈島さんいちゃつきつつ煽ってくる親父。ほんとうざい。
「うっさいわ」
思わず関西弁で返す。
席に座りつつ、俺は隣のリョナをちらりと見て言った。
「ところで――」
「何?」
我ながら底意地の悪いことだが、笑みを浮かべつつ、訊ねる。
「守るはずの友人を俺の親父に取られて今どんな気持ち?」
「くっ! 殺す……!」
メッチャ睨まれた。
「惜しい」
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