殆ど今、彼は頬にある血溜まりを紙ナプキンで拭った

 酔っ払った父が、階段を踏み外して二階から転げ落ちてきた。後頭部からは、錆色の液体が土間へと広がっている。彼は、その一部始終を見ていた。仁王立ちで、微動だにせず、二十分ほども見ていた。死んだのではないだろうか、と思った。息をしているようには見えなかった。指先一つ動いてはいなかった。もしかしたら、正に死につつある、その過程を傍観しているのかも知れなかった。轢き逃げ犯のようにどこかへ走り去ることも、善良な市民のように救急車を呼ぶこともなかった。ただ、部屋にいた。居間から眺めていた。棒立ちで、時が過ぎるのを待っていた。

 どうやら、まだ生きているようだった。呼吸音のような、小さな呻きのようなものが幽かに聞こえた。躰を捩らせるように、少しずつ手足も動き出していた。舌打ちをしたのは、彼の方だった。急に興味が失せていった。生きているのなら、見ていることはなかった。一時停止していたテレビデオのリモコンの「再生」ボタンを押して、彼は元のように腰を下ろした。田村正和が、犯人役の誰かと台詞の遣り取りをしていた。もうすぐ、解決篇が始まるだろう——。


(2012-12-18)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る