残景の名残
失う事は、気づいた時にその早さを増す。
引越しの朝。何故か、とても早く霜月は目を覚ました。
すぐ目の前には前日の様に九十九がいる。
その香りが眠りへと誘ったはずなのに、どうしてか霜月は眠気がわかない。
触れるほどの距離、眠ったままの九十九が小さく息を漏らす。その頭を霜月は軽く撫で髪に指を通し、弱く頬を摘む。
柔らかく絹のようにすべすべで、確かな暖かさのほっぺた。イヤイヤとくすぐったそうにしたした九十九から指を話し、霜月はベッドから出る。
カーテンはまだ開けない。
静けさと落ちた暗闇の部屋。隙間から差し込む光。
それが、これからの現状を表すようで。
寂しさと高揚。不思議なほどに落ち着いた心。
ベッドに座り、霜月は不思議な気持ちに包まれていた。
「じゃあね霜月。気をつけて生活するのよ」
「分かってるよ母さん」
「困ったらことがあったら連絡しなさい。お母さん、ほんとはまだ……」
「はいはい。心配はいらないから」
不安げな眼差しを浮かべながら、母は口を閉じる。
祖父の家の前。引越しも一通り終わり時刻は昼を大分過ぎた。手伝いに来た家族は皆することも終わり休んでいる。
勝手の違いはあるが、必要な家財は一通り揃っている。直ぐに問題が起こることもない。心配事も現状なく、霜月は落ち着いて母の言葉を流す。
霜月の意思に任せ放任とも言える父と違い、母は心配性だ。電話にしろメールにしろ、定期的に連絡が来るだろう事が予想できる。
ボスン、と霜月の背中にかすかな衝撃が走る。
「あにきー。大体いつ頃こっち来れるの?」
「唐突に殴るのはやめろ弥生」
妹である弥生を霜月は叱る。
さきほどまで庭にある蔵の近くでうろちょろしていたはずだが、暇になったのだろう。
肩口で切り揃えられ後ろで小さく纏められ髪、はっきりとした眉、気持ちを伝える大きな眼。服は動きやすそうなジャージ。
活発な少女である弥生は兄である霜月に対して遠慮がない。
今年で高一になった弥生は離れた場所にある女子高に通っている。部活はスポーツ系だとか。それに趣味で武術も習っている。
その為か、弥生の腕と足はすらりとして無駄な肉がない。
背中に触れた拳は手加減され痛みはないが、それでも不思議と確かな衝撃がある。霜月としては不意打ちされるのはごめん被りたい。
「近いから、連休でもあれば行けるだろうな。夏休みとか長期休暇があれば、そっちの家に長く居れるかも」
「かもってなんだよー」
「『かも』は『かも』だ。そう言うならばこっちに来ればいいだろう。近いし、お前だってこの家はよく来たろ」
「えー。あにきが来てよ。めんどくさい」
弥生の額に軽く、霜月はデコピンをする。
「確かに少しめんどくさいな。工事中の道が開通すれば山通って早いんだが」
父親が弥生に賛同するように言う。
「工事が終わるのはいつ頃だっけ?」
「俺に聞くな。ただ色々あって工期が伸びたって聞いたな。あの辺昔から地盤弱いんだよな確か」
「嫌な話だ。あそこを通れるなら山を越えなくて済むのに」
道なりに行ける街の方に向かえば大抵の店はあるが、それでも無い店もある。
そういう場合山を超える必要があるので車がない身としては非常に面倒だ。
原付でいいならばあるが、古いこともあり山道では速度が出づらい。
「近くの寺も被害あったと新聞にあったな。寂れてんだから後回しでもなぁ」
呟きながら父親は車の方に向かう。
近くの山に道を通すための工事が行われており、それが終われば行き来がしやすくなる。
昔は車で寝ていれば着いていたが、大きくなれば意識が変わるというものだ。
霜月と同じで弥生も小さな頃からこの祖父の家には来ていた。
だが年の差や男女の差もあるのか、弥生はこの家にそこまで思い入れがないのだろう。
二人は何度か一緒に蔵や倉庫に入ったことがある。弥生は興味のままに漁り、いくつか壊しかけたことも。
そういったことを覚えていないのか。
めんどくさいという言葉に霜月は時の流れを思う。
弥生が霜月に近寄り小声で言う。
「実はさちょっと……怖い」
「怖い? 何度も来たことあるだろ」
「その、さ」
弥生は辺りを見回して霜月に身を寄せ、その耳元に口を寄せる。
「ここ、出ると思うんだ。さっき見たんだ、着物着た女の子がいるの」
「見間違いじゃないのか? それにお前、大抵休んでいたじゃないか」
「見たの!! トイレ行こうとしたら目の前タタタッーって。行った方見ても誰も居なかったもん」
「小学生かお前は」
「怖いじゃん。うるっさいなぁ」
ボス、ボスとパンチと蹴りを弥生は繰り出す。
活発なのはいいが、霜月としては痛いから辞めて欲しい行為だ。
思い返せば、確かに弥生は怖がりだったと霜月は思い出す。小さな頃、祖父の家に来たとき何故かは忘れたが泣いていた記憶がある。
小さな自分。座り込む弥生。埃臭い空気。揺れる照明。
古い記憶だ。靄がかかったように思い出せないが、それでもその鳴き声だけは霜月の耳に残っている。
わんわん、わんわんと。雨のように、霜月へと降り注ぐ声だった。
もしかしたら、この事も弥生は忘れているかもしれない。ふと、霜月はそう思った。
「やよいー、そろそろ行くわよー!」
車に乗りこんだ母が弥生を呼ぶ。既にエンジンは吹かされている。このまま向こうの家に帰るのだろう。
むー、と弥生はつまらなそうに唇を尖らせ、分かったと母に言う。
「じゃあねあにき。死ぬなよー」
「死なないよ。舐めるな」
「はいはい。家出でもしたらヨロシクね」
「追い返してやるから安心しろ」
「ハッハッハ」
笑い、最後に軽く腹パンを霜月に放って弥生は車へと走っていく。
運転席から伸ばされる手が霜月に向けて振られる。それに手を振り返し、走っていった車を見送る。
門の前、誰もいなくなり静寂が霜月の元へ帰ってくる。
近所から聞こえてくる小さな話声が、風に乗って届く。
都市開発から外れたこの周辺は建物が多くない。周囲にある家々も近代的なものは少なく、街中に比べ敷地も広い。
この祖父の家も他聞にもれない。
生垣で出来た塀に、中に入れば短いが石畳。縁側から覗ける小さな庭には蔵と、いくつか樹も。
霜月は軽く辺りを見回す。田畑が目に入る。そっちに歩けば、少し離れ、山々にも行けるだろう。
反対側にずっと行けば、開発された街中へ。
懐かしい景色。あの時とは見る高さが違う風景。
霜月は頭の中にあったそれと今を何とはなしに比べる。
暫くし、霜月は家の中へと戻る。玄関を開け靴をしまい、自分の部屋へと向かう。
小さな頃、眠っていた部屋がそのまま私室になっていた。
七畳ほどの広さ。布団などがある押入れ。元々あったタンス、卓袱台、座椅子。持ってきた本棚。それと私物がいくつか。
座椅子に座り力を抜いた霜月に、背後からふわりと温かい熱が覆い被さる。
「やっと終わったか。暇じゃったぞ」
九十九が後ろから霜月の首に手を回す。
家族に姿を見られるわけにいかぬと、引越しのあいだ中九十九はどこかに行っていたのだ。
サラサラの絹のように柔らかな髪が触れる。暖かい吐息が耳に当たり、霜月はこそばゆくなる。
「それは悪かったな。だが、ウチの妹をからかったそうじゃないか」
「はて、何のことかのう?」
「怖がりなんだ。余りいじめないで欲しい」
「ほほ、肝に命じておこうかの」
笑い、熱が離れる。
前に周り、ふわりと着物の裾が舞い霜月に重さがかかる。
腰の上、霜月の体を座椅子代わりに九十九がその身を預ける。
布団の中よりも近くに、直に触れる暖かさ。上質な布のさらりと指が滑る着物。
霜月の目の前には九十九の旋毛。思わず抱き枕にでもしてしまいそうだ。
「あの娘、何度か見た記憶があるぞ。何事もなく随分と育っておったわ」
「何度かこの家に来てたからな。それよりどいてくれないか。引越しで疲れるんだ。一眠りしたいんだが」
「嫌じゃ。このまま寝ればよかろう」
置き場を探すよう、僅かに九十九が身じろぎする。
九十九の体は霜月よりも小さい。すっぽりと収まっている。
胸元から出した扇を構え、ほれ、どうじゃ? と緩やかに霜月へ風を送ってくる。
どうやら退く気はないらしい。それを理解し、霜月は諦める。
腕の中の暖かさもあるのだろう、眠気はすぐにやってきた。霜月はふと、九十九の頭の上に顎を乗っける。
これが、思ったより落ち着いた。頭の高さが、霜月にはちょうどいい。
霜月の意識がまどろんでくる。何かうるさい顎の下の物をちょうどいいと霜月は抱きしめる。
「おいこら、ちょっと待たんか。ムグ」
抱き枕も見つかり、あくびを一度。そのまま目を閉じる。
心が闇に飲まれるように、霜月の意識はすぐに落ちていった。
霜月が目を覚ましたのは日も落ちきってからだ。
暗く変わりきった世界。夜の涼しさが霜月の肌を冷やす。
心地よい目覚めに目を覚ませば、すぐ下には九十九の寝顔。霜月の胸にもたれ掛かるようにして、穏やかな顔で寝ている。
時計を見れば十一時すぎ。寝すぎたようだ。
取り敢えず霜月はお腹が空いていたので九十九をどける。
眉根を寄せた表情を浮かべられるが、九十九は起きない。そのまま俯け、顔を袖で隠すようにして再び寝息を立てる。
そのまま九十九を放置して霜月は冷蔵庫を開ける。今日詰めた中身。寝起きもあり時間もアレなので冷凍食品をレンジに入れていく。
チンしている間に霜月は酒を探しに行く。月が見えていたので、どうせなら飲みたかったのだ。
レンジで温めているものもそれに合うようなものばかり。
「……ん?」
ふと、板張りの廊下を歩いていてとある扉が霜月の目に留まる。
襖ではない。引き戸のようだ。所々に細かい傷跡の付いた木の扉。
何故だか、ふと、霜月は心が呼ばれるような気がした。何となく見覚えがあった。
――チン
遠くから聞こえるレンジの音が霜月の意識を叩く。
音に目的を思い出し、霜月は酒が置いてある部屋に行っていくつか日本酒の瓶を掴んで部屋に戻る。
レンジから漏れるかすかな匂いが鼻を擽る。
匂いに起きたのか、料理を持って戻った霜月を眠気眼の九十九が迎えた。
「んん……ぅむ? 何じゃそれは」
「夜食だよ。酒呑みながらつつこうと思って。茶の間で食べるのもどうかと思ってね」
「ほうほう、それは……ふぁ、良かことかな。儂の分もあるんじゃろうな」
「一応持ってきたよ」
満足げに頷く九十九にお猪口を一つ。
楊枝が刺さった食材を載せたお盆を置き、縁側の戸を開く。月の明りが、遮るものなく一層映える。
この間満月だった月はわずかにかけている。
だが、別にいい。それでもこの家に移り住んだ記念。そして九十九と飲む記念。
それは、かけたとは言えあの日の約束の履行。不満はない。
好きに飲むように、と持ってきた二本の酒。
どれも飲みかけで、量が減っていたそれも盆の横に置く。
「儂がいるのに手酌など許さぬぞ。ほれ、出せ」
九十九に酒を注がれる。お返しに霜月も九十九に返杯を。
縁側に二人で座り、月を見上げる。
今更ながらに霜月は作務衣を着るべきだったとふと思う。着物姿の彼女の横、それは大層映えただろう。
だが、良い。霜月はそう思う。これから何度でも飲む機会はあるからと。ならばいずれ、でいいのだ。
彼女とは、取り返しが、つくのだから。
小さな御猪口。継がれた酒。透明なその水面に月を移す。隣合い、同じ思いで。
御猪口を近づけ、小さく交わす。
――カチン
初夏の夜。月の下。
約束を果たす様に、二人は静かにその中身を傾けた。
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