二夜



 えー本日も一杯のお運びで、ありがとうございます。

 今夜も引き続き『戊辰異聞・臥煙戦記』にてご機嫌を伺わせて戴きます。



 さて、その日の夕方近く、若旦那は何も知らずに居候先の和泉屋与平さんのお宅に戻って参ります。

「今、戻りましたよ」

 と、絽の単衣を粋に着こなした若旦那がからりと戸を開けると、奥からトントンと軽い足音が迎えます。

「あ、若旦那。おかえりなさいまし」

 きちんと廊下に膝を落として迎えるお春に軽く頷きながら、若旦那は、そうだ、という様子で言葉をかけますな。

「お春ちゃん。その若旦那はよしておくれな。今の私はもう帯屋の後継ぎでもなんでもないんだから」

 そう言われたお春。頬に指を当てて小首を傾げます。

「とおっしゃられても、どうお呼びすれば……」

「何、今の私は只の居候の信之助、遠慮は要りません。好きな様に呼んで下さいな」

「好きな様に、ですか?」

 お春はどうも不得要領な様子。無理もありませんな。信之助がこの家に来て以来、若旦那以外の呼び方をされたことはありません。それを承知の上で若旦那は言葉を重ねます。

「そうそう。好きな様に」

 そこまで言われてお春はようやく心を決めた様子。声を少し低くして告げますな。

「本当にいいんですね?」

 そう言われて一瞬たじろいだ若旦那ですが、ことは自分が言い出したこと、ここで引くわけには行きません。

「そう念を押されると心細いけれど、私も男だ。かまいません。どんと言って下さい」

 軽く頷いたお春。すっと息を吸うと、いきなり一発かましましたな。

「じゃあ……信公!」

 若旦那の驚くまいことか。

「し、信公?」

 目は白黒、口はぱくぱく。真夏の金魚もかくやという有様の若旦那に、お春は不思議そうに返します。

「いけませんか?」

「いけないも何も、こういうもんは親しくなるに連れて、信之助様とか信さんとか、段々砕けて行くもんでしょう? なんでいきなり信公なんですか? もう少し、こう、丁寧な呼び方ってモンがあるでしょう」

「丁寧……ですか? じゃあ、お、の字をつけて、お信公ってのはどうです?」

「そんな、人をたくあん漬けみたいに……いくらなんでもお信公は無いでしょう」

 若旦那の言うことはもっともですが、お春はさらりと言ってのけますな。

「何事も最初が肝心ですもの。只の居候なら分相応というものをわきまえて戴かないと」

 そう言われてしまうと若旦那の口調も濁ります。

「そ、それはそうですが……」

「それがそうなら、そうでしょう?」

 と、お春があっさりと追い打ちをかけたところで、奥から出てきたのが御隠居です。

「表がやかましいね、何事かね?」

「あ、御隠居さん、いえ今この信公が帰って来まして……」

 と、お春が言いかけたところで、御隠居表情を変えますな。

「し、信公? その信公ってのはこの若旦那のことですか?」

「はい。そうですが……」

 悪びれる様子もないお春に少し顔をしかめて見せ、御隠居は居住まいを正します。

「お春、ちょっとそこにお直りなさい」

「は、はい」

 と、立膝からきちんと正座したお春に一つ頷いて、御隠居はその前に座し。言葉を改めますな。

「いいですか、お春。この信之助さんは元は大店の跡取、若旦那ですよ。確かにいずれ店を継ぐ立場であることも忘れて茶屋遊びの深間にはまり、店の金に手を付けて勘当された挙句、今は居候の穀潰ごくつぶし。若いくせに食って寝るしか能がない十階野郎には違いありませんが、それにしても言っていいことと悪い事があります。信公とは何ですか、信公とは!」

 御隠居の剣幕に、お春は慌てて頭を下げますな。

「も、申しわけありません。信こ……いえ、若旦那が、何時までも他人行儀なのは良くないから。好きなように呼んでくれとおっしゃるんで……」

「え、若旦那? そうなんですか? おや? 何故に上がりかまちに這いつくばってらっしゃるんです?」

 振り返った御隠居があきれております。

「い、いえ。心の臓に御隠居さんの言葉がぐさぐさと来まして……確かに居候で穀潰しと言われればその通り。面目次第もありませんが、十階野郎ってぇのは何なんです?」

「ここの二階に厄介になってるんだから、足して十階でしょう」

「そ、そんなもの足さないで下さいな。立つ瀬がありませんよ」

「立つ瀬がないなら泳ぐなりなんなりなさい。そんなに格好じゃ溺れますよ。さっさとお立ちなさい」

「は、はぁ。」

 と、立ち上がった若旦那の先に立って、御隠居は奥に向かいます。

「とりあえず座敷にお出でなさい。信公」

「し……」

「おや? どうしました? 信公」

「い、いえ、何でもありません、はい」

 若旦那はもうぐうの音も出ない様子。とりあえず長火鉢の前にかしこまって御隠居の言葉を待ちますな。

「で、今日はどちらにお出かけでしたか。信公」

「御隠居さん。もう勘弁して下さいな」

「はいはい、わかりましたよ、信公。で、何と呼べばいいんですか? 信公」

「その…………せめて信之助あたりでご勘弁を」

「まぁいいでしょう。では。信之助。その方今日は何処いずこに参っておった。きりきり白状せい。もし偽りを申さば重き拷問にかかると覚悟せよ、よいな」

「へへへーーっ。……て何でいきなり御奉行様なんです?」

「何、今日はそういう気分なんです。で、実のところは何処に?」

「はぁ……それがその……実は……」

「何です?」

「はぁ……それがその……」

「何処にと聞いてるんです」

「はぁ……」

「答がどんどん短くなってるじゃないですか。……まさか、またぞろ悪い虫が這い出して、他人に言えないないような所に……」

「め、滅相もありません。大体、そんなことが出来る小遣いを戴いてないのはご存知でしょうに」

「ふむ。小遣いさえあれば、また出掛けるという事ですね?」

「そ、そりゃあ勿論……」

「勿論何です?」

「…………勿論行きません。行きませんとも」

「その間が気になりますが、まぁ、いいでしょう。他人に言えない所でないなら、きちんと言える道理です。で、何処に?」

「はぁ……それがその……実は……口入屋に……」

「口入屋?」

 信之助こと若旦那。御隠居の顔色を窺いながら歩兵屯所入りの話を切り出します。

 さぞ怒られると思いきや、いきなり御隠居から二つ返事で許しが出て拍子抜け。相好を崩した御隠居は、こんなに目出度い事はない。船を仕立てて一席設けるとしましょう。お春、お前もお出でなさい……と。


 日が落ちますとさしもの暑さも幾分は和らぎ、渡ってくる川風が心地よく肌をなでる宵の口。大川(隅田川の吾妻橋より下流の部分)のほとり、両国界隈に軒を並べる船宿に、若旦那がスキップ――はまだこの時代にはありませんが、まぁそのような心持ちで――しながらやって参ります。

 勘当されて家を追い出され、御隠居の家の二階に厄介になってから、自由に使える金もなく、当然川遊びも船宿も来たことはありません。久々の川遊びに気はそぞろでございます。

 船宿に声をかけてから、さて、今日の川遊びのお相手をする綺麗どころは……と、心持ち息を荒げ、もやっていた屋根船に掛けられていた葦簾みすをさっと開けてぶったまげた。

 船の畳にむくつけき大男が三人、ぴたりと平伏して迎えております。

 と、真中の一人が顔を上げ。

「この度は歩兵屯所入りをお決めなされたとのこと。我ら『か』組一同、その意気に感服し、いささかなりともお力にならんと存じ、ここに控えてございます。どうかその旨お聞き届け戴き、助力を御許し下さいますよう伏してお願い申し上げます」

 言うなり改めてぴたり、と畳に額を付けます。

 で、若旦那はというと、おや、半分腰を抜かしている様子ですが、それでも律儀に返事を返します。

「こ、これはご丁寧に……じゃない。かしら、これは一体……それに鉄さんに……そっちは八さんじゃないですか。一体何事……」

 と、顔を上げたかしらが相好を崩しますな。

「いやいや、御隠居から話は伺いやした。ご立派なことで皆感服しております。ついては是非お供をということで、ここに段鉄と八が参っております。どうか存分にこき使って下さいまし」

「使う? どういうことです? 屯所に入るったって、引越しするわけじゃありません。別に人手が要るわけでは……」

「いえいえ、引越しの手伝いではござんせん。この二人が若旦那のお話を伺っていたく感心し、その意気や良し、我らも歩兵隊に推参奉らん、と申し出た次第に御座います」

「あ、あっしは別に……」

 と、顔を上げかけた八の頭をぐいと押さえつけ、かしらは満面の笑顔で話を続けますな。

「これ、この通り、当人も頭を低くしてお願いしております。どうかお聞き届けの程をお願い致します」

「頭を低くって……そりゃあかしらが八さんを押さえつけてるんじゃありませんか」

「なに、少し寝癖が出てたんで、なでてやっただけでござんすよ。そうだな、八?」

 と、畳の近くからか細い声が。

「へ、へぇ。その通りでやす。お気遣い誠にもって在り難迷惑千万で……ふぎゅ」

 何やら不可思議な声がしたようですが、それに気付くようでは角が立つ。若旦那もようやく筋書きが読めて来たと見えて、一人無言なままの段鉄に矛先を変えますな。

「鉄さん、何であなたまで。私と一緒に歩兵隊だなんて、冗談にも程があるってもんでしょうに」

 問われて身を起こした段鉄。おもむろに居住まいを正すと、信之助を正面から見つめて口を開きます。

「若旦那、改めて伺いやすが、歩兵隊に入るという話はまことまことの話なんですね?」

 問われて信之助も改めて段鉄ら三人の前に直ります。

「勿論ですよ。吉原で嘘の真を散々聞かされ、目が覚めました。まことまことに相違ありません」

「キレイなおべべしか着たことのなかった若旦那にダンブクロが着れますかい? 歩兵隊の調練はきつい。長い鉄砲担ぐんですぜ」

 問われて信之助、この辺の呼吸はあらかじめ心積もりしていたと見えて、軽く笑みをもらして答えます。

「鉄砲の一挺くらいで音を上げてちゃ、刀二本は差せません」

「若旦那は、何としても二本差しになる、こう仰るんですね?」

「左様です。こればっかりは譲れません」

「うーん」

 改めて話を聞いて、段鉄は腕を組みます。

 前に推測した通りで、二本差しに成れば親御さんも憎くて勘当したわけではあるまいし、頭を下げて迎えに来るだろう――ということは分かります。

 この辺は四民平等が根付いて久しい今の人には理解しにくい所ですので、繰り返しての説明となりますが、士農工商というより、士とそれ以外という形でくっきり線引きされていたこの時代。侍=士分になり、苗字帯刀を許されるというのは算盤ではないんですね。例え三両一人扶持のサンピン侍でも、蔵を幾つも持った大店の当主より身分は上、つまりはそういうことです。

 これは幕府の支配地に限ったことではなく、同時期に長州で編成されていた有名な奇兵隊でも、同じように士分を夢見て募集に応じた庶民が少なくなかったと言います。

 まぁ、そのお陰で名字帯刀が許された途端、「拙者」とか自称して侍風を吹かせ始めた歩兵連中も珍しくなかったようですが……それはさておき、話は若旦那こと信之助です。

 しばらく考えていた段鉄。一つ咳払いをするとおもむろに口を開きますな。

「歩兵隊へ奉公とあっさり仰いますが、そもそも年季は五年ですぜ。若旦那に辛抱できますかい? しかもこの期に及んで新しく兵隊を募るってことは、お上にはそれを使うつもり満々ってことだ。何か事が起きたら真っ先に出張でばる羽目になるんですぜ」

 段鉄の危惧はもっともですが、話を聞いた信之助、にこりと笑って言いますな。

「鉄さん、その辺は覚悟の前だ。五年の年季というが、居候の身の上で我慢していても、親父殿の勘気が解けるにはその位かかるだろう。その間無駄飯を食うだけというのも気が引けるし、勘当者じゃあ他のおたなにご奉公も難しい。その点、歩兵隊ならまかない付きで衣装や寝床もお上持ち。そして集めた兵隊を使うつもりというなら、そいつぁ願ってもない話だ。大体、鉄砲かついで歩くだけで出世できる筈がないんだ。ここはどうあっても戦場いくさばに出て手柄の一つも立てなきゃならない。出世というのはそうしてするもんでしょう?」

 聞いて段鉄唸うなります。

「ううむ、そりゃあたしかに道理だ。道理だが……そう上手く行かねぇのも道理ですぜ」

 と、言われた信之助、痛い所を突かれたと見えて、やにわに色をなします。

「どこが上手く行かないっていうんです? 私はこれでも散々考えたんだ。考えに考えた挙句、これより他に手はないと思い定めて証文を入れたんだ。それにケチを付けられたんじゃ堪りませんよ」

 言われた段鉄、口をへの字に曲げて思案しますな。

 ――気色ばむってぇことは自分にも非があると分かってるあかしだが……それを言っても聞きはしねぇだろうなぁ……。

 ――そもそも当人がてめぇの甘さをわきまえてねぇってのが一番のきずだが……かといって、歩兵隊に一人でへぇった挙句、当人がやっと弁える頃には手遅れなのは間違いねぇ……。

 ――証文を戻すつもりは欠片かけらもなさそうだし、足を折るってわけにもいかねぇか……。

 ――ならば御隠居の言う通り、最初の算段で行くしかねぇってことだな……。

 と、一つ頷いた段鉄。素直に頭を下げますな。

「お覚悟は十分に分かりやした。たしかに男が思案に思案した挙句決めたことなら、他人がとやかく言う筋合いのものじゃねぇ。胸を張ってお行きなせぇ。ただ……」

 と、そこで言葉を切った段鉄に、信之助が首を傾げます。

「ただ……何です?」

「いえ、もう船に乗ってから大分たちますんで頃合かと思いましてね。続きは大川に出てからにしましょうや。宜しく願いますぜ」

 最後は屋根舟のともで待っている船頭さんへの願いですな。

 言われた船頭は目顔で御隠居と頭の顔色を伺うともやいを解き、持っていた竿を川底に突き立てます。

 うんとしょーい、という掛け声と共に屋根船がわずかに揺れ、ゆったりとした大川の流れに進み出ます。

 舟遊びと来れば屋形舟が相場ですが、当時の屋形舟は今と違い、船室が三間も四間もあって船頭も数人掛かりで操る豪奢な船で、大商人が幕閣の接待に使うような代物でしたから庶民には手が出なかったんですな。一般の庶民や商人が使うのはこの屋根船という奴で、船室は一間だけです。

 この時期の船遊びは夕涼みですから目的地はありません。川の流れと潮の満ち引きを読んで、上げ潮なら川上へ、引き潮なら川下へ船を進め、潮目が変わったら舳先へさきを返して出た船宿に戻るという段取りです。

 この船頭は年期が入っていると見えて最小限の竿使いで船を流れの中心に向け、それに連れて川風がさーっと吹き抜けます。川縁には遠く近く江戸の町の灯りが並び、中天にかかった月影が川面に行き交う屋根船の姿を照らし出す――これぞ夏の船遊びの醍醐味という奴ですな。

 一同が改めてほっと一息入れたのを切っ掛けに、御隠居がお春に膳の用意を言いつけ、船宿であつらえた料理と酒が並びます。

「お、こいつぁ剛毅だ。おかしら付と来たぜ」

 と、相好を崩す段鉄に、かしらの平八が軽く突っ込みます。

「たしかに俺も付いちゃあいるが、俺は料理じゃねぇぞ」

 珍しいかしらの冗談に一同がどっと沸いたところで、御隠居が少し眉をひそめますな。こういう席では一番賑やかなはずの八が動きません。

「おや、八さん、どうしたんです? 玉子焼きは好物と聞いたから誂えさせたのに、箸も付けてないじゃありませんか?」

 何時もなら一も二もなく手を伸ばすはずの八が、難しい顔をしたまま動かないのはたしかに妙です。

 聞かれた八、はっとした様子で顔を上げますが、見れば顔色が真っ青でございます。

「おい、八、どうした? 船は出たばかりだぞ。もう酔っちまったのか?」

 心配して声を掛ける段鉄を八は無言で見やり。大きな溜息をつきますな。

 それを見た途端、段鉄の目元が柔らかくなりますな。さすがは兄貴分、分かっているようでございます。

「溜息とは穏やかじゃねぇな。言いたいことがあるなら言え。今じゃねぇと言えねぇこともあるだろうからな」

 いつもは厳しい段鉄ですが、折りに触れこういう優しさを見せるあたりが器量というものですな。若い者の束ねを委ねられるだけのことはあるわけです。

 段鉄に優しい言葉をかけられた八、「へい」と一つ返すと、箸を一旦膳に戻して手を膝に直しますな。

「ご心配かけて申しわけねぇこってす。いえ、大したことじゃねぇんでやすが、御隠居の心尽くしの玉子焼きを見ているうちに、何かこう堪らない気持ちになりやして……」

「堪らない? そんなに食いたかったのか?」

 無論これは八の応えを引き出すための段鉄の軽口ですが、八もそのくらいのことは分かります。張った肩肘がふと緩んで、涙が一滴ぽろり。

 それを指で拭って、八は言葉を継ぎます。

「いえ、何度も言いますが大したことじゃねぇんで。この美味そうな玉子焼き、今食っちまったら後五年は食えねぇ……いやもう金輪際食えねぇかもしれねぇ……そう思ったら無性にやるせなくて悔しくて、動けなくなっちまったんでやす」

 八の飾り気のない言葉に席が粛然しゅくぜんとする中、信之助がぽつりとつぶやきます。

「五年……ひょっとして八さん。一緒に歩兵隊に入るというのは本気だったんですか?」

「え?」と一同が顔を見合わせる中、突然立ち上がったのは段鉄です。

 ぽかんとする信之助をにらみつけ、大声一喝。

「どやかましいわ! 誰が伊達や酔狂で歩兵隊に入りたいなんぞと抜かすか! 大の男が二人、てめぇの酔狂につきあってやろうってぇんだ。四の五の言うんじゃねぇ! この末成うらなり青瓢箪が!」

 文字通りのブチ切れという奴でございますな。いかな段鉄の器量でも、己の甘さを棚に上げただけならともかく、自分と八の覚悟まで無にするような言い草には我慢出来なかったと見えます。

 さぁ、これまで穏やかに押さえていた分、揺り返しはきつうございます。雨霰と降り注ぐ罵詈雑言に目を白黒させていた信之助ですが、青瓢箪とまで言われて反撃に出た。

「瓢箪とは何です、瓢箪とは。私には親から貰った信之助という名前が……」

「親から貰ったぁ? ご立派なことを抜かすじゃねぇか。そのお名前を下さった親御さんに不孝不忠の挙句、勘当食らったのはどこのどいつでぇ」

「だからこそ、その不孝不忠を詫びる為に歩兵隊に……」

「おお、甘ぇ甘ぇ、琉球渡りの黒砂糖より甘ぇや。そんなことが通用するなら、世の中二本差しで溢れてらぁ。刀屋研屋は泣いて喜ぶ大繁盛だ」

 いきなり始まった騒動に、これは、と腰を浮かしかけた御隠居の膝を軽く押さえて、かしらが耳元でささやきます。

「御隠居、ここは鉄の奴に任せましょうや」

「し、しかし若旦那にもし何かあったら……」

「何、鉄にしても八にしても素人さんに手を上げるような真似はしませんや。どうせ揉め事になるのは分かってたこと。今夜あたりが後の喧嘩を先にする頃合いですぜ」

 ――たしかに歩兵屯所に入ってしまえば私闘はご法度。変なわだかまりを残して、後でごたごたすれば色々とお咎めを受けるのは必至です。今のうちに言いたいことを言わせてしまうのも算段のうち――と、ようやく腹を括った御隠居の胸元に、すっと銚子の口が差し出されますな。

「え?」と見返す御隠居に笑いかけたのはお春です。

かしらの言う通り、ここは鉄さんと八さんに任せて一献いかがです? 男連中のダミ声じゃ肴にはならないかもしれませんが」

「お、お春。お前も言いますね。喧嘩を目の前にして、怖くはないんですか?」

 問われたお春がくすりと笑います。

「鉄さんと八さんですもの。何が起きる気遣いもありませんよ。ね、かしら?」

 振られた頭は莞爾かんじと笑い、ゆっくりと頷きます。

「お春の言う通りだ。あいつらは俺の手下てかですぜ」

「ほう」という感嘆を胸に収めて、御隠居は改めて盃を取り上げます。避けられないことならむしろ楽しむのが粋というものですからな。

 さてくつろいだ御隠居が見やれば、何時の間にか八も加わって怒鳴り合いは最高潮でございます。

「大体、鉄の兄ぃがいけないんでやす。なんであっしまで歩兵隊に入らなきゃならないんでやす!」

「八、てめぇ、今になってそれを言うかよ! かしらと御隠居の前で承知したじゃねぇか」

「承知? 目上三人を前にしてあっしに何が言えるっていうんでやす? 承知はしやした、しやしたが得心はしてねぇ!」

「得心してなくても承知は承知だ。俺だって得心なんざしてねぇぞ!」

「え? 鉄さんも八さんも得心してないのに歩兵隊に入ろうっていうんですか?」

「おい若旦那……じゃねぇ、おめぇなんかもう信公で十分だ。おい信公。どの口でそれを抜かしやがる! 得心なんてのはてめぇ一人の算段だ。恩も義理もあるかしらや御隠居に頼まれりゃあ、曲げて収めるのが筋ってもんだろうが!」

「そうでやす。わっちだって同じだ。言いてぇことは山ほどありやすが、否の応の言う前に、ここまで育てて貰った恩と義理ってもんがありやす。受けずに済ましたら、お二方に鉄の兄ぃの顔まで潰すことになるんでやすぜ」

「……そ、それはつまり、私のことを思ってのことではなくて……」

 と言い掛ける信之助を容赦なくさえぎって、段鉄は言ってのけますな。

「当たり前ぇだあな。穀潰しの居候がどうなろうと知ったことじゃねぇが、万が一のことがありゃあ親御さんや御隠居が悲しむ。かしらの面子も潰れる。手前ぇじゃなくて、手前ぇを思う大人連中のために、俺達ぁ曲げに曲げて歩兵隊入りを承知したんだ」

 当然だろうというその口調に、信之助は愕然として膝を付きますな。

「……そんな。私は親の恩に報いるつもりだったのに、それが更に親を悲しませることになるっていうんですか?」

 その呆然とした有様を見て、段鉄は少し口調をやわらげます。

「その通りですぜ。この前の長州征伐は表向き引き分けたぁ言いながら、歩兵隊は五十人からの仏を出したと聞きますぜ。

 あの葬儀は盛大だったが、死んだ後でいくら立派な弔いをして貰っても間尺まじゃくに合うもんじゃねぇ。次があったら仏の数はあんなもんじゃ済まねぇでしょうや」

「そうでやす。歩兵隊にへぇるってことは、若旦那も鉄兄ぃもあっしも、その中にへぇるかも知れねぇってこってす。親御さんや御隠居が心配しねぇわけがねぇでやしょう?」

「し、しかし私は手柄を立てて……」

「手柄結構、結構毛だらけ猫灰だらけってね。手柄手柄と言ったって、仏になっちめぇばお終ぇですぜ。墓に布団は着せられねぇが、二本差させるわけにも行かねぇんだ」

「な、なら私はどうすれば……」

「だから最初から言ってるじゃねぇですか。俺と八が一緒に行くと。かしらが言うにぁ、二人ならただの知り合いだが、三人寄れば徒党だ。互いに助け合いやかばい合いも出来ようってもんですぜ」

「しかし、子供じゃあるまいし、それでは私の一分が立ちません……」

「いや、これが子供なら造作もねぇ。尻っぺたの一つも叩いて押入れに放り込めばお終ぇだ。ただ、何のかんの言ったところで若旦那の二本差しになりてぇって心根はしっかり見える。見えるからには手助けの一つもしねぇと男がすたるってもんですぜ」

「しかし……鉄さんも八さんもそれでいいんですか? 年季は五年ですよ?」

「ご自分がついさっきそれでいいと言ったじゃねぇですか。なら俺たちだって同じだ。それに上手く行けば俺たちだって二本差しになれるかも知れねぇ」

 そうしれっと言われて信之助は憮然としますな。

「そんなに上手くは行かないでしょう」

 途端に段鉄大破顔。

「そいつぁこっちの科白せりふだ」

 御隠居以下もそれを聞いて大笑いですな。

 あっという間に座がなごんで、信之助は少しきまり悪げではありますが、ほこを収めて膳に戻ります。

 そこににこにことお春が酌をして回り、一同改めて宴の再開とあいなります。

 八も言いたいことを言ってさっぱりしたのか、念願の玉子焼きに箸を延ばして舌鼓でございます。

「この出汁と塩加減の塩梅が何と言うか、堪りませんや。ああ、後五年は食えねぇのが本当に辛ぇなぁ」

 たしかにこの時代の玉子は貴重品。このような宴席でもなければ庶民の口には入りません。いくらまかない付きと言っても歩兵隊で玉子焼きが出るはずもないわけで、八の言葉には実感がこもっております。

 と、そこに「良ければこれも召し上がれ」という言葉と共に、手付かずの玉子焼きの皿がすっと差し出されます。

「これはかっちけねぇが……一体どういう風の吹き回しでやす?」

 ぽかんとした八に聞き返されて、お春が少しふくれますな。

「なによ。私は何時でも食べられるから譲ってあげたのに。そんなこと言うの?」

「で、でも、何時でも食べられるって……毎日そんな贅沢してるんでやすか?」

「さすがにうちじゃ作れないわよ。でも御隠居さんが寄り合いに行くことが多いでしょ。お土産の折り詰めに良く入ってるのよ」

 宴席に折り詰めで出た料理は、なるべく手を付けずに自宅に持ち帰るのがこの時代の風潮です。宴席に呼ばれるのは基本的にその家の当主だけですから、料理を家族や使用人にお裾分けしようということだったんですな。

「なるほど、そうだったんでやすか。なら遠慮なく戴くでやす」

 言うなり八は満面の笑みで箸を延ばし、お春はにこにことその食べっぷりを眺めていますな。

 と、そこで段鉄気が付いた。

「御隠居、お春は寄り合いって言ったが、そんなに始終しじゅうあるもんなんですかい?」

 そこで御隠居、含み笑いで曰く。

「昔は三日に上げず呼んだり呼ばれてたりしてましたが、今は隠居の身ですからね。玉子焼きが出るような宴席に呼ばれるのは……そうですね、年に一度あるかないかですね」

「おや、ということは……」

「鉄さん、その先は野暮というものですよ」

「違いねぇ、違いねぇが……こりゃあ八を巻き込んだのは早まったかも知れねぇな」

 と、思案を始めた段鉄に、笑いを含んだかしら曰く。

「ま、俺も気が付かなかったから、その辺は仕方ねぇだろう。それにこいつは八の性根を据えるいい切欠きっかけになるような気がするぜ」

 かしらにそう言われて、段鉄も頭を切り替えますな。

「まぁ、八はどこか腰が座ってねぇから、鍛え直すつもりで無理やり引き込んだってぇ腹もあるしな。ここは一つ、お春に相応ふさわしい男に仕込んでやりまさぁ。若旦那もそのおつもりで願いやすぜ」

 振られた若旦那、ちと苦笑しつつ。

「そりゃあ私も話を耳にしたからには一肌脱がせて貰うつもりですが……あの様子じゃ道は遠いですよ」

 見ればお春の分の玉子焼きまでぺろりと平らげた八。もう用は済んだとばかりに、他の皿に取り掛かっております。酒を飲まない男ですから、こうなるとお春も手持ち無沙汰、かといってきっかけもなしに自分の席に戻るわけにもいかない気配が見て取れます。

「あそこで一言、かっちけねぇ、美味かったぜ――とでも声を掛けられれば一皮も二皮もけるんだろうがなぁ」

「ま、その辺は鉄の言う通りだが、今の八じゃあ無理だな。仕方ねぇ、助け舟を出すか」

「はいはい、なら私が。お春、こちらにも酌をお願いしますよ」

「あ、御隠居さん。今すぐ」

 ――という一幕もありまして、宴は進み、そろそろ余興の一つも出ようかという頃……。


「お客人。そちらは丸く収まったようだが、ちと面倒ができたようですぜ」

 突然そう告げたのは、竿を置いてともで休んでいた船頭です。

「面倒?」と船頭がしゃくった顎の先を見たかしらの表情が変わりますな。

 五十間(百m弱)ほど先の右手で、二隻の屋根船が絡まるようにして舷を寄せ合っています。どちらの船にも船頭らしい姿は見えず、しかも流れに任せて漂う二隻の片方には人影がなく、もう一方で人影がしきりに動いている様子。

 何か揉めごとらしいと察したらしい近くの船では皆、ともに船頭が立って忙しく竿を操っております。どうやらあの二隻から離れようという気配です。

 その辺はまぁ当然といえば当然で。助けを求める声でもあればともかく、逃げ場のない川の上で厄介ごとに巻き込まれたくないのは人情です。

 で、この船の船頭も当然そのつもりで竿を手に取った――ところでかしらの低い声がそれを止めますな。

「待った。悪ぃがあの二隻に寄せてくれねぇかい?」

「え? 離れるんじゃねぇんで?」

 船頭としては当然の問いですが、今夜の客は普段とはちと違います。

「離れる? 莫迦言うねぇ。こちとら『か』組の鳶だ。厄介ごとを見ぬふりで済ますわけには行かねぇさ」

「え? あ、そう言えばその印半纏は……」と言葉を飲み込んだ船頭は、持っていた竿に力を込めます。まぁ心中では「面倒な客を乗せちまったなぁ」とか思っているのかも知れませんが、その辺は客商売。顔に出したりは致しません。

 船は船頭に任せて舳先に立ったかしらと段鉄。闇を透かして二隻の様子を探りますが、月明かりがあるとはいえ、仔細は分かりません。

「鉄、どう見る?」

「こいつぁ喧嘩か急病人ですぜ。片方の船が空っぽというのは余程のことだ」

 と、そこに口を挟んだのが信之助でございます。これが八なら聞かれるまで口を出さないんですが、そこは組の人間ではない者の気安さですな。

「いや。病人ではないですね」

「おや、若旦那、その理由わけは?」

「船頭の姿が見えませんよ。船が二隻なら船頭も二人、一人が病人の手当てをしているにしても、もう一人は何時でも船を出せるように待っていないとおかしいでしょう」

「なるほど。たしかに病人なら一刻も早くおかに上げるのが肝心だが……とにかく今は声が聞こえるところまで寄るのが先か。船頭さん、もう少し急いで……」

 と、かしらともを振り返って声を掛けようとした時。

「きゃっ!」

「危ねぇ」

 声を上げたのはお春と八です。

 慌てて振り返ったかしらと段鉄の目に映ったのは、月影に煌く銀色の輝き。

「野郎、抜きやがった」

「大川で刃傷沙汰とはいい度胸だ。八、船頭さんに合力だ!」

「合点でやす!」

 言うなり八は船縁ふなべりを走ってともの船頭の元へ。足元に置かれていた予備の竿を持ち上げるなり、ずぶりと川底を突きますな。さすがは組の若い者。色恋沙汰には朴念仁でも、言われれば直ぐに動けるよう心づもりをしていたと見えます。

 広いとはいえ、竿で操れる深さの大川です。船頭が二人になってぐんと船足が上がり、絡まったまま漂う二隻に向かうと……。

「お、声が」

「何言ってるか分からねぇが、ありゃあ女の声だな」

 風向きが変わったのか、悲鳴混じりの女の声に混じって、瀬戸物の砕ける音や舟板を踏み鳴らす音も流れて参ります。

「鉄、どう見る?」

「へい。刃物をぶつけ合う音がしねぇ。こいつは喧嘩じゃねぇ。押し込みだ」

「ああ。遠慮はいらねぇ。こっちは獲物鳶口を持つなよ」

「承知の上で。元より立ち回りするつもりはありませんや」

「よく言った。血の匂いがしねぇから怪我人はまだねぇだろう。ここは……待てよ」

 と、かしらは一旦言葉を切り、改めて段鉄、八、信之助の三人を順ぐりに見回します。

 その上で赤仁王の平八、どんと腹を据えましたな。

「鉄、ここはおめぇに任せた。きちんと始末を付けて見せろ」

「え? かしらはどうなさるんで?」

「俺は後詰だ。何かあったら遠慮なく出張るが、折角歩兵隊に入ろうっていう命知らずが三人もいるんだ、ここは任せようじゃねぇか。御隠居、如何です?」

 振られた御隠居、ちと思案してみたものの、すぐににっこり笑いますな。

「たしかに信之助は組の者じゃないが、いい運試しです。ここで遅れを取るようでは歩兵隊なんぞ夢のまた夢ですからね。しっかりやんなさい、信公」

 と、正面から言われて、信公こと若旦那の信之助も息を呑みます。

 元より荒事にはとんと縁がない男ですが、なけなしの男気をはたいて歩兵隊入りを押し通した以上、ここで引くわけには行きません。少し思案した後で。

「わ、わかりました。でも……その信公は勘弁して下さいな」

「何、きちんと始末を付けたなら、信之助様でも信さまでも好きなように呼んであげますよ。お春、そうでしょう?」

 呼ばれたお春はにっこり笑い。

「はい。喜んで」

 聞いた段鉄にやりと笑い。

「よし。ならまずは手配りだ。八、その竿はどうだ、使えそうか?」

「え? 今使ってやすが……」

「違う違う、おめぇの道楽に使えるかって聞いてるんだ」

「道楽? あ、あれでやすか。背丈たっぱが伸びちまったから難しいでやすが……一回こっきりなら何とか」

「よし、なら先鋒はおめぇだ。見たところ段平抜いてるのは三四人だ。飛び込んだらまず灯りを吹き消せ。連中が面食らったところに俺と若旦那が行く」

「大丈夫でやすかい?」

「なぁに、船は狭ぇから人数の少ねぇ方に利があるってもんだ。かまわねぇからどんどん落としちまえ。ただ火の元だけは気を付けろよ」

「当たり前でやす。火消しが火を出しちゃあ洒落にならねぇや」

「よく言った」と、八との算段を付けた段鉄、信之助を振り返って。

「こっちは向こうの灯が消えるのが切欠きっかけだ、連中に後ろから体当たりして川に落としますぜ」

「わ、私に出来ますかね?」

「こういうことは出来る出来ねぇじゃねぇ。やるかやらねぇかですぜ。なぁに、狭い船の中で段平だんびら振り回されたって、頭を低くしてればかすりもしねぇ。後、組み付くのはももですぜ。膝より下じゃあ蹴飛ばされるし、腰じゃあ踏ん張られちまう」

 そこまで言われて信之助も覚悟を決めた模様。

「わ、分かりました。やります。やって見せます!」

「良く言った。後は……。そうだ、お春。手燭に火を入れて行灯と一緒に隠す用意をしてくれ。向こうの灯が消えた後、もう一度点いたら始末が付いたってことだ。頭の手が使えるように、手燭を持って後から来てくれ。頭、こんなもんで如何で?」

 感心した風で聞いていたかしら、一つ頷くと太鼓判を押しますな。

「見事だ。後の始末まで算段するとはやるじゃねぇか。後は乗り込むまで目をつぶっているよう言えば上々吉だったがな」

「あ、それでは切欠きっかけが分からねぇんで……」

「おいおい、俺は後詰だと言っただろう。切欠きっかけくれぇは俺が出すぜ」

「かたじけねぇ、ではお願ぇできますかね」

「言うにゃ及ぶ」

 そう言うとかしらはお春に命じて膳を取り下げさせ、足場を確保しますな。

「御隠居、そこから動かねぇで下せえよ。お春、灯りを隠せ。三人は目をつぶれ、船頭さん、願いますぜ」

 言われた船頭も腹を決めた様子。

「ここまで来たら一蓮托生だ。行きますぜ」

 真っ暗になった中に水音が響き、月明かりがようやくかしらの目に映り始めた頃には、絡み合った二隻はもう指呼の間に迫っています。とはいえ、まだ飛び移る程近くはありませんが――かしらはそれに構わず低く声をかけますな。

「八、行け!」

 ともから小声で「応!」と返って、八が船縁を鳴らして舳先へさきへ突っ走ります。水平に構えていた竿を行く手の川底に突き立てると同時に船板を蹴り、くんとしなった竿に身を任せ、竿の反動に乗って更に宙へ向かいます。

 昔取った杵柄きねづかという奴で、竿一本で屋根に飛び上がるのは八の得意技。竿の戻りに身を預け、頂点で足を揃えて伸ばした瞬間、ぴしりと音がして竿にひびが入ったようですが、その時はすでに竿は手の外。八は二隻の屋根船の絡まったあたりを目がけて飛び降りております。

 実はその時、闇の向こうで誰かが「ふぃーるやっぺん?」と叫んでいたのですが、段鉄たちの耳には届きません。

 大きな水音と飛沫しぶきが上がって二隻の船は大揺れ。抜身を振り回していた連中が蹈鞴たたらを踏んで腰砕けになったところで、落ちてきた八はその場で転がって衝撃を逃がし、二本立っていた百目蝋燭を吹き消します。

 まさか空から人が降って来るとは思わない段平連中は突然の闇の中で右往左往するばかり。まず一人が八の体当たりで水柱と共に消えたあたりで、残った連中がようやく気付き、八に向き直りますが――そこに「今だ!」というかしら切欠きっかけで背後から突っ込んで来たのが段鉄と信之助でございます。

 直前まで目をつむっていた段鉄たちには月明かりだけで充分。対する狼藉者の刀はきらきらと光るばかりでかすりもしません。おまけに狭くて天井の低い屋根船のこと。天井板に斬り込むわ、柱に刀を噛まれるわでどうしようもありません。

 気が付けば最後の四人目が水飛沫しぶきと共に消え、カチカチという火打ちの音と共に蝋燭が灯ると、そこに浮かび上がったのはただ唖然とするばかりの客と二人の船頭でございます。

 見たところ客はどこぞのおたなの主人夫妻と見える年配の夫婦者と、娘髷を結った娘が二人。後は手代らしき青年と女中の計六人。船頭の一人が縛られているところを見ると、こちらが襲った連中の船頭ですな。さすがに船頭までぐるだったわけではないようです。

 頃はよしと乗り込んできたかしらが、

「怪我はねぇかい?」

 と笑い掛けた途端、御内儀らしき女性がふぅっと倒れますな。余程気を張っていたと見えます。

「お、こりゃあいけねぇ、おいお春」

 と言い掛ける間もなく。続いていたお春が手燭を持って駆け寄り、早速脈を取り、胸元をくつろげて介抱を始めます。

 それを見てやっと我に返った女中が手拭いを濡らそうと船縁に向かう一方で、安心していいのか母親が心配なのか自分でも分からない娘たちが泣き出し、手代らしき男ははそれを慰めるのに掛かり切りになりになっております。

 一転して蜂の巣を突いたような騒ぎになった船の中で、ようやく落ち着いたらしい主人が礼を言い掛けるのを制して、かしらは縄を解かれた船頭に声をかけますな。

「どうだ、竿は使えるか? 名前は何だ?連中は何処から乗せた?」

「へ、へい大丈夫でやす。左之助と申しやす。奴らを乗せたのは美寿々屋からで」

「ふむ」と一つ頷いたかしらがもう一人の船頭に同じことを尋ねます。共に美寿々屋の船と知って眉をひそめますが、今は詮索している暇はありません。

「よし、ならば左之助さんは一足先にこの件を自身番に届けてくれ。空船なら逆潮さかしおでも行けるだろう。俺達は潮目が変わってから二隻で美寿々屋に行く。

 で、ご主人、ここは見ての通り取り込み中だ。良かったら俺達の船に来てくれねぇかね。ことのあらましぐれぇは知っておきてぇ。おい鉄、後は任せたぜ」

 最後は様子を見ていた鉄への指図ですな。

 一礼して出て行く主人を見送って、鉄は残りの二人と手分けして落とした連中が浮いて来ないかと見張りを始めます。

 とはいえ、開け放しの船内から漏れる蝋燭の灯りが邪魔をして、すぐ近くの川面かわもを見るのが精一杯。泡こそ幾つか浮いたようですが、当人たちは沈んだか流れたか定かではありません。

 と、鉄がすだれを降ろすよう船内に声を掛けた時。闇の向こうから声が掛かりますな。

「おうぃ、落ちたのは何人だぁ?」

 どうやら水柱が上がったのを見て、様子を見に来た船がいたようです。

 揉め事はご免でも、人が落ちれば災難です。さすがに見て見ぬふりは出来ないと見えて、声のする方とは違うあたりでも灯が幾つも動いております。

「四人だ」

 と、返す段鉄に、闇の中から応えが来ますが、さすがに一度に四人は多いと見えて、声が一段高くなりますな。

「四人? 何があった、喧嘩か?」

「いや、押し込みだ」

「押し込み? 大川でか?」

「昨今は物騒だからな」

「違ぇねえ。落ちたのは押し込み連中だけか?」

「ああ、こっちは皆別状ねぇ。おかにも知らせをやった」

「あ、離れて行った空船がそれか。何か手伝うことはねぇか?」

「かっちけねぇが、今のところは……いや、気が向いたらで構わねぇから、連中を捜してやっちゃあくれねぇか? 投げ込んでそれっきりっていうのも何か寝覚めが悪ぃ」

「分かった。元よりそのつもりで居たんだ。まぁ押し込みと聞いて捜す気ががっくり失せたがな」

「そいつぁ済まねぇな」

 と、段鉄が軽く返す頃には船も互いに近づき、互いの姿がうっすらとですが見て取れますが、すだれが降りている上に船中に灯りが無いので様子が分かりません。舳先に提灯を持って立っているのが話している相手でしょうが……あれ? 様子が……と、段鉄が目をこすった時。

「なんの、おめぇさんのとがってわけじゃねぇさ。……にしても、押し込み四人を相手に無傷たぁ大手柄だな。俺は陸軍所の高澤ってもんだが、おめぇさんの名は何という?」

 と、いきなり名乗られて、段鉄肝を潰します。陸軍所というのは以前は講武所と言って、幕臣の軍事訓練を行っている所。いわばお上の役所でございます。

「り、陸軍所? お侍でやすか! これはいかい失礼を……」

 今まで気安く話していた相手が侍と知って、鉄はわたわたするばかり。しかし相手は悠然としたものです。

「何、侍たって今出来だ。気にするこたぁねぇよ。で、まだ名前を聞いてねぇが?」

「こ、これは申しわけねぇこって。わっしは『か』組の小頭で段鉄と申しやす。この船は……いけねぇ、客の名前を聞いてなかった。今頭かしらを呼んで参ぇりやすんで」」

「いやいや。それには及ばねぇよ。町方の邪魔をするつもりはねぇさ。そうか、『か』組か。流石さすがだな?」

「へ、へぇ。他の連中も鳶仲間でやす」

「なるほどの、鳶なら身軽な上に度胸が座ってるのも道理……大鳥殿の言うこともあながち間違いじゃあねぇようだな」」

 と、高澤某なにがしは何故か妙に得心した様子。

「へ? 大鳥様?」

「いやいや、それはこっちの話だ。聞き捨ててくれ。曲者が四人落ちたってぇことを他の船に触れなくちゃならねぇから、そろそろ行くぜ」

「へ、へい。最後までご丁寧に有難うございやす。高澤様もどうかお達者で」

 と、段鉄が頭を下げたところで向こうは舳先を返し、離れて行きますな――実はその船の中でもう一幕あったのでございますが、それは今は別の話。

「まさか侍だとは思わなかったぜ……」と呟いた段鉄は、その場にどっかと腰を下ろし、残りの二人に声を掛けます。

 先に来たのは舷側にいた信之助ですな。

「狼藉者たちは今の船が捜してくれるそうだから、一息入れましょうや。しかし、若旦那、意外とやるじゃねぇですかい」

 ねぎらわれた信之助。同じように腰を下ろして答えますな。

「意外は余計――と言いたいが、私が落としたのは結局一人だけ。後は鉄さんと八さんの手柄ですよ」

「いや、抜身相手に素手で一人てぇのは中々のもんだ。意外と荒事に向いてるんじゃねぇですかい?」

 言われて気付いたらしい真之介、ぶるりと身を震わせますな。

「そ、そうでした。夢中で忘れてたが、相手は刀を持ってたんだ……どうしよう、今になって震えが来ましたよ」

「何、今なら幾ら震えてもかまいませんや、好きなだけ震えておくんなせぃ」

「そんな他人事だと思って」

 と、そこに艫にいた八もやって参ります。

「兄ぃ。今の船は何だったんでやすか? 見張りはもういいんで?」

「おう、八も今日は手柄だったな。今の船のお侍が身軽で度胸があると褒めてたぜ」

「お侍? なんでまた」

「いや、落ちた連中を捜す手伝いをしてくれるというんで一寸ちょっとな」

「へぇ、それは奇特なこって。でもまぁそういうことなら一息入れさせて貰ってもいいんでやすね?」

「おう、そのつもりで呼んだんだ。構わねぇぞ」

 と、同じように腰を据えた八。どうやら言っておきたいことがあるようでございます。

「にしても、連中、何だったんでやすかね? ただの物取りとも思えねぇんでやすが」

「そういや、明るいところで奴らの風体ふうていを見たのはおめぇだけだな。ただの物取りじゃねぇってのはどういうことだ?」

「いえね。わちきにはそれなりに真っ当な侍に見えやしたんで。あれは押し込み強盗をするような食い詰め浪人じゃあねぇでやすよ」

 言われて段鉄、少し考えて曰く。

「なるほどの。そういやぁ組み付いた時もぷんと樟脳しょうのうが匂ったな。着たきり雀じゃねぇってことか」

 と、そこに信之助も何かを思い出した様子で……。

「そう言えば、私の落とした奴の着物はちぢみでしたよ。多少くたびれてはいたが、あれは多分、越後縮えちごちぢみだな」

 越後縮ちぢみは越後で産する麻織物で、上等な夏の着物を仕立てる時に使いますが、庶民はあまり着ません――というか、それなりに余裕がないと夏専用の着物までは手が出なかったんですな。

「え、触っただけで分かったんですかい?」

 つまり、段鉄は気付いていなかったということでございます。

「その辺は、物心付く前に教え込まれましたからね。今でもそのくらいなら分かりますよ」

 帯と着物は組み合わせて使う物。着物を知らずに帯屋は勤まりません。

「さすがは帯屋のせがれだが……

 ――と、三人が額を集めている間にようやく潮目が変わったと見えて、周囲から一斉に竿を使う水音が響き始めますな。

 段鉄たちのいた船でも船頭が声をかけ、段鉄たちが腰を上げたところに、手燭を持ったお春が迎えに参ります。

かしら暇乞いとまごいをするから来るようにと」

「おお、お春も今日はお手柄だったな。御内儀はもういいのかい?」

「ええ。大丈夫だと思います。念の為におかに着いたら医者に見せるそうですが」

「ま、念を入れるのはいいことだ。じゃあ俺たちも行くか」

 と、段鉄以下とお春を加えた四人は、客たちに向かって頭を下げているかしらの後ろに直りますな。

 その気配を察してかしらが姿勢を改め、

「この度は勝手を致してご迷惑と存じますが、非常の事ゆえ、曲げてお納め願います。後のことは町方にお任せ致しますので、何卒宜しくお願い致します」

 ――という型通りの暇を告げ、それを主人あるじが受けて百万遍もお礼を述べたところで、一同は自分たちの船に戻ります。

 この辺りの機微も今の人には分かり難いところですが、ことが終われば向こうは大店の一家でこちらは只の火消し鳶でございます。助けられた方と助けた方ではありますが、それぞれに立場というものがありますから、こういう段取りが必要なんでございますね。

 さて、やれやれという様子で自分たちの船に戻った段鉄たちを、心から安心したという様子で御隠居が迎えます――が、ねぎらいの言葉もそこそこに、持ち出して来たのは一振りの刀。それも鞘のない抜身ですが、少し曲がっているようです。

「御隠居、何か分かりましたかい?」

 そうかしらが尋ねたところを見ると、二人の間で話は通っているようですな。

「私は質物の刀を散々見分してますからね。つかを外して銘を見るまでもありません。これは今出来の鈍物なまくらものですよ。今は刀の値も上がっているとはいえ、そうですね。こしらえ(刀の外装)込みで二分にぶ(一両の半分)するかしないかでしょうね」

「二分?」

 と、一同がざわめきます。二分は年期を入れた当時の職人の年収の二十分の一ですから庶民にとって大金には違いありませんが、武士の持つ差料さしりょうとしては貧弱過ぎる代物です。

 と、段鉄がかしらに尋ねますな。

「この刀、連中の残したものですかい?」

 かしらは一つ頷き、言葉を継ぎます。

「ああ、向こうの屋根船の柱に食い込んでいた奴を抜いてきたが、二分なら得心だ。ま、押し込みにふさわしい獲物と言やぁその通りか」

 そこで、段鉄が何か思い付いた様子。

「なるほど……時に、越後縮の着物ならどの位の値が付きますかね?」

 問われた御隠居、ふむと思案して。

「越後縮? 今は時期だから……大きな汚れやほつれがなければ二分にはなるでしょうが……一体何の話です?」

「いえね。実はこっちも気になってたんでさぁ」

 と、八や信之助の話も加えて語ると、かしらは益々難しい顔になりますな。

「客の話じゃあ顔には見覚えがねぇそうだが……」

「そいつぁけぶ(不思議)だ。それなりの格好の侍が、四人掛かりで見ず知らずの商人あきんど一家の船に押し込んだてぇことですぜ」

「まぁ、見ず知らずってぇのは客の言い分だが……近年横行している薩摩盗の中にゃあそれをかたる不心得者も混じってると聞く。無ぇ話じゃあねぇだろう」

「……しかし、舟遊びの商人あきんどを襲っても碌な金にゃあならねぇですぜ」

「それはもっともだが……いや、俺たちが気付くくれぇだから、町方(町奉行所)が見逃すはずがねぇだろうよ。こっちはこれから色々とあるし、下手な思案は止めて、大人しくお調べを受けるのが吉だな」

「なるほど。それも道理には違ぇねぇ。おい、八、聞いたか?」

 と、段鉄が八に顔を向けると、なんと八公、ぽっと上気した様子でぼんやりしておりますな。

「おい、かしら大事でぇじな話をしてるんだ。なに呆けてやがる」

「あ、あ、へい。何でやす?」

 ようやく気が付いた八ですが、見るからに上の空でございます。

「まぁいい。今日の手柄に免じて叱りはしねぇが、一体何を考えていやがった?」

 と、問われた八公。頬を更に赤くして一言。

「いえ、暇乞いの時に初めて正面から見たんでやすが、あの三國屋の姉娘、別嬪べっぴんだったなぁ、と……」

 途端に、傍らのお春がきっと八を睨み付け、ぷいと横を向きますな。

「おっと、こいつはいけねぇ。潮目が変わっちまったぜ」


 お後が宜しいようで。

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