第三夜

 えー本日も一杯のお運びで、結構なことでございます。

 今夜も引き続き『戊辰異聞・臥煙戦記』にてご機嫌を伺わせて戴くのでございます。


 さて、屋根船での押し込みの件のあと、変わった潮目に乗って両国の船宿、美寿々に着いた段鉄たちですが、彼らは助けた方ですから、町方に深い詮索をされることもなく放免されます。

 そして翌朝。昨日決まった歩兵隊入りには自分たちにも証文が必要というわけで、朝餉あさげを終えた段鉄。八と共に出掛けます。

今日も暑くなるだろうという朝の日差しの下、和泉橋を渡って神田久右衛門町の人宿までやって来たところで……。

「兄ぃ、えらい人出でやすね」

「ああ、こんなに人がたかっているのを見るのは久しぶりだ。おめぇが最初に聞き込んだ時もこうだったか?」

 と、段鉄が八に尋ねたのも道理で、行く手の大路は人波で埋まり、目的の人宿の看板すら見えません。更に人出を当て込んだと見える屋台店まで出ていて、さながら縁日の仲見世か両国の如き有様。

「いえ、あの時は直にここに来たわけじゃねぇですから。で、どうしやす? 出直しやすかい?」

 問われた段鉄、かぶりを一つ振ります。

「いや、あの若旦那もこの人混みを掻き分けて証文を入れたんだろうさ。俺たちが尻尾を巻くわけにゃあいかねぇよ」

「それもそうでやすね」

 と、二人は覚悟を決めて列に並びますが、そこで段鉄気が付いた。

「にしても、どう見ても五尺二寸は無ぇような連中もいるのはどういうわけだ?」

 段鉄が首をひねる通り、たしかに列を作っている者の多くは元陸尺(駕篭かき)や元折助とおぼしき大男たちでございます。

 この五年前の文久二年(一八六二年)に参勤交代の制が緩められて一時期に在府する大名の数が減り、当然、登城行列の数も減って、職を失う陸尺や折助たちが増えていました。幕府はそこに目を付けて歩兵を募ったわけですが、そういう大男たちに混じって、遊び人風の連中や破落戸ごろつきとしか見えない手合いがかなり並んでいるんですな。

 しかも人が多すぎるから列は一向に進みません。その内に日は高くなる、風はそよとも吹かないというわけで、法被や着物をかざして日除けにしていた男たちも目に見えて苛立って参ります。

 元より粗暴で悪名高い折助、陸尺連中です。そろそろ何か起きそうな気配だぜ……と段鉄が心づもりをして間もなく、前方でわめき声が上がり、どっと列が崩れます。

 火事と喧嘩は江戸の花。普段の段鉄なら鳶口担いで飛び出す所ですが、生憎今は素手。おまけに日除けの法被や着物が邪魔をして見通しが効きません。

 それでも無理矢理肩をじ込んで進む内、最初の争いとは離れたところでも怒鳴り合いやら小突き合いが始まり、後はもう滅茶苦茶でございます。

「小突くんじゃねぇ」「うるせぇ、突いたのはてめぇだろう」「何ぃ、やるなら相手になるぜ」「いい度胸じゃねぇか、掛かって来い!」「やっちまえ!」

 ――という具合で、一旦火が付くと手が付けられないのがこういう手合いでございます。しかも、「いいぞ、もっとやれ」「騒げ、騒げ!」「騒ぎゃあこっちのもんだ!」などと煽る手合いまで現れます。

 こいつぁいけねぇ――と、段鉄が更に一歩出ようとした時、

「静まれぇい!」と一喝あって、男連中の動きが一瞬止まります。

 決して大きな声ではないのですが、腹にずんと来る響きに一同が固まる中、人垣が割れて六尺程の棒を持った一人の侍が姿を見せます。

 年の頃なら三十がらみ。講武所風に月代さかやきを狭く剃ったまげは町方には見えませんし、羽織に着流しで供も連れておりません。さしたる身分とも思えませんが、

「天下の往来で騒動とはさぞや仔細があろう。申してみよ」

 そう尋ねる声には並々ならぬ迫力があります。

 ところが最初に騒動を起こしたらしい陸尺の方は頭に血が上っております。しかも相手が侍だろうと誰だろうと、一度振り上げた拳を押されて下ろしやぁ仲間内に顔向け出来ねぇ――というのが彼らのさが

「うるせぇ! どサンピンの出る幕じゃねぇ、放っときやがれ!」

 と大口開けてわめく間もなく、腰の脇差を引き抜いて振りかざします。

 と、その瞬間。侍が手に持っていた棒をつ、と脇差のきっさきに合わせますな。途端に陸尺の表情が変わります。

 力に任せて脇差を押し込もうにも棒は微動だにせず。これは、と思って引けば、つつっとまるで糊で貼ったごとく棒が付いて来る。どう振り回そうと棒は離れす。あっという間に陸尺は大上段に振りかぶった形にさせられた――と思った瞬間、棒が離れてくるりと回り、がら空きになっていた陸尺の脇の下をはっしと打ち据えます。

 講談ならば正に、何でふ以て堪ろうや――と名調子が入る所で、ずてんどうと倒れた陸尺は最初の勢いはどこへやら、息も出来ない様子で悶絶しております。

 打たれたのは肋三枚あばらさんまいといって、人体の構造上どんなに鍛錬しても筋肉が付かない場所。一撃されると横隔膜が麻痺し、呼吸困難になって昏倒してしまうんでございますね。

「悪ぃが、貰ってるろくはサンピンよりは多いんでな。その分は働かなきゃならねぇんだ。で、次は誰だ?」

 そう言って棒をトンと突いた侍が見回すと、居並ぶ大男連中はざざっと下がりますな。余りの手並みにすっかり毒気を抜かれたと見えて、声を上げる者もおりません。

 一つ頷いた侍は棒を肩に戻し、口を開きます。

「よし。俺は陸軍所の高澤三九郎というもんだ。歩兵の口入れに揉めごとが絶えねぇと聞いて出張って来たが、様子はおおよそ分かった。今日の所はこのまま散るがいい」

「え? じゃあ今日は無駄足かよ」「巫山戯ふざけるな、俺は何もしてねぇぞ」「今日は酒手は出ねぇのかよ?」等々、男連中はぶつぶつと不満を漏らしますが、さすがに面と向かって口にする者はおりません。

「おい、安兵衛。これからは陸軍所が人を出す故、酒手はご法度だぞ」

 そう高澤三九郎と名乗る侍に言われて、影に隠れていた人宿の手代らしき男はぺこぺこ頭を下げております。

 それを見ながら段鉄、今日の人集ひとだかりの理由が腑に落ちますな。

 ――なるほど。どうやら昨日も騒ぎがあって、鎮めるのに酒手が出たらしいな。それが知れ渡ってこれだけ人が集まったと見えるが……待てよ、高澤三九郎?」

 と、改めて侍に目をやった所で、当人と目が合います。

 見合った二人は一瞬固まりますが、同時に声が出て、

「あ、昨日の夜の……」

「おう、お前も居たのか、たしか『か』組の鳶だったな」

 と、手招きされます。傍に寄った段鉄一礼して、

「へい、段鉄で。道理で聞き覚えのある口調かと」

 と、返すと、高澤三九郎にやりと笑い。

「これか? 習い性という奴で、今更変えられねぇんだ。それよりいい所で出会った。昨日のふぃーるやっぺん者は一緒か?」

「え? ふぃーるやっぺんたぁ何です?」

「お、済まん済まん。昨日竹竿で飛び込んだ奴は一緒じゃねぇのかと聞いてるんだ」

「竹竿ってぇと八ですな。たしか一緒に来たはずだが……」

 と、段鉄が見回すと、引き上げていく男たちを縫うようにしてこちらに向かって来るひょろ長い姿が見えます。

「お、いやがった。おい八、こっちだ」

「兄ぃが一人で先に行っちまうから、わっちは……」

 と息を切らせて愚痴る八を押さえて段鉄。

「おう、悪かったな。それはともかくまずご挨拶だ。こちらは昨日、狼藉者を捜すのを手伝ってくれた陸軍所の高澤様だ」

「へ? 昨日の? それはまた有り難いこってす。わっちは『か』組の若い者で八と申しやす」

 そう頭を下げる八を鷹揚に見て、高澤三九郎はにこりと笑いかけます。

「おお、そうかそうか。おめぇさんがあのふぃーるやっぺんをやってのけたんだな」

「ふぃーる……何でやす?」

「それを今聞かせようと言うんだ。おう段鉄、少し暇はあるか?」

「そりゃまぁ、今日は散れと言われところですから、特に用はありませんぜ」

「よし、なら、ちと頼む」

 と高澤三九郎がいざなったのは歩兵の口入れを扱っていた人宿でございます。

 日影に入ってほっとしたところで、高澤三九郎が安兵衛と呼んだ男と何やら話し始めますが、その様子ではどうやら手代ではなく主人だったようですな。しきりに頭を下げているのは表の時と同様で、あまり威厳があるとは見えません。

 結界を立て並べた中で手代たちが書き付けの束を繰っているのを眺めている内に、話を終えたらしい高澤三九郎が先に立って歩き出します。

 長い土間を進んで行くと明るくなり、ちょっとした中庭に出ます。この暑さで植木は心持ちぐったりしていますが根元の枝葉には露が宿り、きちんと世話されている様子が伺えますな。

 母屋側は縁側になっていて座敷が幾つか並び、その一つに草履を脱いだ高澤三九郎が招くまま段鉄と八が続くと、小奇麗な座敷には夏座布団が用意され既に茶が出ております。

 八は元より段鉄とて、人宿の奥座敷などに上がるのは初めてです。物珍しげに天井の具合などを見ておりますと、茶を一服喫した高澤三九郎がおもむろに口を開きます。

「人宿に来るのは初めてか? 中間を入れる先の用人やらご家老が来るから、こういう座敷がないと困るのさ」

「へぇ、そういうもんでやすか。あっしたちのような者が上がっても宜しいんで?」

「何、かまわねぇよ。俺ぁただの御家人たぁいえ今はお上の名代だ。この人宿には千人からの歩兵の口入れを任せるんだから、精々虎の威を借りさせてもらうさ」

「おや、虎の威ですかい。高澤様もおっしゃぃますね」

「なに、自分が虎だと勘違いしねぇよう、言い聞かせてるのさ」

 段鉄の軽口を受けて自嘲気味に応えた高橋三九郎ですが、それを聞いて段鉄舌を巻いた。

 ――なるほど。このお侍、腕が立つだけじゃねぇ、中々の切れ者らしいぜ……。

 とは思いつつ、ならばこそ変なお世辞は言わぬが吉と見定めた段鉄。間を持たせようと、改めて天井のあたりに目をやります。

 それに気が付いた高澤三九郎。

「おいおい、座敷の天井がそんなに珍しいのかい?」

 問われて段鉄、思わず頭をかきますな。

「あ、こりゃあ申しわけねぇ。いえ、天井というか梁の様子を見てただけで」

「梁? おめぇは鳶だろう?」

 高澤三九郎が訝しがるのも道理。鳶職は建場たてば(建築現場)の足場を組むのが役目。実際に建物を建てるのは大工の役目です。

「いや、たしかに仰る通りでやすが、鳶には鳶の見方って奴がありやしてね」

「鳶の見方? 初耳だな。ちくと聞かせてくれねぇかね?」

「いや……そんな大したことじゃねぇんですがね……おい八」

 と、急に段鉄に話を振られた傍らの八公。例によって飛び上がりますな。

「へ? な、何でやす?」

 おたおたする八に構わず、段鉄は言葉を継ぎます。

「この座敷、何人要る?」

「え? ここだと……」

 問われた八。一瞬で表情が改まり、再度天井を見上げますな。

「かなり梁が太ぇ……多分十人……いや十五人は要た方がいいかと……」

 それを聞いた段鉄、思わず頷きますな。

「おう、よく見た。だが、ここの座敷は四間続きの二間目だ。ここじゃあなく、取っ付きの座敷から縄を引きゃあ、八人もいりゃあ充分だ。後は順に倒せばいい」

 言われた八、思わず膝を打ちますな。

「あ、そうか。ここだけ倒してもしょうがねぇんだ」

「そういうこった」

 と、もう一度頷いた段鉄、向き直って、

「これが鳶の見方って奴でさぁ」

 そう告げられて、

「うーん、何の話かと思えば……どう建てるかではなく、どう倒すかが鳶の見方か。凄ぇ話だな」

 と、高澤三九郎が唸るのも道理。火消とは云い乍ら当時はまだ強力な放水ポンプがありませんから、火元に水を掛けても文字通り焼け石に水。周囲の建物を引き倒し、類焼を防ぐ破壊消防しか手が無かったんですな。

 だから火消しの道具は水桶ではなく、鳶口や掛矢かけや(大木槌)でした。如何に早く、そして最小限の破壊で火を食い止めるかが火消の腕の見せ所だったわけですが――そこで高澤三九郎が首をひねります。

「妙だな。おめぇほどの鳶が、なんでこの人宿に来たんだ? 酒手目当てか?」

 問われた段鉄、ぽんと手を打って。

「あ、やはり。昨日は酒手が出たんでやすね?」

「ああ。ここの主人あるじは代替わりしたばかりで勝手が分からねぇ。昨日の騒ぎを鎮めようと考えなしに酒手を出しやがった。おかげで噂になって、今日はもっと大事おおごとになるところだったが……おめぇたちはそれを聞いて来たんじゃねぇのかい?」

 問われた段鉄、手を振って、

はばかりながら、そこまでちちゃあいませんぜ。歩兵隊に入りに来たんで」

 そう聞いて高澤三九郎、少し顔をしかめますな。

「そりゃあ感心なことだが……他に能のねぇ定火消の臥煙連中ならともかく、町火消しにゃあ鳶っていうまともな職があるだろうに、どういう風の吹き回しだ? やはり給金が目当てか?」

「いえ、そりゃあ年十両はありがてぇが、本当の所は浮世の義理という奴で」

 そう応える段鉄をじっと見て、高澤三九郎言葉を継ぎます。

「仔細がありそうだな。よし。まずそっちの話を聞くとするか。俺は陸軍所で歩兵差図役ほへいさしずやくを勤めてる。事と次第によっちゃあ俺の下に付くかもしれねぇからな」

 と、言われても、段鉄や八にはその歩兵差図役がどの位のお役目なのが見当も付きません。高澤三九郎もそれは承知していて。ま、仕方ねぇかと教えてくれたところによると、

「歩兵差図役ってぇのは、一個小隊四十人を差図さしずするお役目で、俺の下は並の歩兵だけだな。昔で言えば足軽大将みたいなもんだ」

 近代の陸軍で言えば中尉当たりの階級でしょうか。

 高澤三九郎が一番下っ端の指揮官と聞いて、段鉄は思わず声を上げますな。

「あれだけの腕があるのに、一番下なんですかい?」

 言われた高澤三九郎苦笑いです。

「腕と言ったって、鉄砲の前には剣術やっとうなんぞ物の役に立ちゃしねぇさ。まぁ俺のことはいい。それよりそっちの仔細という奴だ。ちくと話しちゃくれねぇか?」

 と、水を向けられて、段鉄は若旦那と歩兵隊の一件を語ります。

 聞かされた高澤三九郎。「ふむ」と腕を組み、尋ねますな。

「……ということは、その信之助とかいう元若旦那は昨日もいたんだな?」

「へぇ。かしらに、歩兵隊に行く命知らずが三人揃ったんだから、お前ぇたちだけで片を付けて見せろと言われて、八の後に俺と一緒に乗り込みましたぜ」

「ほう。抜身相手に中々の度胸だな。何か手柄を立てたか?」

「へっぴり腰だがちゃんと一人落としましたぜ。まぁ、向こうはもっとへっぴり腰だったんだが……」

「たしかに抜身の四人で素手の三人にやられるようじゃあ、お前ぇの言う通りだろうが……そういう時にちゃんと動ける奴は侍にもそういねぇ。見上げたもんだ。で、そいつらは何者か分かったのかい?」

「いえ、襲われた客に言わせると、見たことのねぇ顔だそうで。身成は普通の侍みてぇでしたぜ」

 と、段鉄が狼藉者を落とした後のかしらや御隠居との話を付け加えると、高澤三九郎難しい顔になりますな」

「あの後、しばらく辺りを探したんだが、見つかったのは着物一枚きりだった。上物たぁ言えねぇがみすぼらしいってほどでもねぇ、ごく普通の代物だ。差料は二分と云ったが、昨今の貧乏侍なんぞ皆似たようなもんだろう……とはいえ、たしかに理由(わけ)が見えねぇな。で、おめぇたちはどうするんだ?」

「どうするも何も、後は町方の仕事ですぜ。気にはなるが邪魔するわけにもいかねぇ。後は任せてお沙汰を待ちますぜ」

「ふむ。それが上分別という奴だろうな。委細は分かった。で、話を戻すが、その信之助とやらは五尺二寸あるんだな?」

「へぇ、肉は余り付いちゃいませんが。背丈たっぱはこの八と同じ位ぇです」

「なるほど」と頷いた高澤三九郎、手元に置いてあった棒を取ると立ち上がり、

「八とやら、そこへ立て」と、言い付けます。

「へ?」と、不得要領顔に立ち上がった八の尻をぱんと叩いた高澤三九郎曰く。

「ふむ、それなりに肉は付いておるな。踵を合わせて背筋を伸ばせ、よし、それで良い。動くなよ」

 素早く持っていた棒を宛てがい、頭が棒の先に出ているのを認めて「うむ」と頷いた高澤三九郎。続けて段鉄に。

「念のためだ。お前も立て」と言って、同じように棒を宛てがいます。

 棒の先が明らかに眉より下なのを見て「これは良い」と相好を崩した高澤三九郎。二人に座るように言って、自分も改めて腰を下ろします。

「信之助とやらが八と同じ背丈なら決めは越えておるゆえ、お雇入れに不都合はないな。それにこの話は、言ってみれば信之助とやらの我儘わがままだろう。ならば当人の好きにさせるのが道理と思うが?」

「仰る通りで。ただ、これが知らねぇ青瓢箪なら気にもしねぇが、かしらと後見役に頭を下げられたらそうはいかねぇんで。恩と義理を忘れた鳶なんざ、忠義のねぇ侍みてぇなもんで、お天道様の下を大手を振って歩けませんや」

 言われた高澤三九郎、少し苦い顔で、

「その辺りを突かれると侍の端くれとしては言葉もねぇが、心根は承知した。その信之助とやらの了見も分かる。なにせ俺も似たようなものだからな」

「あ、そう言えば昨日、今出来とか……」

「ああ。親父殿にねだって御家人株を買って貰った。自分の力で二本差しになろうという分、その信之助の方が覚悟は上かも知れねぇな」

「そういうもんでもねぇでしょうが……それはともかく、こちらの仔細は済みやした。次は高澤様の番ですぜ」

 相手の軽い口調に毒されたか、何時の間にか段鉄の口調も砕けていますが、その辺はさすが高澤三九郎。気にした様子もありません。

「お、そうだそうだ。肝心の用を忘れていたぜ。おい、八とやら。あの竹竿を使った技は何と言う? どこで修行した?」

 振られた八、一瞬きょとんとしますが……。

「へ? 技? あの竹竿飛びのことでやすかい? 別に名前は付いてねぇでやす。修行ってほどのもんじゃなくて、昔出初でぞめの稽古をしてた時の名残りでやすよ」

出初でぞめ? そう聞けば得心しそうになるが、俺は出初でぞめであんな技を見た覚えはねぇぞ」

「あ、そりゃあ当然でやす。ありゃあまだ技じゃねぇんで」

「技じゃない?」

「へぇ。出初でぞめの技の一つに、支えなしの竹竿を一本立てて、その上で軽業をやる一本乗りてぇのがありやしてね。あれはその竹竿を立てた後、離しただけなんでやす。火消で屋根に上がるのに便利なんで稽古してただけでやすよ」

「おう、そう言われれば見たことがあるぞ。竹のしなりだけを頼りに天辺に登り、逆立ちしていた。そうか、あの途中で手を離せば梯子なしで屋根に登れるし、ふぃーるやっぺんにもなるというわけか……」

「その、ふぃーるやっぺんとかいうのは何でやす? 兄ぃは知ってやすかい?」

「いや、俺も聞いたことがねぇ……江戸の言葉とも思えねぇ響きだが……」

 と、首を傾げる段鉄に高澤三九郎、にこりと笑って。

「さすがに勘がいいな。ふぃーるやっぺんというのは和蘭陀おらんだの言葉さ」

「和蘭陀? 和蘭陀にも鳶がいるんですかい?」

「いや、鳶みてぇな職人はいるだろうが、連中が出初でぞめをやるという話は聞いてねぇな」

「なら何故……」

「まぁ聞け。今年の始め、お上が仏蘭西ふらんすから呼び寄せたお雇いが来たのは知ってるか?」

「へ? 和蘭陀の次は仏蘭西ですかい? それはどこの国で?」

「和蘭陀の近所にある大国だ。間に一つ別の国があるが、まぁ地続きと言っていいな。お上は三兵(歩兵・騎兵・砲兵)の伝習を仏蘭西に頼んだわけだ。

 だが、さすがは本場の連中だぜ。歩兵隊の良くねぇ所をどんどん変えて、生まれ変わらそうとしてる。新しく歩兵を募るのも、連中の建白による所が多いと聞くな」

「へぇ……じゃあ俺たちも歩兵隊にへぇったら、その仏蘭西のお人とやらに調練させられるんで?」

「ああ。本場仕込みだから並大抵じゃねぇぞ……と、いけねえいけねえ、話を戻すぞ。実はその仏蘭西人の一人が、昨日の俺の船に乗ってたのさ」

「へ? あの屋根船にですかい?」

「ああ。舟遊びの話を聞いて、一度でいいから乗せてくれとの、たっての望みでな」

「そりゃあ。すだれを下ろして灯りを消してるわけだ」

「まぁ、開港地以外で西洋人が顔を晒したら色々不都合があるからな。お忍びという奴さ。で、仏蘭西人にも風情は分かると見えてご満悦だったんだが、そこに例の狼藉だ。早く助けに行けということになって近付いたら……」

「先に飛び込んだ奴らがいた……」

「そういう事だ。で、最初にその八が飛び込んだのを見て仏蘭西人が、あれはふぃーるやっぺんだ、日本にもあれを出来る奴がいるのか。名前を聞け! と大騒ぎだ。それを何とか鎮めて俺が声を掛けたってぇわけだ」

「なるほど、あの船にねぇ……で、結局、そのふぃーるやっぺんってぇのは何なんですかい? 和蘭陀の言葉だってぇ話だが、言ったのはその仏蘭西人でがしょう?」

「さっきも言ったが、和蘭陀と仏蘭西は地続きで、隣同士みてぇなもんだから人の行き来も多いのさ。相手のことは互いに良く知ってる。で、実は和蘭陀ってぇのは海に面した浅瀬を干上げて土地を広げて来た国だ」

「干上げ? 築地の埋め立てみたいなもんですかい?」

「まぁ似たようなもんだろうが、向こうは干上げた海だから土地が低い。堀割やら溝がやたらとあって、橋はあるが数が足りねぇ。そこで和蘭陀人が考えたのがふぃーるやっぺんだ。棒を使って溝を飛び越す技だな。上手ぇ奴なら二間三間(三・六米から五・四米)は飛ぶらしいぜ」

「そいつぁてぇしたもんだ。鳶顔負けですぜ」

「ああ。昨日乗っていた仏蘭西人は、和蘭陀人から聞いた技を日本人が使ったんで驚いたってぇわけさ。しかし、あれが出初でぞめの技の出来損ないたぁ思わなかったぜ」

「こっちも和蘭陀で似たことをやってる連中がいるとは思いませんや」

「まぁそこでやっと本題だ。八よ。素人から初めてあの技を修得するにはどの位かかる?」

 逸れていた矛先が急に戻って来て、八は目を白黒させましたが……、

「へ? どの位と言われたって……お持ちの棒位の長さでも、半年や一年じゃあ無理でやすよ」

 そう言われて高澤三九郎は傍らの棒をちらりと見ますな。先ほど使って見せたように、武道で使う六尺棒を歩兵雇入れの基準(五尺二寸)に合わせて切ったものです。

「なるほど。やはり長さで変わるか」

「へぇ。子供なら多少話は違うんでやすが、大の大人が長い竿を倒さずに立てるまでは一苦労でやす。力を入れ過ぎれば折れるし、入れなきゃあしならねぇ。その塩梅を見極めるのが難しいんで。わっちも背丈たっぱが伸び過ぎたんで諦めたんでやす」

「む? 待てよ。それは一本乗りの話だろう。お前ぇがやったふぃーるやっぺんが出来るようになるにはどのくらいかかる?」

「へ? わっちがやったあれですかい? ……昨日の竿は二間(三・六米)でやしたが……半分の一間でも、一番端を持って飛ぶにゃあ鳶でも一月二月。素人となると半年くれぇはかかるんじゃねぇかと」

「なるほどの。段鉄、おめぇの見立てもそんなもんか?」

「へぇ。そんなもんだと思いますぜ。鳶の稽古をしてねぇ奴にやらせるのはちと酷だし、鳶でも俺のようにがたいがありゃあ、ちと難しい」

 そう聞かされた高澤三九郎、難しい顔で腕を組みますな。

「そうかぁ……仏蘭西人は、あれをやれば腕や腹、脚に力が付く。日本人は身体に変な癖が付いていて碌に駆け足も出来ねぇが、あれが出来るようになれば歩兵に相応しい動きが出来る――とご執心だったんだが……それだけのために半年は使えねぇな」

 この時代、身体各部の筋肉を鍛えるための器械体操の用具(鉄棒、跳び箱、バーベル等)はまだないんですな。だから仏蘭西人教官は竿一本で四肢を鍛え敏捷性を高められるなら――と考えたのでしょう。

「……なるほど。何の話かと思ってたが、高澤様はあれを歩兵の稽古に使うつもりだったんですかい。しかし、竿飛びはともかく、駆け足ぐらい誰でも出来ると思いますがねぇ」

「いや、それがそうじゃねぇんだな」

 と高澤三九郎が言うのには理由があります。これも今の人には分かり難いことなんですが、当時の日本人は腕と足と互い違いに振っての駆け足が出来なかったんですな。皆ナンバと言う歩き方で、同じ方の手足を一緒に出して歩いていました。

 一度試してみると分かるんですが、この歩き方だと出した方の足に重心がかかる――つまり身体が揺れるんですな。農作業でくわを使うような力仕事には向いていますが、そのまま駆け足しようとしたら、身体がふらふらしてどうしようもありません。

 不審げな段鉄には構わず、高澤三九郎は続けます。

「歩兵の動きの初手は駆け足だ。どれだけ早く敵との間合いを詰めるかが肝心で、遅れを取れば守勢に回っちまう。なのに、鉄砲を背中に負い、手足を交互に振って走るっていう初手の初手が出来ねぇ。兵賦令で集められた在の者(旗本の領地の人間)はもちろん。武術をやっていた旗本御家人でも出来ねぇ」

「……じゃあ、俺たち鳶にもその手を振る駆け足ってぇのは出来ねぇんですかい?」

 未だに得心の行かない様子の段鉄ですが、高澤三九郎はにべもありません。

「お前ぇ、手を振って走ったことがあるかい?」

「え?」と段鉄は言葉に詰まりますな。

 鳶は火事場に急ぐために駈けますが、小は鳶口や掛矢、大は梯子やまとい等の火消道具を担いでいますから、手を振ること自体が無理でございます。これは駆けることが商売の飛脚や駕篭かきでも同じで、手を振るという考え方そのものがなかったんですな。

「たしかに手が塞がってるから振ったりはしねぇが……振ると速くなるもんですかい?」

「おお、出来るようになりゃあ分かるが、身体の軸がぶれねぇから速ぇぞ。それに鳶なら身体を動かすのにも慣れてる。少し身を入れりゃあすぐに出来るようになるさ」

 と、歩兵差図役はお墨付きをくれましたが、これがお世辞半分なのは段鉄にも分かります。却って眉間の皺が深くなって……。

「……しかし聞けば聞くほど色々大変だ。鉄砲担いでえっちらおっちら歩いてるだけじゃねぇんですね……」

 言われた高澤三九郎また苦笑いです。

「おいおい。その鉄砲担いで歩くてぇのは、それだけでも大変なんだぜ」

 言われた段鉄としては「そんな莫迦な」と返したいところですが、相手は現役の歩兵差図役です。簡単に笑い飛ばすわけには行きません。少し考えて曰く、

「うーん。昨日は若旦那に了見の甘さを説教しやしたが……どうやら歩兵隊は一筋縄じゃ行かねぇお役目のようだ。ここは一つ若旦那も入れて、もちっと詳しい話をお願いできませんかね?」

 思いも寄らぬ段鉄の申し出に、高澤三九郎は「む」と考え込みますな。とはいうものの高澤三九郎が見る所、この段鉄という鳶は中々のおとこです。無論特別扱いするつもりはありませんが、自然にそうなってしまうような予感がしたのでしょうか。一つ頷くと、にっこり笑いますな。

「承知した。だが、ここから先は外の人間にゃあ話せねぇことも多い。信之助とやらはもう証文を入れたそうだが、おめぇたちはまだらしいな。入れてくれるかい?」

「言うにゃあ及ぶ。元よりそのつもりで出て来たんでさぁ。八、おめぇもいいな?」

「へ? いいかと聞かれるってぇことは、断ってもいいんでやすかい?」

「莫迦。そんなはずがねぇだろう」

「でやすよねぇ。ま、覚悟は昨日の晩に済ませやした。わっちも構いませんや」

「よし。暫し待て」

 そう言うと高澤三九郎、手を叩いて店の者を呼び、証文を用意させますな。それに段鉄たち二人が署名爪印致します。と、その証文を改めて。

「ふむ。八が仮名書きなのはともかく、段鉄、おめぇは真名まな(漢字)じゃねぇか。良く書けるな」

「なに、これでも住んでる所と名前くれぇは書けますぜ」

「そうか……こいつぁ拾い物だったかも知れねぇな……」

 と段鉄に聞こえないように呟いた高澤三九郎。誤魔化すように声を張りますな。

「よし。これでおめぇたちは俺の下に付くと決まった。その若旦那も呼んでこれからちくと話をしてやろう。よしか?」

 問われた段鉄、一瞬ぽかんとしますな。

「よしか……って。これからですかい?」

「おう。俺はこれから屯所に戻って顛末を報告したら用済みだ。お前ぇたちも用はねぇんだろう?」

「へぇ、わっしらの用は今済みやしたし、若旦那もこの暑さじゃどこにも出てねぇでしょうが……」

「よし、なら決まりだ。暮れ五つ(今の午後四時頃)に三人一緒で小川町の屯所に来るがいいや。席は用意しとく」

「へ? 宜しいんで?」

「何、決めの日が来て屯所入りすりゃあ上役と下役だが、それまではただの知り合いだ。気にするこっちゃねぇさ」

「そういうもんですかい?」

「そういうもんだ」


 ――というわけで、舞台はその日の暮れ五つ、小川町の歩兵屯所に移ります。

 場所は今の都営地下鉄新宿線の小川町駅のあたり。今ではスキー用品の大型店が立ち並ぶビル街ですが、当時は大名や旗本の屋敷が並ぶ屋敷町でした

 さて、神田の口入れ屋から若旦那を呼びに戻った段鉄たちが、頃合いを見計らってやって参りますと、見えてきたのは延々と延びた白壁でございます。

 屯所はどこも武家屋敷を潰して建てられていたので、外周の白壁と門だけは残っていたんですな。で、その門の両脇には夏服の白服筒袖と黒いダンブクロ姿の門衛が立っております。

 既に話が通っていたと見えて、段鉄が用件を伝えると門衛の一人が素早く銃を背負い、奥に向かって駆け出して行きます。

 ――お、あれが駆け足って奴か。たしかに速ぇや……と見る内に、ダンブクロが二人になって戻って参ります。

 あれ? と段鉄たちがいぶかる中、最初に駆けて行ったと思しき一人が素早く元の場所に戻り、「ささげぇええーーーーっ!」と叫んだと思うと、二人の門衛は見事に揃った動きで小銃を素早く持ち上げ、目の前に垂直に掲げます。

 ――お、何か凄ぇぞ、と眺めていた段鉄たちですが、ぴしりと決めた二人の門衛の間を鷹揚に出て来た三人目を見て仰天した。なんと高澤三九郎その人でございます。

 門衛の「直れ!」という声を背に、近づいてきた歩兵差図役。

「待たせたな。お、そっちの青瓢箪が信之助とやらか。俺は歩兵差図役の高澤三九郎だ。宜しく頼むぜ」と、声を掛けますが……。

 掛けられた信之助の方は目は白黒、口はぱくぱく。またもや夏場の金魚の如き有様になっております。それでも何とか声を絞り出して……。

「は、はい。信之助でございます。この度はご無理をお聞き届け戴き誠に……」

 と挨拶を述べようとしたのですが、その辺はさすが高澤三九郎。面倒くさそうに手を振って、

「あ、そういうのは今日はなしだ。もっとも今日はなしと言ったからって、明日はあるってわけじゃねぇがな」

「は、はぁ……」

 信之助はもう完全に毒気を抜かれております。

「話は店に入ってからだ。こっちだぜ」

 と、先に立って歩き出した高澤三九郎に続きながら信之助、隣の段鉄に小さな声で、

「気さくなお侍と聞いてはいましたが……聞きしに勝るとはこのことですよ」

「なぁに、話が始まりゃあ、あんなもんじゃねぇぞ」

「それは楽しみなような怖いような……しかし何でダンブクロなんでしょう? お侍ですよね?」

「ああ。昼は普通の侍姿だったが……何か仔細があるんじゃねぇか」

「仔細とは一体……」

「それをこれから聞きゃあいいじゃねぇか」

「そうでした」

 と、信之助が額を打った所で、

「おう、ここだ。構わねぇから奥へ入れ」

 そう高澤三九郎がいざなったのは、掘割を背にした小奇麗な料理屋です。あたりに香ばしい匂いが漂っていますから、何を出すかは考えるまでもありませんな。

 座敷に上がり、奥の床の間を背にした高澤三九郎。卓を挟んで向かい合った段鉄、八、信之助の三人に話し掛けます。

「鰻はせんに注文しておいたから焼き上がるまで邪魔は入らねぇ。で、何が聞きてぇ?」

 問われて段鉄、少し思案しますが、すぐに隣の信之助の方を向いて。

「そういや若旦那。聞きたいことがあったんじゃねぇですか?」

 振られた信之助、一瞬ぽかんとしますが、直ぐに気が付いて……。

「聞きたいこと? ……あ、そうだ。高澤様。そのお姿は一体どういうことなんでございます?」

「ん? これか? 歩兵差図役が歩兵の格好をしてるだけだが……何かおかしいか?」

 白い上着の両袖を内から持って奴凧のようにぴんと張った高澤三九郎が、不思議そうに尋ね返します。

「そ、そう言われてしまうと困りますが……たしか高澤様はお侍でございましょう?」

「ああ。これでも百俵取りだぜ」

 当時、町奉行所の与力の扶持が五百俵(二百石)前後でした。裕福とは言えませんが、そこそこの扶持でしょう。

「へぇ、百俵。それなのに並の歩兵と同じ格好で、お腰の物も一本だけというのはどういうことなんです?」

 それを聞いて高澤三九郎、合点が行った様子です。

「ああ、それか。歩兵が皆同じ格好なのにはわけがあってな。違う格好をしてると戦場いくさばで目立つのさ。それとこいつは脇差じゃねぇ。銃剣と云ってな、鉄砲の先に着けてやりのように使うためのもんだ」

 そう言って高澤三九郎は腰の差料を抜いて見せます。

 一尺三寸(約四十糎)ほどで反りがないその刀身を見て、信之助が訝しげに顔を上げますな。

「色が妙に黄色いような気がしますが……」

「ああ。こいつははがねじゃねぇ。真鍮しんちゅうさ」

「真鍮? あの天保銭の?」

 真鍮は銅と亜鉛の合金で、当時の主な用途は銭だったんですな。

「ああ。こいつあ切るんじゃねぇ、突くもんだ。先が尖ってりゃ何でもいいんだが、真鍮なら錆びねぇから手入れが楽なんだ。ただ高ぇぞ。それ一本五両だ」

「五両?」と三人が目を丸くするのも当然で、当時の職人の年収の半年分。普通の差料なら、きちんとした旗本が持つ大小が買える額です。

「狼藉者の刀が二分だったのにも驚いたが、この銃剣とやらにも驚愕びっくりだ。歩兵ってのはそんなに金がかかるもんなんですかい?」

 段鉄の問いに高澤三九郎は涼しい顔です。

「ああ、かかるぞ。新式の鉄砲が一挺十八両。銃剣が五両、着るものや身に付けるもので十両。もちろん弾丸たまや玉薬も要るし、毎日食わせて、おまけに給金が年十両だ。全部で幾らになる?」

 いきなり問われた段鉄と八。慌てて指を折り始めましたが、信之助は涼しい顔で、

「鉄砲その他で三十三両、給金が十両、締めて四三両ですね。消え物(消耗品)は別ですが」

「お、やるな。さすがは元若旦那だ。その通り、見た目を整えるだけでも俺の禄と同じくれぇかかるのさ」

 四三両なら八六俵相当。たしかに高澤三九郎の禄と同じくらいです。

「しかし……」と口を開きかけた信之助。一度高澤三九郎を見て、そのまま口を閉じてしまいます。

「ん? 何だ? 俺に遠慮してるのか? どうせ屯所に入りゃあ俺か俺の同輩の下に付くんだぜ。後で人から噂を聞いてあれこれ言われるのも業腹だ。今なら俺が直に話すぜ」

「……は、はぁ。そういうことなら是非お願いを致します。あの……高澤さまは元からのお侍ではないんですよね?」

「おう、段鉄に聞いたのか。その通り、元は上州の百姓の小倅こせがれさ」

「それが折角お侍になったのに、並の歩兵と同じ格好で差料も一本だけ。それでよろしいんですか?」

「よろしいとは?」

「私は二本差したくて歩兵隊に入るんでございます。なのに高澤様はそんなことは欠片かけらも気になされていないご様子。一体何故かと奇妙に思えてならないんでございます」

 言われた高澤三九郎、ぽんと手を打って。

「そうだった。おめぇさんは二本差したくて屯所入りを決めたんだったな。……そうか、そういうことならこの姿は気になるだろうな……よし。じゃあ俺がどうして侍になったかを話してやろう。それをどう見るかはお前の勝手だ。いいな?」

「は、はい。お願い致します」

 と一礼する信之助を少し皮肉げに見ながら、高澤三九郎語り始めますな。

「俺の家は上州で代々庄屋を勤めてる。戦国の昔は郷士だったらしいが、代々畑仕事に精出して来たおかげで今じゃ立派な百姓だ。

家にゃあ酉之助っていう兄貴がいるから、俺は庄屋を継ぐわけじゃねぇ。それをいいことに地元の道場に入り浸っている内に、師匠に師範代にすると言われた」

「師範代? そりゃあお強い」

 追従気味の信之助の口調を聞いて、高澤三九郎、じろりと一瞥しますな。

「べんちゃら使うんじゃねぇや、所詮は田舎流派だ。肩書きなんぞ大したもんじゃねぇが、形だけでも師範代ってぇことになると、師匠に代わって出稽古にも行かなきゃならねぇ。とはいえ、道場に来ずに出稽古を頼むってぇことはそれなりの身分てぇことだ。

 道場の板の上じゃあ互いに身分の隔てなんぞ気にしてる暇はねぇが、その前後は別だ。こっちの身分は百姓だから、相手のお屋敷に行っても大門から出入りは出来ねぇ。脇の潜戸を使うんだ。稽古を付けていた侍連中が、堂々と大門を開けさせている脇で潜戸を抜けるってぇのは面白くねぇもんだぞ」

「はぁ、そういうもんですか……」

 少しおだててみようと思ったらしい信之助。当てが外れたと見えて口調に力がありませんな。

「まぁ今ならそれはそれ、これはこれで気にもしねぇが、あの頃はまだ若かった。かと言って、どこぞの万石取りのご家老みてぇに、懇意の旗本と約定して出入りの時に先導させる――なんて真似が出来るわけもねぇ」

「へ? そんなことが?」

 まさか……という顔の信之助に、高澤三九郎はあっさり告げます。

「ああ。本当にあったことさ。何万石取っていても家老は大名の家来で陪臣だから、直臣(徳川家直属の侍、大名の当主と幕臣)の屋敷の大門を開けさせることは出来ねぇんだ。国元で大名並みの扱いを受けている身としては、潜戸を抜けるのは我慢出来なかったんだろうよ。ま、先導させた旗本が先手組だったってぇあたりは出来過ぎてるがな」

「はぁ。そりゃあたしかに出来過ぎだ」

 念の為。先手組は本営の先陣を勤めるお役目です。

「ま、侍も色々苦労があるってぇことだ。だがその頃はそんな苦労なんぞ分かっちゃいなかったから、俺も侍になりてぇと親父殿に願ったわけさ。親父殿も困っただろうが、折角師範代にまでなったんだからと、御家人株を捜して来てくれた」

 御家人は将軍へのお目見えが許されない軽格の幕臣で、その一番下の抱席かかえせきは、抱席一代限りといって、本来は家督相続が出来なかったんですね。

 ただ、お役御免になる時に子供や養子を新規に召抱えてもらう形で事実上の相続が出来たので、その養子になる権利が売買されるようになります。これが御家人株です。

「つまりご養子になった、と」

「ああ。幸い子供のいねぇ高澤作左衛門というお方の株が手に入ったんで、隠居後の面倒を見るという決めで養子に入り、後を継いだ」

「ちなみに如何ほどで?」

 そうおずおすと尋ねる信之助に、高澤三九郎にやりと笑い。

「値か? 親父殿は言を左右にして教えちゃあくれなかったが、まず百両より下ってことはねぇだろうな」

「ひ、百両? そんなにするんですか?」

 その金額は予想外だったと見えて、信之助が目を剥きます。実際には二三百両は軽くしたようですが、高澤三九郎はそれには詳しく触れません。

「昔の話だからな。で、晴れて二本差しになってお城勤めだ。一応納戸方の書役かきやく(書類方)としてのお役目だが、三番勤さんばんづとめ(三日に一日役目に出ること)だから出仕する日は月に十日もねぇ。残りの日は剣術やっとう三昧で気楽なもんだ。

 そうこうする内に作左衛門殿が亡くなり、それに前後して講武所開設のお達しがあった。講武所は知ってるよな?」

「ええ。お上が武芸奨励のために作ったお役所ですよね。……しかし百両か……」

「何だ? まだこだわってるのか?」

「いえ、十階の身で百両。いや、それより上なんて金は縁遠いなんてもんじゃありませんから、ここはやはり歩兵隊で身を入れるよりないと思うんですが……でも……」

「身を入れた挙句がダンブクロじゃあ面白くねぇか? だがな、これは言うなりゃあお役目の装束だ。非番の時はちゃんと二本差してるぜ」

「え? そう言えば段鉄さんが、昼は普通の侍姿だったと……」

「ああ。だがそれは、ダンブクロで鉄砲撃つ役目を貰ってるおかげだ。なにもしないで二本差してるわけじゃねぇぞ」

「それは……まずお役目が大事ということですか?」

「まぁそうだな。俺は御家人とはいえ抱席かかえせきだ。お役目が無くなりゃあもう幕臣じゃねぇから小普請組(無役の幕臣が入った組)にも入れねぇ。ただ二本差してるだけの浪人になっちまう。お役目が先で、二本は後だ」

「うーん」と考え込んでしまった信之助ですが、高澤三九郎は優しく笑い掛けますな。

「成るは良し、成ろうは悪しと云ってな。あんまり成りたい成りたいと思うのも良くねぇ。気が付いたらそう成っていた、ってぇのが一番さ」

「気が付いたら、ですか?」

「ああ。俺の剣術やっとうなんかそれだろうな。別に師範代に成りたかったり、免状が欲しかったわけじゃねぇ。ただ剣術やっとうが楽しくて毎日木刀振ってただけだが、気が付きゃあ師範代に成っていて、何時の間にか皆伝も貰ってた」

「皆伝? 免許皆伝ですか?」

「まぁな。貰うには貰ったが、別に何が変わるってぇもんでもねぇぞ」

「そんなことはないでしょう。講武所でも箔が付きそうじゃないですか」

 この辺りになると信之助の口調も大分砕けて参ります。高澤三九郎恐るべし。

「箔か……それがそうでもねぇんだな。講武所のお達しは、直参なら身分役目の上下無く武道を修めさせるから稽古に行け。更に格別抜群の者は新しくお役にも付けるし、加増もするってぇもんだったんだが……」

「それはお上も中々太っ腹だ。一頃やたらと武張った侍が増えて、麹町の裏手の野っ原で、額に付けた土鍋の割りっこをしてたのはそのためですかね?」

「ああ、焙烙ほうろく調練か。すぐに止んじまったがな」

「そういえば最近見ませんね。何かありましたか?」

「まぁな。やってたのは若手の旗本や部屋住み(まだ跡を継いでいない相続権を持つ男子、幕府の公式用語)、厄介(相続権のない次男より下の男子。同じく幕府の公式用語)連中だったんだが、一方の大将だった奴が馬から落ちて、鎧が重すぎてそのまま死んじまったのさ。あんまり褒めた話でもねぇから、自然にやる奴も居なくなったらしいぜ」

「それはご災難」

「自業自得とも言うがな。とにかく、何の武芸でもやりたいものをやれ――というお達しだったんだが。そこで俺は、はたと困っちまった。やりたいのは勿論剣術やっとうだったんだが、俺の流派には、剣を出世の道具にしてはならねぇっていう決めがあってな」

「それはまた難儀な……」

 信之助が驚くのも道理。そもそも剣の腕を認められて仕官の道を拓く――というのは剣術を志す者の当たり前の望みです。なのに、それをするなと言われてしまっては何のために剣術を志したのか分かりません。

 高澤三九郎、一つ首を振って曰く。

「全くその通りだが、それが俺の流派の決めだから仕方ねぇ。その決めを守って皆伝まで行ったからには、いくら腕に覚えがあっても、それでお役目に付くわけには行かねぇのさ」

「……それは何という流派なんてございます?」

 と、信之助、おずおずと尋ねますが……。高澤三九郎はにべもありません。

「何、只の田舎流派さ。卑下してるわけじゃねぇが、名乗って誇るようなもんでもねぇ。ま、それはともかく、剣術がいけねぇなら他のものにしなくちゃならねぇ。そこで色々考えた挙句、鉄砲にしたんだが、実はこいつが大当たりだった」

「鉄砲だけに大当たりですか?」

 聞いた高澤三九郎、笑いもせず。

「そんな誰でも思い付くような洒落で褒めて貰えると思うなよ。ま、とにかく鉄砲は人気がなかったから稽古する人間も少ねぇ。おかげでじっくり教えて貰えたし、やって見るとこれが中々面白ぇ。それなりに腕も上がって、気が付いたらお役目も戴いていたってえわけだ」

「あれ? これも気が付いたら……ですか」

「ああ。正にその通りだ。嫌々やるより楽しんでやる方がいい実を結ぶ。得てしてそんなもんさ」

「そういうものですか……。しかし……歩兵隊の調練を楽しんで、気が付けば二本差しになっていた――というわけには中々行かないと思いますが……」

「ん? それが分かってるだけでも大したもんだ」

 と、そこで入り口の襖がことことと鳴り、「お待たせしました」という女中の声がしますな。

「お、鰻が来たぜ。入ってかまわねぇぞ」

 そう声を掛けて、出したままだった脇差――ではなくて銃剣を腰に戻した高澤三九郎。並べられた鰻重を見て相好を崩します。

「ここの鰻は美味ぇんだ。暑気払いにゃあ丁度いい。遠慮なくやってくれ」

「へい、では失礼して」と、重箱の蓋を取った段鉄たち、載っている鰻の厚さに息を呑みますな。八あたりは段鉄に耳を寄せて曰く。

「あ、兄ぃ。わっちはこんな鰻を見るのは初めてでやすよ。幾らぐらいするもんで?」

「俺だって初めてだが……一朱(一両の十六分の一)より下ってぇことはねぇだろうな」

 職人の年収が年十両とすると月収は十三朱そこそこ。つまり二日分の給金より上という勘定になります。

「へ? 一朱? そんなにするんでやすか!」

 と、高澤三九郎顔を上げて、

「何? 鰻の値か? 気にするな。今日はおめぇたちが俺の下に付く前祝いだ」

「は、はぁ。そういうことなら遠慮なく」

 と、段鉄が箸を取ると、八も慌てて箸を持ち、一切れ口に入れて……。

「美味ぇ……」

 後は言葉になりません……というか、物も言わずに食べておりますな。

 信之助はさすがに元若旦那だけあってそれほどがっついてはいませんが、さすがにこれほどの鰻は珍しいと見えて、一口含むたびに何やら頷いております。

 で、段鉄は、と申しますと……半分ほどはやはり夢中で食べておりましたが、ふと箸を止めて……。

 ――一人一朱として四人で一分(一両の四分の一)。幾ら前祝いといったって、碌に縁のねぇ歩兵風情に食わせる飯の値じゃあねぇぞ。何かひっかかるな……。

 そう思って目の前の高澤三九郎の様子を伺いますが。歩兵差図役は八にも負けない勢いで食べている様子。かぶりを一つ振って段鉄。

 ――あの食べっぷりじゃあ、俺たちを出汁だしにして、好物を食いたかっただけかも知れねぇな……。

 などと考えている内に食事も終わり、美味そうに茶を飲み干した高澤三九郎。楊枝を使いながら信之助に話しかけますな。

「まぁ俺が侍になった経緯いきさつはそんな所だ。少しは役に立ったかい?」

 少しぼうっとしていた信之助。はっと気付いて。

「は、はい。色々と分かったような気がします。ありがとうございました」

 そう言って頭を下げますが、高澤三九郎は鷹揚に、

「いいってことよ。聞きたいと言われて出て来たんだ。役に立ったら本望って奴だぜ。で、どうだ? 他に聞きてぇことはねぇか? 八、おめぇはどうだ?」

 空になった重箱を未練げに眺めていた八。いきなり呼び掛けられて飛び上がりますな。

「へ、へい。何でやす?」

 それを見て高澤三九郎、ぽかんとしますな。

「器用な奴だな。座ったまま一尺(約三十糎)は飛び上がったぞ」

「いえ、身の軽いのだけが取り柄で、へい」

「さすがふぃーるやっぺんが出来るだけのことはあるな。あ、いや、それはともかく、何か聞きたいことはねぇのか?」

「わっちがでやすか? いえ、鉄の兄ぃを差し置いてわっちが……」

「なんだ。段鉄に遠慮してるのか。組じゃあどうか知らねぇが、歩兵隊に入りゃあ同格だ。気にすることはねぇぞ」

「へ? 同格? てことは鉄兄ぃに、おい鉄、肩揉んでくれ――なんて言っても構わないんで?」

「ああ、俺は構わねぇよ。ただ……」

「ただ……?」

「段鉄がどうかは知らねぇぞ」

 え? と傍らの段鉄を見ると、顔はにっこり笑ってはいますが、膝の上の拳が握り締められていますな。

「わ、分かりやした。今の話はなしで願いやす」

 高澤三九郎は苦笑するよりありません。

「長生きしたけりゃそれがいいだろうな。じゃあ、段鉄。おめぇはどうだ?」

 ゆっくりと膝の手を開いた段鉄、少し考えて、

「今時のお武家様ってぇのは本当に、あっしらが歩兵隊に入らなきゃならねえほど役に立たねぇんですかい? お武家様との付き合いがねぇんで良く分からねぇんですが」

 と、聞かれた高澤三九郎。真顔になって腕を組みますな。

「役方(行政職)はそれなりにやってるがな。番方(軍事職)連中は戦が仕事のはずなのに役に立たねえのは本当さ。そもそも侍の表芸は武術なんだから、今更講武所を作って奨励するってことからして妙な話だろう。ところがその折角の講武所で、一番人が集まったのは何だと思う? 弓術だぜ」

「へ? なんで又?」

「痛くねぇからな」

「あ、そりゃそうだ。弓なら叩き合いはねぇ」

 ぽんと手を打った段鉄に、高澤三九郎頷いて、

「今の侍はそういう手合いばかりさ。だから稽古も真面目にやらねぇ、やれ風邪をひいたのお役目だの言って稽古日に出て来ねぇくせに、上役が見に来る日だけ顔を出すってぇ具合だ。だからお上も見放して歩兵隊が出来たのさ」

「なるほどねぇ。頭が言った通りってことか……。で、その出来た歩兵隊ってのは役に立つんですかい?」

「おい、歩兵差図役に向かってその言い草たぁいい度胸だな」

 高澤三九郎にじろりと睨まれて、段鉄大慌てでございます。

「め、滅相もねぇです。ただ、良い評判が一向に聞こえてこねぇんで……。長州征伐で名を上げたってぇのは本当のことなんですかい?」

 段鉄の言葉に「む」と唸った歩兵差図役。少し考えて曰く。

「長州征伐か……ありゃあひどかった……」

「へ、高澤様は長州に行かれたんで?」

「おいおい、俺は歩兵差図役だぜ。歩兵隊が出たのに俺が行かねぇはずはねぇだろう」

「そうでした。それほど大変だったんで?」

 段鉄の問いに一瞬黙った高澤三九郎。苦い顔で……、

「大変なんてもんじゃねぇさ。俺が出たのは芸州口(広島側の攻め口)だが、初っ端に井伊の赤備え連中が出た。連中が徳川勢の先陣を勤めるのはご神君以来の定法って奴だ。

 だが、威風堂々と押し出して国境くにざかいの川にかかった所で、いきなり長州勢の鉄砲を食らった。後はもうてんやわんやだ。山の上から撃たれてるから、井伊勢は応戦しようにも姿が見えねぇ。山を登って反撃しようにも鎧兜が邪魔をする。撃たれ放題に撃たれて総崩れだ。

 ところが長州の兵隊の方は鎧なんぞ着てねぇから身軽だ。山の尾根を伝って先へ先へと回り込み、逃げ惑う赤備えを撃ちまくる。これでは連中も堪らねぇ。腰の物から先祖伝来の鎧兜まで放り出して、這々ほうほうの体で逃げ帰って来た。後の河原にゃあ、食い散らかした海老の殻みてぇに赤一色の鎧兜が転がってたというぜ」

「へぇ……井伊のご家中が味噌を付けたってぇ話は聞いてましたが……聞きしに勝る負け戦さじゃねぇですか」

「まぁな。長州は尊皇攘夷の総本山だから、井伊家から見りゃあかつての主君、掃部守様の仇みてぇなもんだ。家中が桜田門の敵討ちだ! と勇み立っていたんだが、いざその時が来たらこの体たらくさ。別口から攻め掛かった榊原勢も似たようなもんだ。散々に撃たれて逃げ帰って来やがった」

「榊原様といやあ、井伊様と並んで四天王のお一人でやしょう? そっちもそんな具合だったんで?」

 段鉄が言う四天王とは、家康に仕えた井伊直政、本多忠勝、榊原康政、酒井忠次の四人のことです。徳川四天王と呼ばれ、幕府開設後は皆大名になりましたが、その子孫は譜代(幕府創設より前からの徳川家家臣)大名の中でも別格とされていたんですな。

「まぁ、日頃から偉そうにしてた報いってのは別にして、こりゃいかんというので征長総督(総大将)の紀州侯の軍勢が出て、歩兵隊も加勢に行った。

 場所は大野という所だが、山が海に迫っていて道が狭ぇ。互いに高地の取り合いになって一進一退の戦になった。長州も抜けねぇが、こっちも抜けねぇってわけだ。

 今の鉄砲は凄ぇぞ。弾丸たまは四町(一町は約一○九m。大凡四○○から五○○m程度)くれぇは楽に飛ぶし、良く当たる。のこのこ歩いてちゃあいい的だし、目立つ格好もいけねぇ。先祖伝来の陣羽織を着てて狙い撃ちされた旗本は何人もいるぜ」

「へぇ、そんなに飛ぶんですかい……あ、だから皆同じ格好で……」

 思わず手を打った段鉄に、一つ頷いた高澤三九郎。

「そうさ。偉そうだと思われたら、狙い撃ちされちまう。頭がいなくなりゃ、下はどうしたらいいか分からねぇから総崩れだ。

 それに鎧具足ぐれぇじゃ種子島はともかく、今の弾丸たまは防げねぇんだ。鉄が薄いから当たったら破片かけらが爆ぜて肉に食い込んじまう。抜けるはずだった弾丸たまも肉の中に止まったままだ。ほじくり出す前に死んだ奴は多いぜ」

「そ、そうなんですか?」

 と怯えた声を出した信之助に、高澤三九郎にやりと笑い。

「おじけづいたか? まぁ、弾丸たまのほじくり出し方はその内教えてやるから安心しろ」」

「安心できませんよ……」

 と口を尖らせた信之助に構わず、歩兵差図役は話を続けます。

「それでまぁ、鎧具足は駄目だってぇことになって、侍連中は具足を脱いだ。これなら身軽だ。連中が前々から言っていた、鉄砲が遠い間合いから撃ってくるなら、こっちは引き付けて一気に斬り伏せる――っていう手が使えると思ったんだろうな。ひょっとしたら焙烙ほうろく調練のつもりでいたのかも知れねぇ。

 ところが向こうは四町離れてても当たるんだから、こっちが死ぬか逃げるかするまで間合いを詰めて来るはずがねぇ。なら弾丸たま込めの間に一気に――と思っても。実際の戦場いくさばは道場でも見通しのいい草っ原でもねぇんだな。

 間合いを詰めるったって、山の中の藪を掻き分けて行かねぇと相手の姿すら見えねぇ。藪に入ればたもとや袴の裾が枝に引っかかって身動きが取れねぇ。そこを狙い撃ちにされて、刀や鑓の出番は始まる前にお終いだ。

 結局一番いいのは鎧具足でも袴でもなく、長州の連中や歩兵隊の着ている筒袖ダンブクロだったってわけだ。となりゃあ長州の相手を出来るのは歩兵隊しかいねぇが、正直言って数が足りねぇ」

「へ? 何千人もいたんでやしょう? それが全部出たって聞きましたぜ」

「たしかに頭数はいたさ。滞陣していた大阪で集めた連中もいたしな。だが、人を集めて鉄砲持たせりゃあ歩兵になるってわけじゃねぇんだ」

「というと?」

「長州の兵は二人一組になってやがった。一人が撃つ暇にもう一人が離れた所で弾丸たま込めする。撃った一人が素早く身を隠して弾丸たま込めする間に二人目が撃つ。これの繰り返しだ」

「え? なんで場所を変えるんですかい? そのまま撃ちゃあいいじゃねぇですか」

「鉄砲を撃ちゃあ派手に煙が上がるんだぜ。その煙目がけて撃たれりゃあ一発でお陀仏さ。

 撃ったら隠れる。隠れて弾丸たま込めして次を狙う。これの繰り返しをやられたら同じ手で返すしかねぇが……こっちにゃあ歩兵の人数はいても、使える奴らが少なかったのさ」

「へぇえ? 隠れて撃つってぇのは、そんなに大変なんですかい?」

「段鉄、おめぇ、這いつくばったまま十間二十間(一間は約一・八m。大凡一八mから三六m程度)進んだことはあるか?」

「這いつくばって、ですかい? そんな事ぁやったこともねぇですぜ」

「だろうな。だが、今の弾丸たまは四町は飛ぶと言っただろう? それが出来なきゃあ撃つ前に撃たれちまうんだ。地べたに伏せたり物陰に潜んで進まなきゃあ、撃てる所まで行けねぇ。しかも向こうの弾丸たまがぴゅんぴゅん飛んでくる中でそれをやるんだぜ。並大抵の腕じゃあ通用しねぇのさ」

「なるほどねぇ……やっぱり鉄砲担いで歩いてるだけじゃねぇんだ……」

「少しは得心したか?」

「へえ。実際ほんとうのところは自分でやってみねぇと分からねぇんでしょうが……」

「信之助にも言ったが、それが分かってるだけでも大したもんだ」

「へぇ。ありがとうごぜぇやす。で、それからどうなったんで?」

「その後か? 後はもうそのまま毎日鉄砲の撃ち合いをしてたんだが、その間に石州口(鳥取方面)では大負けするし、小倉口(九州方面)でも旗色が悪くなる。このままじゃらちが開かねぇっていうんで、攻勢に出る事になった。増援を呼んで一気に大野を抜こうってわけだ。

 今度は歩兵隊が先陣になって二手に分かれて攻めたんだが、長州の連中も中々手強い。こちらが抜けないで苦労していたところに、折悪しくやって来た大嵐に乗じて逆襲してきやがった。今までのやつが児戯に思えるほどの撃ち合いだったが、歩兵隊は踏ん張った。ところがその足を引っ張ったのが例の井伊、榊原勢だ」

「又ですかい?」

「ああ。先鋒を歩兵隊に譲った後、自分たちは逃げる時に放り捨ててきた腰の物を広島あたりで買い込んで格好を付け、大野が抜けたら後に続く手筈でいたんだな。

 ところがそこに大嵐だ。目も開けていられねぇような雨風の中、突然砲弾を喰らって自分たちの大砲は潰される、どこから撃たれてるか分からねぇ。右往左往する内に山を越えて長州勢が突っ込んで来た」

「それはひでぇ。どこから大砲を撃たれてたんです?」

「山の向こうさ」

「へ? そりゃあこっちからは撃てねぇ」

「ああ。こういう時は無理矢理近付いて敵と入り混じり、向こうの大砲を封じるのが常道なんだが……そんなことを思い付いた奴はいなかったし、兵もそんな調練は受けてなかったんだろうな。井伊、榊原勢は刀を合わせるどころか、鉄砲一発撃てずに逃げ散っちまった」

「折角恥をそそぐ機会だったてぇのに……」

「たしかに段鉄の言う通りだが、肝心なのはそこじゃねぇ。連中がいたのは宮内村と言って、大野の手前の村だ。これがどういう意味か分かるか?」

「へ? 大野の手前? そりゃあ歩兵隊の後に続くつもりだったなら、居たのはその辺でしょうが……」

 と、そこで信之助が気付きますな。

「あれ? 井伊様や榊原様が逃げたってことは、その宮内村とやらは長州勢の手に落ちたってことですか? ……ということは」

 高澤三九郎は苦い顔です。

「ああ。後詰が消えて、大野の歩兵隊は長州勢の中に取り残されちまったってぇことさ。それに後で知ったんだが、その時にはもう、家茂様は大阪でお亡くなりになっていたそうだ。上はともかく一勝して長州に膝を着かせるつもりだったんだろうが、もう手はねぇ。無理矢理手打ちってことにして引き揚げて来たのさ」

「なるほどねぇ……。表向きは引き分けだとか和睦わぼくだとか言ってたが。皆が負けいくさだと言ってた通りですかい」

「ああ。日本国中の軍勢を集めたくせに、長州の領地で踏めたのは周防大島っていう小島だけで、それも直ぐに叩き出されてる。これが負けいくさじゃねぇなら。大阪の合戦も豊臣の負けじゃねぇだろうよ」

 そう言う高澤三九郎の言葉の端々には無念さが滲み出ております。この二度目の長州征伐の経緯は色々と複雑で、様々な勢力の思惑が絡んでいるのですが、現場の歩兵差図役にそれは分からないし、分かった所で何が出来るというわけでもありません。ただ、上に言われるまま必死で頑張って戦果も上げたのに、それが無になったことの悔しさが伝わって参ります。聞いた段鉄、さすがに得心した体で呟きますな。

「なるほどねぇ……さすがにこりゃあ証文を入れなきゃ聞けねぇ話だ……」

「ああ。分かってるだろうが、他言無用という奴だぜ」

「へい。それは先刻承知之助で。……てぇことは今度の口入れは、長州攻めで一番役に立った歩兵隊を増やそうって話でいいんですかい?」

「まぁそうだな。実は長州攻めの前に、お上は旗本に人数の代わりに金を出してもいいことにして、兵賦金て奴を出させた。その金でお上が直に歩兵を雇うわけだ。これで滞陣してた大阪でも人数を集めることができたんだが、さっき言った通り実際に戦ってみたら、役に立つ歩兵は存外に少ねぇのが分かった。

 そこでまだ長州で戦が続いていた最中に、番方(軍事担当)の旗本全員に鉄砲を持てというお触れが出た。軍役令という奴で、お城でかみしも着て威張ってた連中まで鉄砲を担げってぇ話になったんだな。講武所が陸軍所になって、陸軍奉行が出来たのもこの時さ」

「へぇ……そりゃあ大事おおごとだ……あ、だからかしらの言う通り、旗本連中が軒並み臆病風邪おくびょうかぜに掛かって隠居しちまったんですかい?」

「おう、良く知ってるな。その通りだが、臆病風邪は言い過ぎかも知れねぇな。書き物や判子に明け暮れていた四十過ぎ、五十過ぎのお役人に、明日から戦場いくさばに立てと言う方が無理ってもんだ」

「……でも、お侍が貰っているお扶持ってぇのは、いざという時に戦場いくさばに出るためのものじゃねぇんですかい?」

「その通りだ。だから当主が鉄砲を持つだけじゃなく、その家の禄に応じて人数を出させて、当主をその大将にしようというのが軍役令だったんだが、こいつは上手く行ってねぇんだ。

「へぇ、何でです? お旗本の軍役てぇのは元々、ご当主が人数を率いて出るのが常道でがしょう?」

 段鉄の素朴過ぎる言い方に高澤三九郎、何度目かの苦笑でございます。

「その通りだが、それが出来るならはなから苦労はしてねぇやな。大体、歩兵一小隊でも四○人要るんだぜ。最初は三千石以上の大身旗本は千石に付き八人という決めだったから、石高に直せば五千石分だ。

 中隊(一〇個小隊、四〇○人前後)なら五万石。大隊(二個中隊、八○○人前後)なら一〇万石分の人数を集めなきゃならねぇが、そうなると一隊作るのに何家分も寄せ集めなきゃならねぇ。これで上手く行くと思うか?」

「うーん、良く分かりやせんが……同じ隊の中に大将が何人も居たら、他の大将の言うことを聞きそうもねぇな」

 高澤三九郎、大いに頷きますな。

「ああ。正にそうなった。大将は皆大身旗本だから百俵取り風情が号令かけても聞きゃぁしねぇ。それどころか、格式だ家柄だと抜かして誰が一番偉いかで揉めた挙句、暑いと言って勝手に帰る。

 兵隊は兵隊で、人宿通しの人数合わせだから数だけはいるが、屯所に入り切らねぇから雇った旗本の屋敷住まいだ。ところが家によって扱いが違うから給料も食い物も違う。悪い扱いの家の奴らはやる気なんぞありゃしねぇ。無理矢理走らせりゃすぐへたり込むってぇ塩梅だ。こっちはお手上げさ。

 三千石以上の旗本だけでそれだぜ。続けて三千石未満の旗本にも人数を出させる手筈だから、これからどんな手合いが集まるか知れたもんじゃねぇし、一つの隊に一体何人の大将が出来るか見当も付かねぇ……」

「そいつは酷ぇ話だ……」

「ああ、全くだ。要は一人一人の旗本に募集から給料の手配まで任せるから碌なことにならねぇんだ。だったらお扶持を出した後、改めて金を出させるような面倒なことも止めて、先に軍役分のお扶持を召し上げちまえばいいって話ができかかってるところさ。

「なるほど、かしらの言う通りだ」

「ほう、この話はまだ沙汰してねぇはずだが……。ま、それはいい。

 その一方で、丁度頃合いに例のお雇い仏蘭西人が来た。さすがに連中は本職だ。これまでの歩兵隊で使えるのはほんの一部だと簡単に見抜いて建白書を出した。根こそぎ屈強な連中と入れ替えねえとどうしようもねぇってわけだ。

 長州征伐で苦労した歩兵隊の差図役の中にも、大鳥様のように、歩兵は身持ちより身体だ。頑健であれば無頼、破落戸ごろつきでも構わねぇ、いやむしろそっちの方が向いている――と力説していた人もいたくれぇだ。

 お上も莫迦ばかりじゃねぇから、その辺の所を考えたんだろうな。幸い、今年の九月に最初の兵賦令で雇い入れた歩兵の年季(五年)が明ける――ならばこの際、使えねぇ連中には暇を出して使える奴だけを残し、足りない分は無宿無頼の徒でも構わねぇから屈強な大男を集めよう――って話になって、お前ぇたちが来たってぇわけだ」

 そうあっさり言われて段鉄は色を成しますな。

「ちょ、ちょっと待って下せぇ。高澤様も仰ったじゃねぇですか。鳶は真っ当な稼業だ。無宿無頼の徒じゃねぇですぜ」

 そう言い募る段鉄に歩兵差図役は涼しい顔で、

「それは分かってらぁな。ただ上の方から見りゃあ、定火消の臥煙も町火消の鳶も同じ火消人足で、無頼の徒に毛が生えた位にしか思っちゃいねぇのさ」

 そう言われても段鉄の腹はえませんな。

「なんか業腹ですぜ」

 まだぶつぶつ言っている段鉄に、高澤三九郎。

「まぁここは俺の顔……じゃねぇ。今日の鰻に免じて押さえてくれ」

 そうしれっと言われて、段鉄あっけに取られますな。

「……やられた。食っちまった後でそう来るとは思わなかった」

 高澤三九郎、にやりと笑い。

「なに。歩兵差図役の役目は歩兵に言う事を聞かせることだからな。


 お後が宜しいようで。

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