戊辰異聞 臥煙戦記・修正版

鷹見一幸

戊辰異聞 臥煙戦記・修正版

『戊辰異聞 臥煙戦記・修正版』 

              鷹見一幸


 上州宇都宮のとある寺の一角に、深く苔むした小さな墓碑がある。

 ただ二文字「江戸」とだけ刻まれたその碑の由来を知る者はない。












■第一夜


 えー本日は一杯のお運びを戴きましてありがとうございます。

 さて本日のお題、『戊辰異聞 臥煙戦記』でございますが、戊辰と来れば幕末。幕末と来ればペリー来航。ペリーと来れば黒船。黒船と来れば蒸気船。蒸気船と来れば勿論、

 『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず』

 ――と、来る訳ですな。

 今更ご説明するまでもなく、船の蒸気船とお茶の上喜撰、そして船の数のハイと茶碗の杯をかけて詠まれた狂句でございます。

 この手の狂歌は当時大層流行ったと見えて、当時江戸に住まわれていた吉田松陰先生も、

『アメリカガ のませきたる上喜撰 たった四杯で夜もネラレズ』

とか、

『安部川餅評判程ノ味モ無 上喜撰ニハ落タ御茶菓子』

 などという狂歌が江戸で流布しているさまを、故郷の萩に書き送っていらっしゃいます。

 この安部川餅というのは時の老中筆頭で切れ者と評判だった阿部正弘という方のことで、ペリーに対して弱腰であったということで当時の江戸の庶民には評判が良くなかったんですな。他の歌でも、

『日本を茶にして来たる上喜撰 阿部川餅へみそをつけたり』

 などと揶揄されております。

 実際には勝海舟らを登用したり、品川沖にお台場を築いたりした大変功績のある方なんですが、何時の世も人の口というのは容赦がありません。

 『上喜撰』は、当時のはやり言葉だったんですな。今で言えば流行語大賞。

 にもかかわらず、今誰もが知っているのは、最初に挙げた一首だけ。

『泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず』

この歌だけが残りました。

 それは何故かとつらつら考えてみますに、やはり、冒頭の「泰平の眠りを覚ます」というところが肝ですな。

 黒船がやって来たぁ、えらいこっちゃあ――という世相を詠んでいるのは皆同じなんでございますが、この一首だけは「今がどうか」だけではなく、「これまでどうだったのか、そしてこれからどうなるのか」までが詠み込まれているわけでございます。小難しく言えば「歴史的視点」という奴でございますな。

と申しますのも、ペリーが来たのは嘉永六年。西暦で申しますと一八五三年です。徳川幕府が開かれたのが慶長八年、西暦の一六〇三年ですから、丁度二百五十年目にあたります。けれど、それだけ長く続いて来た幕府がこのわずか十五年後に倒れ、武士の世が消えてしまう――つまり、今は幕府の時代の末期「幕末」である――などと考えていた人はその当時一人もおりません。

 それはそうでしょう。今の我々は、黒船来航の先に幕府の消滅=明治維新があったことを知っていますから、何の疑問もなく「幕末」という言葉を使いますが、当時の人にそんな事が分かる筈がない。事が至って初めて、ああ、そうだったのか、と初めて分かった訳でございます。世の中とはどうやらそういうもの、人というのはそういう生き物のようでございます。

 そして起こってしまった後なら、幾らでも賢いことが言えますな。これは何も幕末だけの話ではございませんよ。かつての太平洋戦争しかり、近年のバブル崩壊しかり。ああいう結果になるのは分かりきっていた――と、今なら誰でも言えます。下司の知恵は後から、という奴ですな。

 けれど、時代のまん真中にいる人間には、先は見えません。皆が皆、一寸先の闇を手探りで進むしかない――これはそんな時代、そんな男たちの噺でございます。


 時は慶応三年七月。西暦でいうと一八六七年の八月。暑さの盛りでございます。

 叩けばカンと音のしそうな真っ青な空が見下ろす江戸の町は油日照り。風はそよとも吹かず、じりじりという音が聞こえて来そうな大路小路にも人影はまばらでございます。

 そんな昼下がり、一人の若い衆が神田佐久間町。今のJR秋葉原駅があるあたりから北へ指して駆け始めてございます。淡茶色の単衣の裾を尻からげ、脛はむき出し。

 この暑い中血相を変えて走っておりますから御徒町あたりを、ついっと右に曲がった頃にはもう、顔から背中から汗でびっしょり。水浴びでもしたような有様でございますな。

 木陰に寝ていた野良犬が驚いて吼えつくのもかまわず今で言うところの春日通りの少し手前、浅草の方に……この当時の浅草は、今で言うところの元浅草とよばれるあたりでございますが、その一角に、寺町と呼ばれる、お寺が並んでいる一角がございます。その寺の一つ、寛蔵院の裏門から、この男が駆け込みますと、寺の本堂の縁先にはむさくるしい男たちが魚河岸の鮪のごとくごろごろごろ。と寝ております。

 この男たちは、昨夜一晩寝ないで、寺の本堂で地廻りが胴元をやっている博打の賽を転がしていた連中でございます。江戸の頃は、寺に関する物事は寺社奉行と呼ばれる役人の管轄で、寺の境内の物事には町方同心を抱える、いわゆる町奉行は手出しができません。というわけで江戸の寺は、今で言うところのカジノみたいなものになっていたわけですな。賭博の時に動く金のことを『寺銭』と呼ぶのは、ここから来ております。

 駆け込んできた男は途方に暮れたような顔で、小声で名を呼びます。

「えー、断鉄兄ィはおりませんか? えー、江戸門の断鉄兄貴を誰か見ませんでしたか?」

 その声を来て、転がって寝ているマグロの中の一人が身を起こします。

「おう、誰かと思ったら八か。もそっと静かにしねぇか、皆さんお休みだ」

 そう答えたこの男。年の頃は三十がらみ。体格は並の男より頭抜けております。徹夜開けと見えて目が少し赤いようですが、その左の眉が半分焦げて無くなっているのは、かつて町火消し「か」組の纏持ちだった頃の勲章と見えます。

 纏というのはここで火を止める、という目印ですから引いたら組の名折れ。いくら火が迫っても一寸たりとも引きません。ただ、組一番の男前が務めるのも纏持ち。顔に傷があっては勤まらないという訳で、今は後進に道を譲り、組の若い衆をまとめる「か」組の小頭を務めております。

 この男が通称、江戸門の段鉄。本編の主人公でございます。何故二つ名が江戸門なのかはいずれ明らかするといたしまして……

 睨まれて思わず口を抑えた八は、足音を忍ばせて近付くと、段鉄の耳に口を寄せて囁きます。。

「鉄兄い、てぇへんだ」

「馬鹿野郎。今更声を小さくしたところでしょうがあるめぇ。おかげで寝そびれちまったじゃねぇか。一体何がどうした」

「それなんでやす。兄ぃにご隠居の所に来るように、と頭が……」

「ご隠居の? 一体何の話だ?」

 怪訝な顔をする断鉄に、八はヘコヘコ頭を下げて答えます。

「すんません、それは行った先で聞いておくんなさい」

「ここでは話せねぇってことか?」

「へぇ、あっしは言っちゃあならねぇと、頭のお達しで」

「言っちゃあならねぇ? そいつは穏やかじゃねぇな。となれば、ちょと算段しなくちゃなるめぇ」

「算段とは何でやす?」

「馬鹿野郎。頭だけならともかく、ご隠居まで一緒になっての呼び出しだ。生半可なことじゃあるめぇ。痛くない腹を探られねぇよう算段するのよ」

「なるほど。痛くない腹ならともかく、痛い腹を探られたら、そりゃあ痛いでがしょう」

「おい、妙なことを言うんじゃねぇ。俺に痛い腹なんてありゃしねぇぞ」

「そんなことを言って、あのことはどうなんでやす?」

「あ、あのこと? あのことはおめぇ、もう済んだことだ。今更蒸し返されちゃたまらねぇ……って、お前何のことを言ってるんだ?」

「いえ、とりあえず聞いてみただけでやす。どういう訳か、あのことって言えばお小遣いを下さる方が多いんで、ちょと運試しを」

「馬鹿野郎。変なところで鎌かけるんじゃねぇや。冷や汗かいちまったじゃねぇか」

「やっぱり何かあるんでやすね」

「何もねぇと言ってるだろうが。手前はもう口をきくんじゃねぇ。

 ご隠居の家に行きゃあいいんだな?」

「……」

「おい」

「……」

「おい、何で黙ってる?」

 凄みを効かせた断鉄の声に、さすがに黙っていられなくなったと見えて、八がぼそりと答えます。

「……口をきくなと言ったのは兄ぃでやすぜ」

「口の減らない野郎だな。分かった分かった、神輿を上げるとするか」

ぺこりと一礼して先に立った八に続きながら段鉄考えた。

 ……仔細は見えねぇが、なればこそ下手な申し開きは命取り。ここはもう、のっけから頭を下げるより他はあるめぇ。

 と、覚悟を決めた段鉄は神田佐久間町のご隠居の家へ……。

 御隠居と申しますのは同じ町内でも表通りに面した一角、二階家の集まるあたりに住んでいるお方で、名は和泉屋与平。今は隠居の身ですが元は大店の当主。生来の世話好きもあって鳶の組、つまりは町火消しの後見を務めていますが、他にも色々と相談事を持ち込まれることの多いお方です。

 御隠居の表戸を開けた断鉄が、家の中に向かって声をかけます。

「ぴらめんねぇ、きょいるけぇ」

 どこの言葉かと思われるでしょうが、これはれっきとした日本語。それも江戸弁でございます。まっぴらごめんなさい、ご隠居はいらっしゃいますか――という挨拶を、巻き舌の早口でするとこうなるんですな。

 はーい、と奥で声がして、トントントンという足音と共に現れたのは、この家でご隠居こと和泉屋与平の身の回りの世話をしているお春という娘です。

 年の頃は十六七、着ている黄八丈は古手と見えて少し年季が入っていますが、中身は番茶どころか煎茶の出花。上喜撰とまでは参りませんが中々のものでございます。

 座敷で何やら話し込んでいたご隠居と頭の所へ。トントントンと足音が戻り、障子の向こうからお春の声が致します。

「段鉄さんと八さんがお見えになりました」

「おや、八さんも一緒かね。こちらに来るよう言っておくれ」

 待つこと暫し。廊下の障子の向こうに気配があって、

「段鉄、めぇりやした」

「おお、待ちかねていたところです。ささ、中へ」

「ではごめんなすって」

 声と共に障子がからりと開いたところで、座敷の二人は驚いた。段鉄さん、廊下にぴたり、と平伏しております。

「この度はこの段鉄。面目次第もございやせん。かくなる上は如何なるお申し付けでも身体を張ってお受け致します」

 これを聞いたご隠居、ぱっと喜色を浮かべて曰く。

「おお、さすがは鉄さん。とうに承知の上でしたか。ならば思案するまでもない。あなたが出てくれるなら百人力だ。頭、後は任せました。よしなに願います」

 と言うなり立ち上がったご隠居は、驚く頭を他所に奥に消えてしまいます。

「あ、あの……これは一体どういうことで?」

 あっけに取られて呆然とする段鉄。それをじっと見ていた頭。一つ頭を振ると。

「どうもこうもあるかい。てめぇは今、とんでもねぇ厄介ことを引き受けちまったってことだ。これからとくと話して聞かせるから、その口を閉じてこっちへへぇれ」

「へぃ。かしこまりやした。八、おめぇもへぇれ」

 八を連れておずおずと部屋に入った段鉄、頭の前でかしこまっております。

 頭はくわえていた煙管の雁首を下に向け、長火鉢の縁でコンと叩いた後、ぷっと一吹きして袖の中へ。それを見た段鉄の首筋がすうっと寒くなったのには理由があります。

 実はこの頭、無類の煙草好きなのに、大事なこと話す時は煙管を仕舞う癖があるんですな。段鉄もこれまでにそれを見たのは二度しかございません。三度目が無いことを密かに願っていたのですが、最早かなわぬ願いとなりました。

 煙管を懐に仕舞った頭が表情を改めて尋ねます。

「時に鉄よ、さっき言ったことに間違いはねぇだろうな」

「さっき言ったこと?」

「そこに額を擦り付けて。かくなる上は如何なるお申し付けでも身体を張ってお受け致します、と言ったことだよ」

 聞かれて段鉄胸を張る。

「頭。あっしゃあ江戸っ子でやすぜ。江戸っ子と言えば男の中の男。男に二言があろう筈はございやせん。それをお疑いになるんでやすかい?」

「江戸っ子って……鉄、おめぇは相州の出だろう?」

「憚りながらこの段鉄。二十年前に多摩川を渡ってから、一度たりとも相州に足を踏み入れたことはありやせん。今のあっしの身体に詰まっているのは頭の天辺から足の爪先まで、正真正銘のお江戸の水道の水だ。相州の水なんぞはとうの昔にしょんべんになって出ちまいましたぜ」

「しょんべんして江戸っ子になれるたぁ初耳だが、心意気は感心だ。さて、鉄、黒船は知っているな?」

「へ?」

「何間抜けた声出しやがる。黒船だ黒船。品川や横浜の沖に停ってる奴だ」

 いきなり何の話かと思うところではありますが相手は頭、段鉄もとりあえずは話を合わせます。上下関係の基本という奴ですな。。

「へ、へぇ、蒸気で走るとかいう異国の船でやすか?」

「そうだ、まぁ今では異国だけでなしにこの国にも蒸気船はいっぺぇあるがな。ことは最初の黒船だ」

「最初の黒船? ペルリでやすかい?」

「そうだ、あのメリケンの大将のおかげで、日本はてんやわんやになっちまった。あっちでドンパチこっちでドンパチ、大騒ぎだ。挙句の果てに。去年の長州征伐の最中に家茂様までお亡くなりになる始末だ」

「まだ十五でやしたね。お気の毒なこってす」

「たしかにの。で、お鉢が回って来た十五代様はお考えなさった。今は長州だけだが、これから先どうなるか分からねぇ。早く兵備を整え、不心得者が出ないようにしなきゃならねぇ、とな」

 十五代様とはもちろん徳川第十五代将軍徳川慶喜公のことですが、まだご在位中ですから下々の者がお名前を直に呼ぶようなことはまずありません。

「兵備ったって、お上にゃあ侍は一杯いるじゃねぇですか。旗本八万騎って言うのはありゃぁホラでやすかい?」

 問われて頭は顔をしかめます。

「まぁ、今となっちゃあホラみてぇなもんだ。だいたい旗本御家人てぇのはいざって時の為に碌米てぇのを戴いてる。御公儀からお呼びがかかったら、戴いてる扶持に見合った人数を揃え、それを引き連れて戦に出なきゃならねぇ。それが道理だ」

「そりゃそうでがしょう。火消しだって同じだ。町衆の皆さんが普段から足止め代ってお手当てを下さるのは、火事になったらわっしらが命を張って働くからでやすからね」

「良く言った。正にその通りだ。武士千人を養うは一時の用の為なり、と言ってな。火消しも侍も、その一時の用の為に毎日養ってもらってる訳だ。訳なんだが……最近はどうもその道理が通じねぇらしいんだな」

「へ? どういう事でやす? どこかに足止め代をただ貰いしてる火消しがいるってんですかい?」

「いや、火消しにそんな不心得者はいやしねぇ。問題はお旗本連中だ。おめぇ、二丁目間の河辺様のご当主を知ってるか?」

「いえ、お目にかかったことはありやせんや。たしか二千石取りの大旗本様でがしょう? わっしらのようなもんがお目見え出来る訳がねぇ」

「まぁ、俺だって会ったことはねぇがな。なんでも御歳五歳だそうだ」

「五歳? 二千石取りのお旗本がでやすか? 何か親御さんに急な不幸でもあったんでやすかい?」

「不幸といえば不幸だろうな。前のご当主は三十にもならないのに、急な病でお役目返上。隠居して一人息子に家督を譲っちまったんだ」

「そりゃ大変だ。いくらお旗本の子だって、五歳で当主が務まるもんじゃねぇ」

「それはそうなんだが、これは珍しい話じゃねぇぞ。あっちでもこっちでもご当主が急病になって、子供の旗本がごろごろ出来てる」

「はて、たしかにこの暑さは酷いけれど、流行病が出たとは聞いてませんぜ?」

「それが出たんだな。大変な流行病『戦が怖い病』って奴がお旗本に大流行だ」

「戦が怖い? なんですそりゃ? 火事が怖けりゃ火消しにゃなれねぇ。戦が怖けりゃ侍にやなれねぇでやしょう」

「なれねぇから隠居しちまったんだろうさ。

 ペルリが来た頃にも似たような事があったそうだが、あれからもう十五年だ。長州征伐が蒸し返されそうな雲行きで、またぞろ流行り始めたらしい。親の行いに子が逆らうのは不忠の極み、って訳だ。さすが旗本様、孝行息子ばかりと見える。

 これで次の戦なんてことになってみろ、鎧兜着るのは年端も行かない子供ばかりてぇことになる。馬揃えだか七五三の宮参りだか分かりゃしねぇ」

「たしかに様子を考えると笑えやすが……笑ってる場合じゃありやせんぜ」

「だな。まぁ二本差しでございますと威張ったところで、今の中身はそんなものだってことさ。物の役になぞ立ちゃしねぇ」

「ひでぇ話だとは思いやすが、それが一体あっしとどういう関係が……」

「いいから黙って聞け、これでも大分端折ってるんだ。何ならイザナギイザナミから話すか?」

 問われて段鉄手を振った。

「滅相もねぇ。このまんま続けておくんなさい」

 そこで頭は咳払いを一つ。

「じゃ、続けるぞ、ここからが本番だ。とにかくだ、これじゃどうしようもねぇってんで御公儀は知恵を絞った。旗本御家人は使えねぇ、人数も出せねぇ。なら仕方ねぇ。出せねぇなら出なくても構わねぇ。代わりに金を出せ、とな」

「金を出せ? ご公儀が薩摩盗を見習おうてんですかぃ?」

「馬鹿野郎。あんなごろつき連中と一緒にするんじゃねぇ。言葉の綾って奴だ」

 頭が声を荒げるのも無理はありません。薩摩盗というのは、当時の薩摩藩邸を根城にしていた脱藩浪士たちのことでございます。

 当時、幕府が勅許を得ずして開国したことをきっかけに、尊皇攘夷の風が吹き荒れていたことは皆さまもご存知の事と思いますが、その実態はというと、決して誉めたことばかりではなかったようなんでございますな。

 特に江戸の薩摩藩邸を根城にしていた連中は、江戸市中の大店に押しかけて勤皇を名目に金品を強請り、出さない店には火付けまでするという、やりたい放題の有様でした。しかも強請り取った金を朝廷に送るなり、庶民に分け与えたりするならまだしも、実際には自分たちの飲めや歌えの大騒ぎに蕩尽していたというんですから話になりません。

 ところが、その目に余る行状に幕府は手が出せないんですな。もちろん浪士達は薩摩藩邸にいるとはいえ別に薩摩藩士ではありませんから、奉行所なり火盗改めが引っ括ることに問題はない。ないはずなんですが……そう簡単に行かないのが政治という奴です。

 薩摩藩邸を根城にしているということは薩摩藩が庇護しているということ。言ってみれば幕府は、薩摩藩に「こいつらのやるコトに文句があるなら、ウチと一戦交える覚悟で来い」と凄まれている訳ですな。

 当時の薩摩藩を動かしていた西郷隆盛の腹はこうです――意気だけは盛んでも碌に能の無い自称志士達を集めて乱暴狼藉を繰り返させ、世情を不安に陥れる。更にそれを収拾出来ないことを世間に見せつけ、幕府の権威を失墜させる。我慢し切れなくなった幕府が手を出して来れば、これ幸いと武力討幕に持ち込む――実にでかいというか深いというか黒いというか、とんでもない腹でございますが、それは幕府も重々承知しているからおいそれとは手が出せない……という所で話は戻って。

 聞いた段鉄一思案。

「なるほど。金があれば鉄砲やら軍艦やらを買い込める。薩摩の芋連中にも目に物見せてやれるって訳でやすね」

「それもあるが、肝心なのは人だぁな。さっきも言ったように御公儀には人が足りねぇ。よしんばいたところで今の世の中、宝蔵院流の槍やら新影流の刀じゃどうにもならねぇ。この前の長州征伐でも役にたったのは鉄砲持った歩兵隊だけだった、て話だ」

 聞いて段鉄驚いた。

「へぇ、あのダンブクロがでやすかい?」

 と、ここで段鉄が驚いたのには訳があります。このダンブクロという言葉、辞書で引きますと、

『段袋』だにぶくろ(駄荷袋)の転。

一、布製の大きな荷物袋。

二、江戸末期から明治に用いられた、幕府兵士調練用の下部を筒形にした袴。

――とあります。要するにズボンですな。

 それまで着物に袴姿しか見たことの無かった日本人にとって、西洋の軍服を真似た幕府歩兵隊の服装は余程異様に見えたんでございましょう。何せそれまでの日本で筒袖筒袴を着ていたのは、賎業とされていた紙屑拾いしかございません。そこで歩兵と言えばダンブクロ。ダンブクロと言えば歩兵となった訳です。

 ところがこの歩兵、江戸市中ではすこぶる評判が悪かったんですな。その中身は五年前の「兵賦令」というお達しで、旗本御家人が各自の禄高に応じて領地から差し出した領民、つまりはただの百姓町人だったのでございますが、ダンブクロを着て御公儀が後ろ盾に付いた途端に悪い本性が出た。町奉行所が手を出せないのをいいことに、徒党を組んで喧嘩を吹っかけるは、食い逃げはするは、挙句の果てに気に入らない店を打ち壊すわで散々悪さをしでかしたんでございます。

 迷惑なのは江戸の町人ですな。金持ちは薩摩盗に強請りたかりに火付けを食らい、下々は幕府歩兵の憂さ晴らしに酷い目にあわされるという訳で、勤皇佐幕の両方から挟み撃ちにされるんですからたまりません。何時の世も苦労するのは後ろ盾の無い一般の人々でございます。

 とまぁ閑話休題。

 段鉄の驚き顔を皮肉げに見て、頭曰く。

「格好はともかく、連中はなかなかしぶとい。おめぇも知ってるだろう?」

 聞かれた段鉄苦笑い。

「まぁ、やりあったのは二度や三度じゃききやせんからね。一人二人なら屁でもねぇが、すぐ徒党を組むくせに逃げ足がはええ、厄介な連中でやす」

 断鉄の言葉でわかるように、この当時の火消しの仕事は、火事を消すだけではありません。どちらかと言えばよろず厄介事揉め事引き受け業の一つとして火事火消しがあると言ってもいいくらいで、喧嘩の仲裁や後始末を頼まれることも多かった。元より段鉄は小頭、血の気の多い火消しの若い衆を束ねる役目です。歩兵の喧嘩騒ぎに割って入った事は両手の指では足りません。

「こっちからすりゃあ、逃げ足の早いのは業腹だが、戦場ならそれも長所だろう。長州帰りの連中が随分吹いてたことが、全部が全部法螺という訳でもないらしい」

「なるほどね。敵に回すと厄介ってぇことは、味方にすれば頼もしいのかもしれやせんが、本当に連中が戦場で役に立ったんでやすかい? 出は百姓でがしょう?」

「百姓町人が撃とうが侍が撃とうが、鉄砲の弾は鉄砲の弾だ。当たりゃあ死ぬぜ」

「違ぇねえ。たしかに道理だ」

「つまりだ、六千石の旗本様でも、そこら辺のごろつきでも、持てる鉄砲は一挺よりねぇ。だったら、侍連中が直に出張るより、金を出させてそれで人を雇った方がいいって訳だ。そこで御公儀は口入屋に……。おい八、口入屋の決めは何だった?」

 目上の席では聞かれない限り口を開かないのが作法。それをいいことに半分居眠りをしていた八、頭の声に飛び起きた。

「ふ、ふぇ何でやす?」

 頭がちょっと口調を改めます。

「八よ、口を出さずにいたのは感心だが、寝てちゃあ何もならねぇ。自分の預からねぇ話でも聞くだけは聞いておく、それがこういう席の定法だ。それが出来ねぇと何年たってもそのままだぞ。分かったか?」

「へ、へい。申し訳ありやせん」

 ぺこりと頭を下げた八を見やって、頭は質問を繰り返します。

「口入屋に回って来た御公儀のお触れだ。何と書いてあった?」

 問われて八公、ちょと宙を見つめて。

「あれはたしか……年季は五年。お給金は年十両。身の丈が五尺二寸あれば生国や手職の有無はおかまいなし、無宿無頼の徒でも苦しからず。身分は小揚の下で、格別の働きあればお取立てもあるそうでやす」

「小揚? サンピンの下けぇ? そりゃあ剛毅だ」

 聞いて段鉄が声を上げますな。サンピンというのは三一、つまり三両一人扶持という、一番下っ端の御家人のことです。

 普通の御家人は幕政が定まってしばらくしてから四両一人扶持に改められるんですが、小揚者と呼ばれる役目だけは三両一人扶持のまま据え置かれていました。身分は武士でも、役目は全国の徳川家の領地から集められた年貢米を御蔵に運び込む人足仕事ですから、一段軽く見られていたのかも知れませんな。

 当然、庶民からも軽んじられて、いつしか最下層の侍=サンピンとなった訳ですが、サンピンでも侍は侍、れっきとした士分です。つまり、歩兵になれば始めは小揚の下でも、お取り上げによって一身分上がれば侍になれるという話なんですな。

 そこで頭が言葉を継ぎます。

「そうそう上手くは行くめぇと思うのは道理だが、これまでに苗字帯刀を許されたダンブクロは存外多いって話だぜ」

 頭の言葉に、段鉄の驚きは続きます。

「ほんとでやすかい? 大店の旦那でも家が傾く位冥加金を納めねぇと、苗字帯刀は許されねぇって言うじゃありませんか。それが鉄砲かついでえっちらおっちら行進するだけで貰えるとなりゃあ、口入屋に駆け込む奴が増えそうだ」

 と、ここで頭が一言告げますな。

「おめぇの言うとおりだ。知ってる中にも一人いるぜ」

 聞いた段鉄ぽかんとしますが、やっと合点がいった様子です。

「……なぁるほど、一体何の話やらとずぅっと思ってやしたが、ここに繋がる訳でやすね。よりによって歩兵隊なんぞに入ろうてぇ物好きが知り合いから出るとはねぇ。こりゃあ確かに大事だ」

 頭は頷いて尋ねます。

「だろう。で、そいつは誰だと思う?

 聞かれて段鉄また思案。

 ……五尺二寸もあって、こういう話に飛び付きそうなおっちょこちょいというと…………八、てめぇか!」

「ふぇっ、な、なんでやす?」

 聞かれてまたまた八公飛び跳ねた。たしかにこの八公、見た目は頼りないけれど、背丈は五尺三寸。この時代では大男の部類に入ります。

 けれど頭は首を振ります。

「いや、八じゃあねぇ」

「当たり前でやすよ。あっしがなんでまた」

 慌ててわたわたと手を振る八。それををちょっと睨んで、段鉄。

「ふん、まぁたしかにおめぇにそんな山っ気があったら、ちったぁ目も出てるわな。……となれば熊公だ。あいつはこの前、散々入れ揚げた深川の水茶屋女にこっぴどく振られやがった。こうなりゃ侍にでもなって見返してやるしかない、ってんで口入屋に……え? 違う? おかしいな」

「おい、鉄よ。俺はお前の知り合いだと言ったんだ。組だけとは限らねぇぜ」

「へ? 組の連中とは違うんでやすかい? となると他に知り合いは…………うぉっと、これは拙い、拙いじゃねぇですか。なんでさっき出て行く時に止めなかったんでやす? ひょっとしたら命に関わりますぜ」

「何の話だ?」

「だから、俺の知り合いで、五尺二寸あって名字帯刀に目が眩みそうなお人と言えば一人しかおりやせん。ご隠居ですよご隠居。まったくもう、自分の歳を考えやがれってんだ。棺桶に片足突っ込んでる癖に……」

 ここまで来ると頭もあきれますな。

「馬鹿、ご隠居の訳がねぇだろう。ならば教えるが、その一人ってぇのはこの家の住人だ」

「この家に? ここに居るのはご隠居と、お春ちゃんと、二階の若旦那だけでしょうに。新しい下宿人でも入れなすったんですか?」

「そんなものはいねぇよ」

「いねぇって、ということは……あれ? お春ちゃんは男だったんでやすか?」

 その途端、パコーーーーーンといういい音と共に鉄の目から火が飛びましたな。頭を抑えた目の前に、湯飲みが一つ、とんと置かれます。

「男の入れたお茶で申し訳ありませんね」

 言い捨てて、足音がトントントンと去って行きます。

「鉄よ、今のはおめぇが悪いぞ」

「へぇ。ごもっともで」

「ここまで言やぁおめぇにも分かるだろう」

「へ? てことは若旦那が?」

 断鉄は、想像もつかない。という顔で、ぽかんと口を開けます。なぜなら、この若旦那、というのが、名のある帯屋の跡取り息子で名は信之助。御他聞に漏れず放蕩三昧を繰り返した挙句、心中の勘当のという騒ぎに成りかけた所に御隠居が割って入り、この家の二階に居候として引き取った男でございまして、これがもう、絵に描いたような、いいところのお坊ちゃまで、はっきり言って生活能力は皆無。今で言う引きこもりのような男で、とても一人で生きていけるような人間ではございません。どう考えても歩兵隊とは無縁でございます。

 ぽかん、と口を開けた断鉄に、頭がうなずきます。

「うむ、そうだ」

「あのうらなりの青瓢箪が歩兵隊に?」

「五尺二寸は十分あるわな」

「箸より重い物は持ったこともないのに?」

「生国手職は問わねぇらしいからな」

「なんでまたそんな酔狂を?」

「どうやら苗字帯刀が狙いらしいな」

 言われて段鉄、も一度腕を組んだ。

「うーん、思い切ったもんでやすねぇ。たしかに跡取り息子が二本差しになりゃあ、勘当した親御さんも頭を下げて迎えに来る道理だ。道理でやすが……そんなに上手く行きやすかね?」

「行かねぇだろうな」

 聞かれた頭はあっさりと答えますが、それには段鉄も異議はありません。何せ家業の帯屋に身を入れず、茶屋遊びに明け暮れて勘当された若旦那です。鉄砲どころかダンブクロ着せても息が切れそうな優男。これほど歩兵隊に似つかわしくない男も珍しいでしょう。

「ですよねぇ……あ、そうだ、肝心な話を忘れてやした。ご隠居はお許しになったんでやすかい?」

「許すも許さないも、若旦那はもう証文を入れちまったらしい」

「証文? 若旦那の請け人はご隠居でがしょう? 請け人なしで証文は作れねぇ筈じゃ……」

「それなんだがな、今度の話は無宿無頼の者でもお構いなしってぇ事で、請け人はいらねぇらしい」

「そりゃぁ……どうしようもねぇ。お上も罪な事をしやがる」

 段鉄が絶句したのは無理もございません。ここで言う証文というのは年季奉公の証文のこと。口入屋で仕事を紹介してもらい、話が決まれば年何両で何ヵ年奉公します、という証文を請け人(身元引受人、今で言う保証人)と連署で入れるんですな。

 奉公人が勝手に奉公先を決めることは出来ないし、辞める時も奉公先と請け人が認めないと勝手に反故にはできません。もし勝手に辞めれば逃亡ということになり、お上からきついお咎めを受けます。

 今の様に勤め人が辞表を出して、今日で辞めますさようなら、という訳にはいかないんですな。何しろ労働者の権利なんてものは、まだまだ遠い時代の話でございます。

「普通の証文なら本人と請け人が改めて侘び証文を入れて、何がしかの金子を差し出せばなかった話に出来ないこともなかろうが、こうなると若旦那にその気がないんじゃ仕方がねぇ」

「で、でもそれじゃあ若旦那は歩兵隊に入っちまいますぜ。あの若旦那が戦に出るような羽目になったら、戻って来れる筈がねぇ」

「だろうの。そんなことになったらご隠居はご両親に顔向けできねぇし、何より若旦那がお気の毒だ」

「でやすよねぇ。しかし本当にもうどうしようもないんでやすか?」

「お上が相手の話だからな。まぁ若旦那が足の一本でも折っぽしょれば、無かった話にできないこともなかろうが……」

 と、段鉄の目がきらりと光って。

「まかせておくんなさい、そういうことなら一本とは言わず二本でも三本でもこのあっしが……」

「おいおい、早まるんじゃねぇ。だいたい三本も足のある人間がいるはずはねぇだろう」

「いや、あの若旦那は三本目も折っちまった方がいいと思いまずぜ」

 言われて頭は苦笑い。

「それはそうかもしれねぇが、いくらなんでもそんな訳には行くめぇ」

「そうですかぁ。でもそうしたら若旦那は歩兵隊に行っちめぇやすぜ」

「そこなんだがな……」

 頭はそこで言葉を切って、じっと段鉄を見つめます。え? という表情の段鉄からふ、と目を逸らし、頭の言葉が続きます。

「実はさっきまでご隠居と思案してたんだが、誰かを付けてやるのはどうか。って話になってな」

「付ける? 歩兵隊にでやすかい?」

「ああ、誰かしっかりした奴が一緒にいりゃあ、色々手助けもできようし、庇ってもやれようという訳だ」

 言われて段鉄手を打った。

「なるほど、それはいい手だ。……となれば誰がいいかな……」

「いや、それはもうご隠居と相談して決めておいた」

「おや、もうそういう算段ができてるんでやすか。なら安心だ。何をしているお人です?」

「鳶だ」

「お、同業ですかい。ならどこかの火事場で会ってるかも知れねぇ。がたいはどんなもんでやす?」

「身の丈は五尺八寸。目方は十六貫と聞いたな」

「でけぇな。あっしと同じくらいだ。江戸者ですかい?」

「出は相州だが、江戸っ子以上に江戸っ子らしいと評判だ」

「ほう。何かあっしと気の合いそうな奴ですな。何か目立つ印はありませんかい?」

「左の眉が半分焦げて無いらしい」

「おや? そんな奴が他にも居るとは知りやせんでした。どこの組でやす?」

「『か』組だ」

「『か』組『か』組……いろはにほ百とちりぬるをわかだから、ええと……あれ? 『か』組は確かウチの組ですぜ? でやすよね、頭」

「あたりめぇだ。ウチの組は吉宗様の代に町火消しが出来たときから、ずーっと『か』組だ」

 このあたりで段鉄のこめかみに冷や汗がたらり。

「え? えぇ? …………ということは、若旦那のお供は……」

「今言ったじゃねぇか。『か』組の鳶で、身の丈五尺八寸。目方は十六貫。相州の出だが江戸っ子以上に江戸っ子らしくて、左の眉が半分焦げて無い奴だよ」

「……」

 断鉄は言葉に詰まります。

「……」

 一呼吸、二呼吸、沈黙が続いた後で、腹をくくった鍛鉄は、額に浮かんだ冷や汗を拭って、聞きます。

「ひょっとして……あっし? あっしでやすか?」

「そうだ、鉄。てめぇだ」

 言われた段鉄、驚いたなんてもんじゃあない。

「い、いつの間にそんな話が出来上がって……」

「さっき確かめただろう? それでいいのか、と」

「か。頭。確かにあの時は……」

「ほう、『か』組にその人ありと言われた江戸門の段鉄は、そんな奴だったのか?」

「そんな、とは?」

「如何なるお申し付けでも身体を張ってお受け致しますと言いながら、後になってそんなつもりじゃなかった、と言うような奴だよ」

「うーーん」

 これには段鉄、一言もありません。頭を抱えて黙ってしまいます。

 頃合を見計らって頭が言葉を継ぎますな。

「鉄よ、おめぇを嵌めたような形になっちまったのは謝る。けどな、誰でも務まる役目ならともかく、これが頼めるのはおめぇだけだ。言いてぇことはあるだろうが、ここは助けてやっちゃあくれねぇか」

 言われて段鉄一思案、いや二思案。三四がなくて五思案目あたりで行きついたのは……。

 ……たしかに一度口にしたことを反故にしたら男じゃねぇ、鳶の風上にも置けねぇ。言ったことは言ったことだし、誰が行くって話になれば自分にお鉢が回って来るのも道理だ……道理には違いねぇが……。

「……頭、なんでそうならそうと端から言って下さらなかったんでやす?」

 聞かれて頭は苦笑い。

「言う前におめぇがそこで這いつくばったんじゃねぇか」

「あ、そうでやした。ご隠居と頭揃っての呼び出しだってんで、てっきりあのことが露見したのかと……」

「あのこと?」

「い、いえいえ、こっちのことでやす。ご存知ないんだったらそれでいいんで、どうかお気になさらずに」

「そうか、ならいいが……じゃあ念を押すようで悪ぃが、本当にいいんだな?」

「いいも悪いもありませんぜ。もう決まったことなんでやしょう。若旦那に何かあったらご隠居もただじゃ済まねぇし。後見に何かあったら組も困ったことになる。あんな因業爺でも組には過ぎたお人だ」

 と、そこに背後から声が来ます。

「はいはい、私はどうせ私は因業爺ですよ。因業だから今日のことは謝りません。ええ、謝るもんですか。口を滑らせたのはそっちの勝手。こちらはその言葉を素直に受け取っただけですからね」

 振り返った段鉄の前に涼しい顔で座っているのはご隠居です。段鉄の驚くまいことか。

「ご、ご隠居。何時の間に」

「五つの間にも六つの間にもありません、この家は四間しかないんですから」

「あちゃぁ、聞かれてましたか。どうかこのことはご内聞に」

「本人に向かってご内聞も何もないでしょうに。まぁそれはかまいません、かまいませんが、話はまだ終わっちゃいませんよ。謝らないとは言ったが、礼をしないとは言ってません」

 と、言うなりご隠居。すっと座布団を外すと、ぴたっとその場に平伏致します。

「頭。小頭。この度はご無理をお聞き届け戴き、誠にありがとう御座います。

 この和泉屋与平。これより先命ある限り、『か』組後見としてできる限りの務めをさせて戴くことで、僅かなりとも今日のご恩を返させて戴ければと思っております。誠に、誠にありがとうございました」

 頭の驚くまいことか。

「ご、ご隠居。お手をお上げ下さい。そんなもってぇねえことをされてはこちらが困ります。こら、鉄、お前も何か言わねぇか」

 と、段鉄が口を開く前に。ご隠居は身体を起こして一言。

「お礼はこれでお仕舞。因業爺に戻りますよ。覚悟なさい」

 聞いた段鉄頭をかきます。役者が違いますな。

「へい。覚悟させて戴きやす。後はわっしとこの八に任せておくんなせぇ」

「へ?」

「む?」

「おや?」

 段鉄以外の三人が、思わず見合す顔と顔と顔。

「おい、鉄。今、何と言った?」

「え? 行くのはあっしと八でがしょう?」

 聞いて八公驚いた。

「あ、兄ぃ、な、なんでわっちまで……」 

「呼ばれたのは俺とおめぇだぞ。片方だけに用って法はねぇだろう」

「え? え? えええっ? わたいはただ兄ぃを案内して……」

「浅草からご隠居の家まで来るのに、なんで案内がいるんだ?」

「そ、それはそうでやすが……か、頭。何とか言っておくんなさい」

 振られた頭、ちょと思案して。

「存外、いい手かも知れねぇな」

「ええっ?」

 八公はもう真っ青でございます。

「いや、はなからそのつもりでいた訳じゃねぇんだがな。二人ならただの知り合いだが、三人寄れば徒党だ。何をするにもだいぶ違う。ご隠居、どうでやす?」

「そうですね。大勢の中に入るんです。仲間は多いほうがいいでしょうね」

「な、八。そういうこった」

 晴天の霹靂を食らったような顔で八は泣きべそをかきます。

「そういうこったって……なんでいきなりこんな話になっちまうんでやす?」

「なぁに、八にお鉢が回ったのよ」


 お後が宜しいようで。

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