第9話

春香はベランダで空を見上げていた。蝉たちはお休み中だ。空が澄んでいて星がよく見える。月は恥ずかしがって雲に隠れていた。


 夏休み2日目。自分の気持ちに気づいたものの行動には移せずに夏休みに入ってしまった。

 これからどうしたらいいんだろう。奏多のこともだが、春香は夏休み最後のSHRで担任に言われたことを思い出していた。

「そろそろ進路のことも考えて、夏休み中に一つはオープンキャンパスに行っておくこと。真面目な話はさておき、来年は受験で遊べないだろうから、いっぱい遊んどけよー」

 進路か……。たしか陽菜は保育士になりたいって言ってたよね。ピアノも習っているし。私は司書資格が取れる大学がいいな。でも、何になりたいのかは分からない。……倉科君は考えているのかな。まだ一年半あるけれど、やっぱりみんな離れてしまうのかな。長いようで一年半なんてあっという間に過ぎてしまう。もう2年生も半分すぎてしまった。「まだ」じゃなくて「あと」一年半しかないんだよね。3年生になったらクラス替えもあるし。

「はぁー」

 将来のことを考えると、ため息をついてしまう。ため息をつくと幸せが逃げてしまうのに。不安な心をおちつかせようと春香は曲をきくことにした。オルゴールの優しい音色が心を癒してくれる。そうだ、カルピスを飲もう。


 階段を降りてキッチンへとむかう。リンゴ柄のグラスにブドウ味のカルピスを三分の一ほど入れて、牛乳を入れて、ティースプーンでぐるぐるぐると混ぜたら完成!

「う~ん、おいしい」

 濃いめのが好きなんです。誰かが階段を降りてくる音が聞こえる。

「いいもん飲んでるじゃん」

 春香の兄がやってきた。晴樹はるきの足音だったようだ。晴樹は春香より二つ年上の大学一回生だ。

「晴兄も飲む?」

「おう。普通のカルピスで頼む」

 晴樹はブドウは好きだがブドウ味は苦手だ。春香はおいしいのになーと思いながら、普通のカルピスで兄の分を作る。

「はい」

「サンキュー」

 ゴクゴクと勢いよく飲んでいる。

「ぷっはー」

「もうっ、おじさんみたい」

 春香はクスクスと軽やかに笑った。

「なんだとー」

 そう言いながらも晴樹も笑っている。

「それより、なんかあったのか?」

「どうして?」

 兄の突然の問いに春香は首を傾げた。

「いや、なんだか浮かなさそうだったから」

 普段は少しも兄らしくないのに、こんな時は気づくんだ。春香は少しだけ話すことにした。

「将来どうしようかなーって考えてて」

「やりたいこととかないのか」

「うーん……」

 やりたいことかー。本は好きだけど。

「小説とかどうなんだ?」

「へっ」

「ほら、文芸部で書いてるんだろ?」

 考えてもみなかったことを言われて驚いた。いや、考えないようにしていただけかもしれない。

「俺はよく分かんないけどさ、気になるんだったら父さんに聞いてみたらいいじゃん」

 春香の父は出版社で働いている。いわゆる編集者だ。そのせいか帰るのが遅かったり、帰ってこないことが少なくない。春香は父の影響で本が好きになったというのもある。

「考えてみる。ありがとう」

「おう」

 春香がお礼を言うと、晴樹は満足そうに部屋へと帰っていった。


「小説家かー」

 しばらくしてから自室に戻った春香はつぶやいた。高校生になってから部活で書くようになったけど、自分は読む側の人間だと思っていた。小説家なんて生半可な覚悟でなれるものではない。仕事で作家さんと接しているお父さんに言ったら、そう叱られないだろうか。しかし、春香にとって小説家という言葉は魅力的に感じられた。

 窓の外を見てみると、さっきまで雲に隠れた月が顔を出していた。綺麗だな。そうだよね、挑戦してみないと分からないよね。やる前から諦めていたら駄目だ。諦めるならやってから諦めろ! 冒険譚に出てくる勇者なら、そう言うよね。今度お父さんに話を聞いてみよう。

「おやすみ、お月さん」

 春香は目を閉じて、夢の世界へとむかった。

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