■ 30 ぼくは君のためにその涙をぬぐう
「あたしね、大きくなったら声優さんになるの」
二人だけの部屋の中、沙羅は微笑んでそういう。ぼくに語りかけるときはいつも笑顔だ。
「どうして声優になりたいの?」
「お話聞かせるの大好きだもの」
ぼくと沙羅は祖父と暮らしていた。両親はぼくたちが産まれてすぐ亡くなったらしい。ぼくが六歳のとき、祖父はそう教えてくれた。
祖父は事業を営んでいた。いくつかの会社を切り盛りしておりとても裕福だった。ぼくたちは祖父に愛され何一つ不自由なくこどもの頃を過ごしていた。
ぼくの知能について常人より高いことが判ったのは小学校一年生のとき、学校で行われた知能試験の結果からだった。
はっきり聞いたわけでは無いがIQが一三〇以上だったらしい。ただ小学校低学年のIQはあまりあてになる数値でもないらしく、大人の間に話題になってもぼくの生活はさして変わらなかった。
だからぼくはいつも沙羅が語りかけるおとぎ話を聞いていた。ときどき寝てしまっては沙羅に怒られたが、頭をなでるとすぐに許してくれた。
生活が一変したのは小学校四年生のとき。
ぼくのIQは一五〇を越えていたらしい。何となくその自覚はあった。
学校の勉強はつまらなかったので祖父に頼んで高校生の数学の参考書を買って読んでいた。ネットゲームで世界のユーザーと遊ぶために英語と中国語と韓国語は普通に読み書きできた。
お小遣いを稼ごうと携帯電話用のアプリを作って配信していたが、いくつかの大手メーカーに知的財産権で訴えられそうになった。そのときは六法全書と特許権に関係する法令書、裁判判例などを調べ対向し逆にこちらから損害賠償を訴えるまでになっていた。
アプリで獲得した資金を元に株運用を行ってみた。投資先はIT企業だ。例の知的財産権に関係して調べて判った優良企業でみるみるうちに株価が高騰した。株式分割のタイミングで半数を現金化したがそれでもそれなりの額となった。
チェスや将棋などのゲームは誰とやってもあまりおもしろくなかった。祖父が紹介してくれた将棋の名人とは最初名人が飛車角香車落ちで戦ったがぼくがあまりにあっさり勝ってしまったので、そのあとは平手、さらにぼくの飛車角落ち、最期にぼくは歩兵と王将一〇枚だけで戦って勝ってしまった。
オセロでぼくに勝てるのは沙羅だけだった。もちろん普通にやったらぼくは圧勝してしまう。あまりに手を抜いたら怒る。最後の一枚で何となく沙羅が逆転勝ちするように誘導すると彼女は本当に無邪気に喜んだ。
いよいよ大人たちはぼくのために特別な授業を行うべきと言い出したがぼくはがんとして拒否した。沙羅がぼくと別れ別れの生活になることを悲しんだからだ。
沙羅は泣き虫だ。怖いテレビを見たとき、育てていた花が枯れたとき、ぼくが相手をできないとき、いつでも涙を浮かべてしまう。
ぼくはそのたびに彼女のお気に入りのハンカチを取りだしてそっと涙をぬぐう。これはぼくだけの役目だった。
「君の才能はとてもすごいことなのだよ。もっと本格的に勉強すれば将来素晴らしい学者になれる」
「すばらしい学者になってどうするのですか」
「それはすばらしい研究をして人々の役に立つような」
「興味はありません」
そう言って断り続けた。
しかし沙羅が病気であることが判った。
いつものようにぼくに童話を話している最中にぱたりと倒れた。そのときは疲れているだけかと思ったが、訪れた病院から一日たっても二日たっても帰ってこない。
一週間後、ようやく面会が許されて病室に行くと沙羅はベットの上でふくれていた。とてもつまらないと言った。だからその日は一日沙羅の側に居た。
その日の夕方。祖父と二人で主治医に呼ばれてぼくは沙羅の病名を知ることになる。
先天性神経性筋肉硬化症。
神経の伝達物質の異常から怒る筋肉の慢性硬化症上。主に遺伝子の一部欠損から発病する。
ぼくも一応血液検査を受けた。ただこの遺伝病はX遺伝子が二つあって発病条件となるため男性での発症症例は皆無だという。ぼくも祖父も陰性だった。
そしてその病気はぼくの母親の命を奪った病気でもあった。
全身の筋肉が衰える。まずは足が動かなくなり手が動かなくなり、身体が起こせなくなり声も出せなくなり……最終的に心臓の筋肉が停まる。その間、脳は活動し続ける。明確な思考を保ったまま沙羅は徐々に死の淵に追いやられる。
ぼくは妹の病状について理解した。さらに情報を求めるべくインターネットに潜り専門書を読みあさった。著名な医学博士に面会し最新の英語論文も読んだ。
突きつけられた事実は一つ。救いようが無い。
そんなことは無い。人類の医学は進歩した。平均寿命を倍近くに延ばした、天然痘を撲滅した、結核も麻疹もコレラも赤痢も必死の病では無くなった。
抗生物質は細菌による破傷風を克服した。なのになぜ妹の、たかが一つの病気を治せない。
ぼくは祖父に働きかけて勉強した。中学校の科目も高校の科目もすっとばして大学の専門分野も大学院の研究も飛び越して勉強した。
臨床医学を覚えた、薬学を覚えた、生理学も覚えた、論文を読むのに必要なドイツ語も覚えた。
ほんの少しのヒントでも得られるのであればいかなる国の医学博士にもメールを書いた。しかも相手の母国語で。
しかしどれもこれも当てにならない。帰ってくる解答はたった一つ、治らない、無理だと。
なんてこの世は役立たずな連中ばかり居るのだ。
そこでぼくは、ぼくがこの問題を切り抜けるしかないと思った。
大人たちはぼくが天才だと言った。まれなる才能で有りいずれ万人の焼くに立つ研究を成し遂げるであろうと。
そうだ、ぼくの才能は沙羅を治すためのものなのだ。万人など知らない、ぼくは彼女のために全ての力を使う!
ぼくはこの病気を解明するために一つの企業を作り出した。沙羅とぼくの名前をとってSIファクトリー。表向きの代表は祖父になってもらい資金は携帯電話のアプリと株操作で儲けたものをつぎ込んだ。
途中までの解析結果を基に帝国医大の遺伝子学の研究室と合同研究を行うことになり、大手薬品メーカーの西宮製薬と共同開発を行う。
小学校の間は歩くのに少し不自由がでるくらいで沙羅の体調はそこまで悪くなかった。治すなら今のうちだ。
途中経過でいくつかの遺伝子治療薬が開発され、SIファクトリー名義で特許を取り帝国医大で臨床実験を行い西宮製薬で製品化する。
それらのローテーションでぼくらの活動は表面化したが、ぼくはなるべく表に出ないように注意した。
中学生となって沙羅の体調が急変する。
まず歩行は無理となった。腕の筋力も落ちているので車いすでの移動も無理に近かった。
沙羅は帝国医大付属病院・特別病棟に入院する。そこならぼくがいつでもお見舞いにいけるからだ。
「あたし、お兄ちゃんと手を繋いで高校に通いたい」
ぼくが病室に顔を出すと沙羅はいつでもそんな事を言う。
もしかしたら自らの命の制限に感づいていたように見えた。
「高校生になってもぼくと手を繋ぐのか」
「ダメ?」
「構わないよ。その代わりにきちんと高校に受かるんだぞ。ぼくは手助けしないからな」
「お兄ちゃんのいじわる」
可愛らしく頬をふっとふくらませる。ぼくは彼女の髪をくしゃくしゃとなぜた。
「沙羅はどこか行きたい高校があるのか」
「おじいちゃんの家の近くに私服で通える高校があるでしょ」
「ああ、峰京高校か。あそこならそんなにレベルも高くないし沙羅でも入学できそうだな」
「お兄ちゃんはどこの高校に行くの?」
「他の高校を受けて欲しいのか」
沙羅は少し考えて上目遣いに首を振る。
「峰京高校の近くにおじいちゃんの持っているアパートがあるから一緒に暮らそうか。そしたらぎりぎりまで寝ていられるよ」
「うん。約束だよお兄ちゃん」
ぼくたちは指切りした。
沙羅の病気は日に日に悪化していた。
もう時間が無い。しかし原因と対策は判りつつある。
問題となる遺伝子はニューロンのレセプターで神経興奮物質を放出後にそれをリセットするための酵素を間違って作り出している。
本来正常に働くべき酵素の構成に誤りがあり、レセプターのキーとなって興奮信号を沈静化するどころか常に興奮させて緊張状態にしてしまう。それが末端から現れると言うことは血流改善と異常酵素を正常酵素に置換できれば良いはずだ。
謝っている遺伝子情報から酵素を抽出するためのタンパク質合成とリボゾームの動きを中心に、考えられる塩基置換要素を含んだ投薬で観察を続ける。
あいては有機化合物、反応速度が遅い。ぼくは結果を速く見極めるために反応を加速するための実験装置を開発した。それでも遅い、沙羅の病の方が足が速い。
中学二年生の春。沙羅はほとんど身体を起こせなくなっていた。
「最近は沙羅のお話を聞いてないな。今も練習しているのかい」
「うん。このねクマさんに聞かせているよ」
沙羅の視線はベットのサイドテーブルに置かれた小さなぬいぐるみに向いていた。
「そっか。母さんが残してくれたクマだもんな」
「でもね、腕とか疲れちゃって本がうまくめくれないの。それに時々声もかすれちゃって」
よく見ると瞬きの回数もどこか少ない。目も充血し瞳の動きもどこか鈍くなっていた。
「そういうときは看護士さんに頼めばいいよ。沙羅の担当の看護士さんなら優しくしてくれるだろう」
「お兄ちゃんより優しい人は居ないよ」
沙羅はそう言って笑った。
その日以来、沙羅は眠り続けることになる。
時間が無い。ぼくに寝ている時間は無い。ぼくの代わりに沙羅が寝てくれている。
時には三日、四日と起き続けた。あまりに無理をするぼくを気遣って祖父は大量の睡眠導入剤を入れた食事を食べさせたそうだがそんなのは効かなかった。
ぼくが寝るとしたら試験の結果が出たときだけだ。寝ても夢すら見ずにすぐさま研究と実験を続けた。
何度か血を吐いた。研究室で突然倒れた。胃が弱くなって普通の食事は必ずもどしてしまう。ぼくは栄養剤をのみブドウ糖を注射した。
沙羅だってろくなものを食べていないんだ。こんなのは我慢のうちに入らない。
沙羅の血圧が六〇-四〇まで落ち込んだ。心拍数は七〇を切ることがある。ついに硬直状態は心臓を冒し始めた。
もう少し、もう少しなんだ。いま試験している試薬は三種類、副作用の危険もあるがニューロンブロックを解除できれば一時的に心臓の動きを担保できる。
そしてついに結果が出た。試薬B-0012Cがニューロンブロックに対して有効な値を示したのだ。マウスでの実験も八〇パーセント有効で、沙羅の心筋組織に対しての反応も陽性だ。
ぼくはアンプルを握りしめ病棟を走った。 まだ間に合うはずだ。少なくとも鼓動さえ止めなければ。
「沙羅! 薬が……」
だが返事は無かった。
静かな病室の中、生体反応を知らせる機器の電源は落とされ、クリスマスツリーみたいと彼女が呟いていたランプも消えている。
ベットの上に横たわる妹。小さく細くなった手を胸の前で組んで微動だにせずに。
その表情は見えない。
白い布が彼女の顔を覆っていた。
「本日の午前一一時二三分、沙羅さんの……」
そばに控えていた医師が淡々と告げる。その声は聞こえてこない。
ぼくは彼女に近づいてそっとその邪魔な白い布をどけた。
ほら、見ろよ。笑ってるだろ。顔色は悪いかも知れないけど、寝ているだけだ。いまぼくが作った薬を……
その手をほどいてくれ。どうして脈打たない。どうしてこんなに冷たい。今すぐに薬を、薬を……
「沙羅さんの死亡を確認しました」
「ちくしょぉぉぉぉぉ!」
ぼくの投げつけたアンプルが白い壁にぶつかって弾けた。
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