第36話 喧嘩
「マジでナメられてんじゃねーよ。時間もねーし、もうやるっきゃねーだろ」
「やるって、何を?」
大方の返答は予想できている相模(さがみ)が、眉をハの字に下げて問う。
八王子(はちおうじ)は相模を下から睨み上げながら、力こぶを作った己の上腕二頭筋をバシバシたたいて応じた。
「喧嘩だ、へっぽこゾンビ。もうアゴやんなくていいぞ」
相模が今の今まで律儀にしゃくっていたアゴを言われるままに引っ込めれば、オモシロ成分はなくなって、モロに喧嘩慣れした番長みたいな面構えになる。
それを見て満足そうに頷き、八王子は正面に向き直った。
「いいか、剣道のときみてーにガチの空気出せよ。マジの喧嘩だかんな」
「いやだよ。喧嘩なんかしたら、ジム破門にされされちゃうじゃない」
「せーとーぼーえーだろ。ここでおとなしく畳まれたら、ケガさせられてスタントマンになる夢が潰れるかもしれねーぞ」
「ケガしない自信ならあるぞ」
「オマエが平気でも、オレは間違いなくケガさせられるだろ。漫才どころじゃなくなって、和泉に想いも告げられず、青春時代の夢が早くも敗れ去るんだぞ」
「それは……」
「じゃー、いい。オマエがビビっていかねーならオレ一人でやるわ。やらねーで後悔より、やって後悔のがいくらかマシだからな。体格に勝る相模さんはなにもせずガタガタ震えながら、打たれ弱い相方がズタボロにされていくのを傍観していてくださいなっ!」
ワンブレスでまくし立てると、右隣から諦めたようなうめき声が聞こえた。
「……わかった。しましょう、抵抗」
「よーし。じゃノルマ、オマエ三人、オレ二人な」
打って変わって明るい声で不公平を言う八王子に、相模はうまく乗せられたような気がして異論を唱える。
「平等じゃないね」
「当たり前だろ。オマエのが身長とか体重とかあるんだからよー。オレに三人受け持たせて、良心痛まねーのかオマエ?」
「でもさ、俺は蹴ったり殴ったりできないよ?」
「うるっせーなー。じゃーもう、こうする」
八王子はイライラ最高潮で巻き舌になりながら、仲間割れをニタニタ眺めている美倉高グループのほうへと歩いていく。そして一番手近な鼻ピアスの不良の真正面に対峙した。
「オイ、オマエ」
「なーんでちゅか、おチビちゃーん」
舌をペロンペロンさせて挑発する鼻ピアスに向かって、八王子は両腕を前にファイティングポーズを取る。弱いけど上手いらしい相模に教えられたとおりにやったので、結構サマにはなっているらしかった。
「あらー、一丁前にサウスポーでちゅかー」
「もう、いーか?」
面倒くさそうに尋ねる。
鼻ピアスが威嚇用の顔を作って
「あぁん?」
とスゴむ。
そこでローキック。
さすがに直前で回避行動を取られたため、クリーンヒットとはいかない。実際に当たった箇所は、目がけた位置より少しだけズレた。無抵抗な人間サンドバッグの相模とは違うのだ。だが――
「んんんんん!」
正確には「ん」に濁点がついたような聞いたこともない声を発し、鼻ピアスは地面に転がって悶絶した。
残りの四人も驚いたようで、「おい、大丈夫か」なんて気休めにもならない言葉をかけながら、のたうつ仲間を取り囲んでいる。
何より一番驚いているのは八王子本人で、小動物みたいなキョトン顔で相模を振り返った。
「なんで? 若干打点ズレたんだけどなー」
「八王子は体重移動や体幹の使い方のセンスがいいから、入れば効くよ」
「えー。でも普段オマエにやるときはさ、もっとカンペキに入ってるぜ?」
「俺は平気だけどね。他の人には絶対やっちゃダメだよ」
真顔で釘を差してくる相模に、八王子はイタズラを企んでいる悪童面で訊く。
「今以外?」
「今以外」
渋々といった顔で相模が頷く。
「じゃー、コレで残り二人ずつな」
「テメェ、何してくれんだオラァ!」
「危ない危ない」
急に吠えて突進してきた金髪の前に、園児の喧嘩をいなす幼稚園の先生かと思うようなトーンで相模が体を割り込ませる。金髪の繰り出すパンチを、馬鹿デカい手でそっと握り込んで受け止めた。
「あー、金髪っつあん、それヤベーよ。今スグに離れたほーがいいぜ?」
「うっせーオラァ!」
ニヤつきながらの八王子の忠告を無視し、金髪っつあんは残った左手での攻撃を試みる――も、これまた小学生のドメスティックバイオレンスを父親の貫禄で封じ込めようとする休日のパパよろしく止められる。
「今降参するなら、許してあげるけど」
「誰が降参するかクソッタレェ!」
「一応、警告はしたからね?」
心底残念そうな顔で言い、相模は両手にジワジワと力を込めた。
金髪は自由になる足を使って攻撃する。本気の蹴りは、自由を戒める番長ルックの脚やら脇腹やらに次々ヒットするが、一向に手応えが感じられず、気味が悪くなった。
しかし彼の不幸はそんなさまつなことではなく――
「いでえええぇぇぇえ!」
両手の骨がきしみ、情けない絶叫が喉から勝手にしゃしゃり出ていったことだろう。
だがその声は、確かに仲間への救援要請として機能した。
「何してくれとんじゃー!」
すばしっこく逃げる八王子を追いかけていた口髭氏が、目標を変更して相模に襲いかかる。まずは仲間の手をつかんでいる手を放させようと指に手をかけるが、びくともしない。ならばと腕ごとどうこうしようとしたが、これまた石像のように微動だにせず。諦めて背後から羽交い絞めにしようとしたが、無意味だった。どれくらい意味がなかったかというと、大リーグ養成ギブスのバネのつき方くらいだ。
「はいはい、順番だから。もう少し待ってて」と、おんぶをせがむ子供に言い聞かせるトーンで言ってから、相模は現在対応中の相手に向き直る。「降参したら離すよ。戦線離脱って意味でだからね。骨いっちゃう前に宣言してもらえるかね」
「参った参った参った!」
「はい、じゃあ下がってて。次は背中の君ね」
「バーカ、おれだっつーの!」
逆毛が助走つきの右ストレートを相模の顔面に叩き込み、ドヤ顔をしながら叫んだ。
が、直後に悶絶しながら地面を転がる三人目となる。
「センスのないパンチだな」
というセリフと共に、相模の大きな掌底にみぞおちを圧迫されたのだ。その瞬間から彼の対戦相手は、嘔吐感と胸部痛に変更される。
やれやれと相模が背中の一人をどうやって引っぺがそうかと考え始めたとき、切羽詰まった八王子の声が耳に飛び込んできた。
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