第13話 救助
チャイムと同時に隣人の
何気なく
八王子はその女子に少しだけ同情した――彼女の名前は知らないが。
そして相模は、次の十分休みには白飯オンリーの弁当を食っていた。梅干しくらい入れてやれよと八王子は思わないではない。
ついにやってきた昼休み。
八王子は姉の作った弁当とルーズリーフを持って、相模のイスの脚を蹴った。
「飲み物買ってから屋上行くぞ」
返事を待たずに教室を出たが、ほどなくして後ろから、間延びしたゾンビの足音が追いついてきた。振り返って見ると、ヤツは片手にやたら長い食パンの入ったビニール袋をぶら下げている。いろいろ思うところはあったが、触れないことにした。
十六年と半年、他人に対して自らアクションを起こすということを怠ってきた八王子だ。
その服似合ってるじゃん。髪切った? 何それすごい、見せて。何かいいことあった? ――周りのヤツラが当たり前みたいな顔をして使いこなしている、それらの言葉。会話の導入というか、キャッチボールの一投目。それが難なくできる部類の人間だったら、今頃友人の五人やそこらはいただろう。
「放課後の話だけど、隣のヤツが漫才見せろってうるせーんだよ」
「漫才って、さっきの?」
「ほかにどの漫才があんだよ」
いかにも「そんな話聞いてません」と言いたげな相模に、八王子は振り返ってメンチを切った。
「オマエ、今朝から超つまんねーぞ」
「ご挨拶だな」
投げれば即、球が返ってくるのに気を良くして、つまらない発言の件は流してやることにした。漫才をするからといって、四六時中面白いことを言っていなければならないわけではない。
「柏はいいとしてさー、女連れてくるんだぜ、彼女みてーな」
「『みてーな』って、彼女ではないのか?」
「なんでソコに食いつくんだよ」
「そこんところハッキリしてないと、接し方に困るよ。彼女じゃないのに彼女扱いしたら、気まずいし」
「まーな。女――千葉っつーんだけど、ソイツは否定すんだろーな。でも付き合ってるってくくりでいいと思うぞ」
「ふむ、合点承知の助」
よくわからない了解のされ方をしたが、ここはスルーだ。
昼時の食堂は、おそらく大抵の学校が戦場と化すだろう。だが、ヒバ高をそんじょそこらの学校と一緒にしてもらっては困る。生徒数千人のひばりヶ丘高校、その食堂はさながら――濁流だ。
並の決意では、行きたい方向へ進むことさえままならない。そこかしこで怒号と悲鳴が飛び交い、つないだ手と手を断たれた恋人たちが切ない声で名を呼び合うのが聞こえる。そう、映画のワンシーンが日々繰り広げられる場なのだ。
「相模、あのコーヒーカップの絵の看板まで行け」
言いざまに、八王子は相模の背後へ回り込む。
「あっち? えらく遠いね」
「売店、来たことねーの?」
「ない」
「飲みモンどーしてんだ?」
「水、かな」
「じゃあオマエは水でも飲んでろ。だがオレは爆泡ラムネ王が要るんだ。なくなっちまう前に急げー」
「へいへい」
濁流の前では、八王子自慢のスピードもクイックネスも無力に等しい。この脅威に立ち向かうのに必要なのは、パワーとタフネスだ。
剣道部で見せた、両手でも摺り上げ不可の片手面を繰り出す馬鹿力。アメフト部で見せた、相撲部員のタックルでもビクともしない安定感。
相模を利用することで、この荒れ狂う人の波を突破できると踏んだのである。
ヒバ高の売店は品数豊富なのはありがたいのだが、その分、商品一種類あたりの入荷数が少ない。そのためここでは、あらゆる物資が品切れの危機にさらされていた。
八王子が最近ハマった炭酸三倍(当社比)のラムネには、二学期に入ってから一度もありつけていない。すべてこの忌まわしき大混雑が悪いのだ。
「スミマセン。はい、ごめんなさい。ちょっと、失礼しますよっ……と」
さすがは柏曰く「アメフト部の活動初日、主将が歓喜のあまり『今年は一勝できるかもしれん』と号泣した」相模だけある。人の波を胸で押しつつ、ゆっくりとではあるが確実に目的地へと近づいていく。
八王子は、周囲から頭半分飛び出したリードブロッカーの後ろを、何も考えずただついていけばいい。
チョロいな。そう思ってほくそ笑んだとき、相模の右前方から押されたセーラー服姿が大きくバランスを崩す様子が視界に入った。
自分が死にそうなわけでもないのに、八王子はその光景がひどくゆっくりに見えた。
肩までの清潔感のある黒髪に、丸みを帯びた目尻の大きな目の女生徒――つまり
「相模、ファンブル!」
「承知……っと、大丈夫? 危ないからとりあえず、立っ……」
反射的に出た八王子の指示に、なぜか「右でコケそうになってる女子を保護しろ」という意図を明確に察した相模が行動に出る。
しかし助け起こそうとするより、和泉の足に蹴っつまずいた別の誰かが倒れこんでくるのが早かった。それも、一人では済まない。つまずきは一気に連鎖して、ちょうど和泉の上へ屈み込む体勢になった相模の上に、何人もの生徒が折り重なった。
「ちょっと重いな、ちょっ……と重いぞ、これは!」
ついぞ聞いたことのない緊迫した相方の声に、八王子もすぐさま呼応する。
「オマエら止まれ! 人倒れてんだから、これ以上乗っかってくんじゃねー!」腹の底からの声でがなってから、眼前に一瞬で築かれた人の小山から、一人一人を剥がしつつ相模に言う。「絶対潰れんな、和泉潰したらオマエの前歯無くすぞ」
「わかってる。でも……急いで」
八王子の上げた大声のおかげで、濁流は三者――相模がファンブルボールよろしくリカバーしているはずの一人含む――を避けるように流れを変えた。チャンスに乗じて、八王子はさらに手早く人をどかす。どかすどかす、どかす。
合計七人が立ち上がって去っていくと、そこにはお馬さんごっこの馬みたいな格好をした相模が、顔を首まで真赤にして耐えていた。
「ぎゃはははは! オマエ、首の血管プッツンしそうだぞ」
「さすがに俺もね、圧縮されるかと思った。布団みたいに」
ヒイヒイいいながら体を起こそうとする相模。その下に丸まっていた和泉は、無事だった。よかった!
和泉は、木のほら穴から顔をのぞかせたモモンガみたいな表情で八王子を見上げていた。
不意打ちのかわいさに胸が締めつけられて、八王子の頭の中は一気にフィーバー。口にしようとしていた言葉さえ、うまく出てこない。
「立つ……る?」
噛みつつも差し伸べた八王子の手を、指の細い可憐な手がつかむ。思ったよりもひんやりとした触感に、自分の体温が急激に上がったのを感じた。そして、「やっぱり爪ちっちゃいな」と感動する。
「ありがとうございます、死んじゃうかと思いました」
そう言って和泉が微笑むだけで、売店の電球のワット数が上がったような気さえする。
床に引き倒されてから立ち上がるゾンビみたいな相模はガン無視で、八王子は曖昧に頷いた。ただ、どんな顔をすればいいのかわからず、内心ひどく焦る。
「あー、うん。怪我、なさそうでよかった」
「おかげさまで」
往来のド真ん中で立ち話もなんなので、とりあえず壁際に進むデカい背中を、和泉の手を引きながら追いかける。たどり着いた壁に背中をへばりつかせると、かろうじて人の波に飲み込まれずに済んだ。
「あ、そう言えば、これ」
くるくるとかわいらしい目が、八王子を飛び越えて、後ろの相模に注がれる。彼女が差し出しているのは、丸ごと一斤の食パンだった。
「あ、どうも」
「ごめんなさい、とっさに抱え込んだから、ちょっと潰れちゃったかも」
「いいんですよ。腹に入れば一緒だから」
……確かに、命の危機――混雑地帯で発生する将棋倒しのヤバさをナメてはいけない――を直接救った形になる相模が、この状況では主役なのかもしれない。ただ、だからといって和泉との会話をゾンビ野郎ごときに譲る気は、八王子にはなかった。
「和泉さん、だよね? 八組の。オレ、八王子」
「そうですよー。わー、ずっと遠くのクラスでも知っててくれる人がいて、ちょっとうれしいな」
「オレたち一組。和泉さん、転校生なんでしょ? コイツも」と、相模の胸を強めに殴りながら言う。「同じ日に転校してきたんだ。相模っていうゾンビね」
「あはは、何でゾンビなのー?」
和泉は両手を口の前で合わせて、それはそれは楽しそうに笑った。
「歩き方とか、声の低さとかイロイロあるけど、一番はやっぱ……におい?」
「えー! ゾンビのにおいって、どんなのだろー?」
「もしもし八王子。俺は別に、そんな臭くないからね。足以外は」
「げははは! オマエ足くせーのは認めんのかよ」
「そこはツッコまれる前に言っておいたほうがいいかな、と。自己申告してみた」
二人の掛け合いに、和泉の笑い声がいっそう高まる。
好きな子を笑わせるって、イイ。八王子は脳内でも実際にも、こぶしを握りしめてガッツポーズをした。
「二人とも面白いねー」
心底笑ったせいで潤んだ目をきらめかせながら、和泉が爆弾発言を投下した。
それはつまり――タイプですという宣言か。二人とも、というのが若干気にならないではないが、八王子は以前に聞いた和泉の「好きなタイプは面白い人」発言を忘れたわけではない。
だが、時間とは無情に過ぎ去るもの。昼休みは一時間と決まっている。
「あー、ゴメン。友だち待たせてるの、行かなきゃ」
「おう、そっか。それじゃー、また」
「もう転ばないようにね」
「あ、テメ……」
気の利いたセリフを取られ、相模につかみかかったときには、すでに和泉は人混みへと消えていた。
悲しいかな、身長差のせいで胸倉をつかんでもあまり様にならないので、仕方なしに手を離す。ただ、釘を差すのは忘れない。
「オマエなー、自分だって新入りのクセに、あんま調子に乗ってんじゃねーよ。ほぼ中三がよー」
「そうだった八王子先輩。ほぼ高二」
「それでいーんだよ」
結局、なんだかんだで普段以上に時間を食ったため、八王子は今日も爆泡ラムネ王を逃した。仕方がないのでジンジャーコーラを買い、相模は水道水ではなく五百ミリの牛乳を携え、屋上に向かったのだった。
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