旅の始まり、東の大陸へ(2)
マジュリカさんと僕はクオリタリカの海辺のホテルにいた。
桟橋近くにぷかぷかと浮いている〈太陽の花びら号〉を眺めていた僕は、青い空と海に視線をさ迷わせ、それから小さな溜息をついた。
「来ませんね」
飛行艇に給油も済ませ、再出発の準備は万全だというのに、ポートグロフさんたちが乗った〈聖ハーメル号〉は待てど暮らせど現れない。
運ばれてきたパンケーキにハチミツを垂らしながら、のんびりとした調子でマジュリカさんが言う。
「ミス・キルスティンに手帖を持たせたのは間違いだったな。東の大陸に到着するまでこちらの手元に置いておくべきだった」
「暢気にパンケーキなんか食べてる場合ですか。早いところ出発しなきゃ軍に取り囲まれちゃいますよ。クオリタリカを出た途端に迎撃されるのはごめんです」
「まあそう焦るな。ここからうまく出発する手立てはすでに考えてある」
丁寧にナイフで切ったパンケーキを頬張りながら、星図家は胸元から取り出した紙切れを二枚ちらつかせた。それはクオリタリカからやや南東に位置する孤島へ行く大型客船の乗船券だった。
「ちょっと遠回りになるが、こいつで飛行艇ごと脱出出来る」
一体いつの間にチケットを手配していたのだろう。僕は少しばかり感心して目の前の星図家を改めて見つめ直す。それに気づいたマジュリカさんはニヤリと微笑んだ。
「ちょっとしたバカンスだな。まあ、新婚旅行(ハネムーン)だと思って楽しもう」
そのセリフに僕は飲んでいたコーヒーを思わず噴出す。
「誰と誰の新婚旅行(ハネムーン)ですか!」
「決まってるだろう? 私とおまえの新婚旅行(ハネムーン)だよ」
「僕らはいつ結婚したんです? それに僕は男だ!」
顔を火照らせて抗議する僕をよそに、星図家は変わらぬ調子で新たにパンケーキを一切れ頬張った。
「おまえは本当に冗談の通じないやつだな、スカー。――ちなみに、念のために言っておくが男同士でも結婚は出来るのだよ」
そう言うと、マジュリカさんはふいに何かに気がついたようにナイフとフォークを操っていた手を止めた。驚くべきことに、彼の視線の先にいたのはシザーリアス・ヴァイレンだった。バカンス客たちで溢れるホテルのロビーの華やかさの中で、軍服姿の青年はひどく浮いていた。
「随分と早く見つかってしまったな。早くも尾行開始か、シザーリアス」
「おまえらを見張るのは俺の役目じゃない。もっと下っ端の連中だ」
シザーリアス・ヴァイレンは僕の隣に腰をかけると、足を組んで例のごとく銀色の髪をさらりと上に掻き揚げた。
「一応伝えておこうと思ってな」
彼は火をつけた煙草を燻らせながら言った。
「スフィニア・メイルドは俺と結婚する気などない。彼女を幸せにも不幸にも出来るのは俺じゃない。おまえだ」
「そんなことをわざわざ忠告しに来たのか」
「忠告じゃない。警告だ」
「なんにしろ、手遅れだな」
星図家の返した言葉に、シザーリアス・ヴァイレンはしばらくの間黙り込んでいた。銀の皿の上に火をつけたばかりの煙草を押し付けながら、彼はやおら立ち上がる。
「次に遭った時は本気で撃つから覚悟しておけ。おまえと違って俺は優しくないからな」
その言葉に、マジュリカさんは鼻でせせら笑った。
「鼠一匹殺せなかったのはお互い様だろう? シザーリアス、よもやあのときの出来事を忘れたわけじゃないだろうな」
「ポートグロフ社の納屋で配線コードを齧っていた鼠を見つけたときのことか? 手近にあった工具で鼠を狙うつもりが、ハンフリーの飛行機を二人でぼこぼこにしたな。たかが鼠一匹だったのに、近寄ったら噛まれるんじゃないかと怯えて、なかなか近寄れなかった」
「最終的に、私たちの悲鳴を聞きつけたスカーレットがやって来て――」
「持っていたフライパンを叩きつけた」
そこまで話し終えると、二人はさもおかしいと言わんばかりに肩を震わせて笑い合った。
僕はすっかりあっけにとられてしまった。旧知の間柄とはいえ、つい昨日裏切られたばかりの相手と和やかに話をしている光景は随分と奇妙なものだった。
やがて、ひとしきり笑い終えた星図家は口をつぐみ、シザーリアス・ヴァイレンはやや真面目な顔つきになって言った。
「自分のしていることがわかってるのか、マジュリカ。おまえは空軍を敵に回しているんだぞ」
「そんなことをわざわざ忠告しに来たのか?」
星図家の返答に、銀髪の軍人は皮肉な微笑を口元に漂わせる。
「忠告じゃない。警告だ。何度も言わせるな」
そう言うと、シザーリアス・ヴァイレンは片方の手を挨拶代わりに軽く振り上げ、ロビーから立ち去った。
ホテルから出た僕らは、どうやら空軍の連中に尾行されているようだった。しかし、マジュリカさんの手筈は万全だった。給油をしに来た老人にチップを弾み、〈太陽の花びら号〉は僕らがシザーリアス・ヴァイレンと話していたとき、誰に知られることもなくすでに客船へと運ばれていたのだった。
結局ポートグロフさんの飛行艇が現れることはなく、夕闇に紛れて追っ手を巻いた僕とマジュリカさんは無事船に乗り込み、南東周りで東の大陸へと旅立った。
葡萄色の空に船の汽笛が響き渡る。揺らめく島の明かりが次第に小さくなってゆくと、なんだか心細い思いがした。風の強い夕暮れのデッキには段々と人影が見られなくなっていった。
大海原のたゆみない波の動きを見据えながら、僕は教授の死について改めて考えをめぐらせる時間がやって来たことに気がついた。
ちょうどそのとき、デッキの手摺に寄りかかり、夕空に光る星を見上げていたマジュリカさんが、まるで僕の心を見透かしたかのように口を開いた。
「トレキアについて綴られたあの手帖は、もともとおまえが教授と呼んでいた老人の物だったんだ」
「教授は軍が追っているトレキアの秘密を知っていたんですね?」
「知っていたのかもしれないし、知らなかったのかもしれない。殺されてしまった今となっては、彼が綴った手帖の内容を解読するまで厳密にはわからない」
「教授がトレキアに纏わる秘密に関わっていることを、軍はどうやって嗅ぎつけたんだろう?」
「……私の祖母がキラキラ鉱山の保有者だという話は前にしたな?」
「はい。数ある保有者のうちのひとりだとか」
「実際には保有者は二人だったのだ。私の祖母ともうひとり。それが――」
「もしかして、教授だったんですか?」
僕が口を挟むと、マジュリカさんは片方の口端を上げて微笑んだ。「察しがいいな」
それから、吹き付ける風の冷たさに身を縮め、飛行服の襟を立てた。
「彼らは東の大陸でトレキアに纏わる秘密と関わることになった。軍はその情報を得たんだ。中に入ろう、スカー。私は元来体の弱い方でね。東の大陸に着く前に風邪を引くわけにはいかないからな」
「ちょっと待ってください。情報を得たって、一体どうやって……」
腑に落ちない口調で呟くと、甲板を歩き始めていた星図家はふいに歩みを止めた。
「知るのは簡単だった。一応家族だからね」
言葉の意図するところがわからず混乱する僕に向かって、マジュリカさんが続けた。
「おまえが教授と呼んでいる老人は私の祖父だ。そして、おじい様を殺した軍人は彼の義理の息子――つまり、私の父親なんだ」
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