旅の始まり、東の大陸へ(1)
白粉の匂いをぷんぷんさせた占星魔術師は、朝日を受けて輝く水晶玉を穴が開くほど覗き込み、寝不足で肌が荒れたとひどく騒ぎ続けていた。
「これをご覧になって、スカー! あたくしの目元に真っ黒なクマが出来ましたのよ! 黒って大嫌い。すべてをのみこむブラック・ホールのようで恐ろしくてたまりません」
「もう少し早く歩けませんか? ミス・キルスティン」
「んまあ、スカー! あたくしはこれで精一杯歩いてます! ああ、まったく、これからの数日間、か弱きレディがむさ苦しい男たちの中で昼も夜も共に過ごさなければならないだなんて、それを思うだけで眩暈が……」
ミス・キルスティンを連れて納屋に戻ってくると、出発前の新型艇に頬を寄せ、ポートグロフさんがマジュリカさんを相手に熱弁を振るっていた。
「見ろ、この滑らかなプロポーションを! ジョメルディア・バシックのエンジンに合わせて造られた美しい流線形。俺の芸術的センスがあますとこなく発揮されていると思わないか? まさかここまで流麗なジョメルディアンになるとは思いもしなかったんだがな、これはある意味天才が期せずして生み出した誤算っていうやつか。しかし、翼間支柱の取り付け位置にはこだわりがあるんだ。設計自体は実にシンプルなものなんだが……」
完全無視で地図を広げるマジュリカさんは、コティさんと旅の経路について話していた。ポートグロフさんと目が合ってしまった僕とミス・キルスティンは運悪く彼の餌食となってしまう。
「この新型艇の愛称を知りたいか?」
いいえ、と答えたのに、飛行家は僕の返事などまるっきり無関係に話し始める。
「こいつは〈聖ハーメル号〉っていうんだ。ハーメルってのはこの町の名称だが、もともとは神話に登場する風神の名前なんだ。かつてこの土地が異国の侵攻を受けたとき、聖ハーメルの奇跡の風によって守られたと伝えられている。言い伝えによれば、この女神ってやつがスタイル抜群の美女だったそうで、こんな大層な名を飛行艇につけるなんざ、はっきり言って飛行家の欺瞞だな」
自慢げに髭をさすりながら高らかな笑い声を上げるポートグロフさんの横で、ミス・キルスティンは苛立ったように負けじと声を張り上げる。
「今はそれどころではなくってよ! 夜更かししたせいで充血してしまったあたくしの目をご覧なさい! レディひとりにこんな労力を使わせて、あなたがた殿方は恥ずかしくありませんの?」
「この新型艇は絶対嫁には出さないと固く心に決めたんだ。くだらない戦争の道具になんかされたらたまらないからな!」
噛み合わない会話に憤慨した占星魔術師は、片方の足から自らの靴をもぎとると、細いハイヒールを新型艇に向かって振り上げた。
「おい! 何する気だ? よせ! 俺の愛艇(女)に近づくな!」
飛行艇に乗り込む直前、僕はスフィニア・メイルドから預かった指輪をマジュリカさんに手渡した。グリュニーディアンのカッティングが繊細な光の屈折を生み出し、トレステンの輝きを星図家の瞳の中に映し出す。
マジュリカさんはスフィニア・メイルドがここまで来ていたことについても、また、彼女が指輪を返してきたことについても、僕が話した以上に尋ねることはなかった。ただ、「そうか」と淡い微笑を浮かべて返し、そのまま操縦席に乗り込んだ。
かくして、僕らはとうとう離陸した。
僕はマジュリカさんが操縦する〈太陽の花びら号〉に乗り、〈聖ハーメル号〉の操縦席にはポートグロフさんとコティさん、そして尾部座席にミス・キルスティンがフィッツを抱いて収まっていた。(猫まで連れて行くのかと星図家は呆れていたが、ポートグロフさんが断固として譲らなかったのだ)
好天に恵まれた旅立ちだった。ハーメルの湾に沿うように南下し、大陸を横断する途中、緑の丘陵を越えて豊穣な褐色の地を抜けた。生命の輝きに溢れる絶景を目の当たりにし、僕は抑えがたい感動にとらわれた。
陸地が終わりを告げる前、遠く離れた工業都市を横目に飛んだ。近代化の波が押し寄せた街からは、灰色の煙がいくつも立ち上っていた。その異様な光景に、まるで夢から現実へ引き戻されたような気がした。
きっと戦争の武器でも製造しているのだろう――と星図家の冷たく平たい声が伝声管越しに耳に届いた。
そのすぐ後、僕らは街の上空に広がる鈍色の雲間から、太陽が光の矢を射す瞬間を目にした。人知の及ばぬ神々しさに、僕もマジュリカさんも言葉を失った。灰色の煙もくすんだ街並みも、すべてが燦然と輝いて見える。それは、身震いするほど美しい光景だった。
『世界ってやつは、私たちが思っている以上に広いんだ。そして、おまえはいつか必ずそいつを知ることになるだろう』
飛行艇が未知なる大海原に飛び出したとき、僕は教授のことを考えていた。
この三ヶ月間、何も考えないようにしていた。幾度となく悪夢を見ても、教授が死んでしまったという現実を信じたくなくて、ずっとそこから目を背けたままだった。だが、いい加減向き合わなければならない時が来たのだ。
教授は空軍の一軍人によって殺された。しかし、なぜ殺されなければならなかったのか――。
『知っていることを全部話せ。そうしたら、命だけは助けてやる』
教授は何かを知っていたのだろうか? 空軍の一部の管轄のみで動いている極秘プロジェクトに関して……。やつらが追い求めているトレキアの秘密と何か関係があったのだろうか?
そのとき、伝声管からマジュリカさんの声が響いた。
「スカー、聞こえるか? クオリタリカに立ち寄って一度給油をする」
雲に映る機体の影を眺めていた僕は、返事をしながらふいに異変に気がついた。その直後、僕らの影を打ち破るようにして、二つの機体が分厚い雲から飛び出してきた。青茶色のボディに、黒い十字の紋章――。
「ベルクト・ランガーだ!」
「どこにいる!?」
「三時の方向に二機います!」
速度を上げると、背後に尾かれたベルクト・ランガーの前方固定式機関銃から弾丸が連射される。
「僕らを撃ち落とす気だ!」
今になって気づいたが、応戦しようにも〈太陽の花びら号〉には機関銃がついていなかった。
マジュリカさんが笑いながら言う。「そういえば、ポートグロフ社は戦闘艇を作らない主義に変更したから、我々の飛行艇に機関銃は無かったな――となると、持参した小銃で狙いを定めるしかないわけか」
「笑ってる場合ですか!」
「大丈夫だよスカー。トレキアの手帳がこちらにある限り、やつらはこの飛行艇を灰にしたりはしないだろう。私たちを慌てさせて進路を変更させるのが目的だ。きっと燃料が切れるまでしつこく追ってくるに違いない」
マジュリカさんが言い終わるか終わらないかのうちに、再び敵の機銃が火を噴いた。しかし、星図家の言うとおり、どうやらただの威嚇発射のようだった。背後を飛んでいたポートグロフさんたちの飛行艇は、二機いたベルクト・ランガーの片一方につきまとわれて、雲の中に隠れるように姿を消した。
しばらく飛び続けると、僕らの飛行艇を追っていたベルクト・ランガーは突如追撃を止め、機首を元来た方角へと傾けた。
「どうしたんだろう? もう追って来ませんよ」
「クオリタリカの空域に入ったんだ。コティと相談して給油ポイントにこのルートを選んでおいて正解だった。クオリタリカは永世中立国だから、やつらは引き下がるしかないのだよ」
星図家はそう言うと、少しの間を置いてから若干気がかりそうに呟いた。
「ハンフリーのやつ、焦って進路を変えたりしなければよいのだが……」
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