ポートグロフ社とスカーレットのこと(3)
カーテンの隙間から差し込む朝の光が眩しくて目が覚めた。ソファで寝返りをうつと、僕のすぐ隣にはマジュリカさんが横になっていた。僕は夢かと思い、暫しのあいだ呆然とする。マジュリカさんの健やかな寝息が耳に届く。夢じゃない。
左頬にくっきりと新聞記事が印刷された星図家は、大きな欠伸をひとつして僕に言う。
「スカー、おまえは本当に血も涙もない助手だ。命をかけておまえとミス・キルスティンを助けたこの私を、あろうことかソファから蹴り落とすだなんて、まったく悲しくて泣けてくるよ」
「別に蹴り落としたわけじゃありません。あなたが勝手に転がり落ちたんです」
「私の記憶が正しければ、私はおまえに足蹴りされたような気がするのだがね」
「至近距離で急に目を開けられて、驚いた拍子に足が当たっただけです」
「だから、それを蹴り落としたと言うのだよ」
僕らの言い合う声に気がついて、ポートグロフさんがサロンに下りて来た。
「なんだ、子供は朝っぱらから元気だな。マジュリカ、少しは眠れたか? 準備が整ったからいつでも出発出来るぞ」
マジュリカさんは胸ポケットから取り出した片眼鏡(モノクル)を右目に装着し、ポートグロフさんの顔を正面から真っ直ぐに見据えた。
「ねえハンフリー、もう一度だけ尋ねるが、君もコティも本当について来る気なのか? 私たちと運命を共にするということは、軍に追われる身になるということなのだよ?」
「自分から巻き込んでおいてよく言うぜ。おまえがここにいることに気がついて、もうすぐシザーリアスの野郎がやって来るに違いない。どの道俺たちは犯罪者の逃亡を手助けした罪を問われることになるんだ。だったらとことん助けた方がいい」
ポートグロフさんの言葉を後押しするように、玄関口に現れたコティさんが開いていた窓から身を乗り出して言う。
「そうですよ! それに東の大陸へ渡るなら、僕らのような優秀な整備士が必要です!」
コティさんの言葉に僕は驚いてマジュリカさんを振り返った。「東の大陸に行くんですか?」
すると、星図家は足元になついてきたフィッツを抱き上げ、不敵な笑みを向けた。
「そうさ。おまえの故郷である東の大陸へ、トレキアの秘密を探りに行くんだよ」
ポートグロフN&Cは、長距離航路用に開発された四百馬力四基の飛行艇だった。時速百五十キロメートルで、(航続距離やその他諸々の数字もコティさんが熱心に教えてくれたけど、僕はすっかり忘れてしまった)操縦士ひとり、乗客二人が乗れる優れもの。マジュリカさんの愛艇〈太陽の花びら号〉と同じく、尾翼にPの飾り文字が施されていた。
「NCの略はな、ナイスでクールって意味なんだ!」
飛行艇に乗り込んだポートグロフさんが豪快に笑い声を上げて言った。その横でコティさんが聞き流すようにと言わんばかりに目配せをした。
納屋の片隅に目をやると、飛行服に着替えたマジュリカさんは、軍人時代に使っていたと思われる携行品の整理をしていた。カップや水筒をはじめ、応急手当用品や弾薬やらがベルトつきの鞄に所狭しと詰まっている。僕の視線を感じたのか、顔を上げたマジュリカさんは苦々しげに口元を上げた。
「まさかこれが役に立つ日が来るとはね。もう二度と持ち歩くものかと思っていたが」
僕はしばらくその場に突っ立っていた。星図家の忙しなく動く指先を無言で眺めていたのだが、やがて、ふいにマジュリカさんが顔を上げた。「なんだ? スカー」
僕はさんざん迷った挙句、こう言った。
「あ、あの……。その、無事で良かったです。怪我とか、していませんか?」
マジュリカさんは茫然とした表情で僕の顔を見た。
「なんですか、その顔は」
「いや、おまえにそんなに優しい言葉をかけてもらえるとは思ってもいなかったから、ちょっと驚いたのだよ。もしや、おまえ、私に恋をしたとか?」
そう言って、笑いながら額の髪をかき上げる星図家を、僕は本気で突き飛ばしてやろうかと思った。
マジュリカさんは僕の手に手を乗せた。
「星の契約がある限り、おまえと離れているときに私が死ぬことはないよ」
「じゃあ、もう近寄らないようにします。一緒にいると命が危ないんでしょう?」
邪険に手を振り払う僕を見て、マジュリカさんは微苦笑を浮かべた。それから、彼はポートグロフさんやコティさんにも聞こえるように大声を張り上げた。
「我らが水先案内人、ミス・キルスティンはどこへ行った?」
その声に反応したポートグロフさんが、操縦席から面倒くさそうに顔を覗かせる。
「目の下にクマが出来たとかで、大騒ぎしながら洗面所を占拠してるよ。あのエセ魔法使いがトレキア人の末裔かもしれないだなんて、俺は絶対に信じないぞ。古代魔法文明の大いなる神秘もぶち壊しってもんだ」
「しかし、彼女がお祖母様に拾われたのは東の大陸だったそうだから、有り得ない話ではないな。何にしろ、トレキア書の解読が早まるのであればそれに越したことはない。……スカー、そろそろ出発するから悪いがミス・キルスティンを呼んできてくれないか」
僕はマジュリカさんの言葉に頷いて納屋を出た。
家の方に向かって桟橋を歩いてい行くと、堤防に淡いクリーム色の洒落たオープンカーが停まっているのが見えた。車にはブロンドの巻髪にスカーフを巻いた美しい女性がひとりで乗っていたのだが、驚くべきことに、それはスフィニア・メイルドに間違いなかった。彼女は僕の姿を認めると、ゆっくりと車から降りてきた。
砂浜に綴られる小さな足跡。辺りに軍人の気配はない。
「僕らを捕まえに来たんですか?」
警戒の色を強める僕に対し、スフィニアは力なく微笑んだ。
「私の父は軍人だけど、私は軍人じゃないわ」
昨夜シザーリアス・ヴァイレンから、僕のことや昨日の出来事についてすべてを聞いたスフィニアは、マジュリカさんの向かった先がポートグロフ社に違いないと思い、徹夜で車を走らせて来たのだそうだ。
彼女はいつものようにリラ色のアイシャドウと赤い口紅をつけてはいなかった。しかし、化粧をせずに疲れた様相を呈していても十分魅力的だった。
「マジュリカにこれを渡してくれない?」
スフィニアは僕の掌に銀色の指輪をそっと乗せた。それはマジュリカさんから贈られた、グリュニーディアンの結婚指輪だった。
「私たち、結婚当初からうまくいってなかったの。スカーレットさんの悲報を受けて以来、マジュリカは生きる事に対してすっかり執着が無くなってしまっていた。私はそんな状況を利用して、無理矢理彼と結婚したのよ。彼の美しい瞳が好きで――あの頃はまだ両目が揃っていたわね――どうしても手に入れたかったの。コレクターの性かしら」
スフィニアは悪戯気な笑みを浮かべ、目尻にチャーミングな皺を作った。そして、おもむろに僕の右手を取ると、掌に記されていた『星の契約』を伏せ目がちに見つめて言葉を続けた。
「スカーレットさんはルピヤード空軍第一航空師団第三飛行小隊に属していた。彼女がトレキアの極秘任務に就いていたことを知ったマジュリカは、トレキアに纏わる秘密を解き明かすことを生きがいに再起した。でも、それを終えたとき、彼はたぶん死ぬわ。そして、私にはそれを止めることが出来ない。彼のそばにいることすら出来ないのよ。……でも、『星』であるあなたなら、あの人のそばにいてあげることが出来るわね」
長い睫毛が持ち上げられる。スフィニアの瞳から、涙の粒が零れ落ちた。
「スカーレット……あの人を助けて。あの人の力になってあげて」
涙を吸い込んだ薄絹のドレスが、胸元で小さな花を咲かせた。またひとつ、またひとつ。それは次々にスフィニアの頬から滴り落ちてきて、陰影の花模様をあしらった。
風に攫われたスカーフが、水平線に溶け込むように舞い飛んだ。少しの間、それを横目で見送ってから再びスフィニアの顔を見た。僕は、この人が泣くところばかり見ているような気がする。
「お願いです、もう泣かないで」
この人を泣かせたくないと思った。この人の笑顔が好きだから。
僕はスフィニア・メイルドを包み込むようにして抱きしめると、瞳を閉じて波音に耳を寄せた。
そうして、僕らは互いに黙し合ったまま、ただひたすら静かで優しい世界の音に、しばらく身を委ねるのだった。
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