ポートグロフ社とスカーレットのこと(2)

 ポートグロフさんの父親は、空飛ぶことを夢見て飛行船の製作に没頭した実業家だった。試作に成功した飛行船のゴンドラに妻と乗り込むも、何らかの不具合により水素に引火した飛行船はこっぱみじんに吹き飛んだ。そんなわけで、幼いポートグロフさんとスカーレットさんは、この世でたった二人きりの兄妹となってしまったのである。

 時は動力飛行が目覚ましい発展を見せた時期であった。良くも悪くも父親の影響を受け、ポートグロフさんの関心も空へと向けられていた。彼は熱心に重航空機の製造に取り組み、当時ベルクト・ランガーが持っていた飛距離七十メートルという記録を塗り替え、初めて百メートル以上飛ばした若き天才飛行家として世間に名を馳せた。

 両親が残した財産はわずかばかりであったが、父親の歳の離れた友人、アデラ・リピンコット――マジュリカさんのお祖母さんのことだ――が援助を申し出てくれたおかげで、ポートグロフ社は強力な出資者を得て設立されることとなる。

 幼いマジュリカさんはお祖母さんに連れられてハーメルにやって来ることが多く、マジュリカさんとスカーレットさん、そして近所に住む幼馴染のシザーリアス・ヴァイレンの三人は楽しい子供時代を共有した。

「スカーレットは君と同じ緋色の髪をしていて、笑顔の似合う活発な子だった。マジュリカもシザーリアスも妹に惚れていた。だから、あいつらは俺を怨んでいるに違いない。スカーレットが軍に入るきっかけを作ってしまったのは、なんと言ってもこの俺だからな。……彼女を殺してしまったのも、この俺だ」

 まもなく大きな戦争が始まろうとしていた頃、マジュリカさんのお祖母さんが亡くなった。遺産を受け継いだマジュリカさんはお祖母さんと同じように、ポートグロフ社のスポンサーとして若き飛行家に惜しみない援助をした。しかし、古き良き時代はここから緩やかに終焉を迎えていく。

 軍に才能を買われたポートグロフさんは軍機の製造をすることになり、良きパートナーであった妹のスカーレットさんはパイロットとしてスカウトされた。陸軍の管轄下であった一師団(大戦の最中に空軍として独立する)にスカーレットさんが入隊を決意したとき、シザーリアス・ヴァイレンとマジュリカさんも当然のように彼女と同じ道を選んだ。

「当時、俺は平和に貢献したい一心でよりよい飛行機の設計に没頭した。俺の造った飛行機から爆弾が落とされて、多くの人々が命を失うことになろうとは、そのときは全く考えもしていなかった」

 航空戦の禁止を嘆願しても受け流され、ポートグロフさんの精神に歪みが生じ始めた矢先、追い討ちをかけるようにして最悪の出来事が彼の元を襲った。東の大陸で偵察をしていたスカーレットさんの飛行機が墜落したのだ。

「スカーレットは俺の造った飛行機で死んだんだ。あいつが乗っていた偵察機は、今じゃ新米パイロットの練習機に使われている代物だ。あいつは俺が殺してしまったも同然なんだよ」

 若き飛行家はそれをきっかけにすっかり塞ぎ込んでしまった。だが、航空機の進歩は留まることを知らず、軍は新たに技術者を雇い入れ、ベルクト・ランガーに新型機の設計を要請した。

 心身ともにすっかり弱りきっていたポートグロフさんは、あっという間に時代の流れに取り残された。


 短くなった煙草を灰皿の中で揉み消すと、ポートグロフさんは僕とミス・キルスティンに顔を向けた。

「暗い話になっちまったな。さ、次は君たちの番だ。どうしてここに来ることになったのか、マジュリカが現れるまでに掻い摘んで説明してくれないか」

 そうして、コティさんが二杯目のコーヒーを淹れてくれる中、僕はマジュリカさんと出会った経緯から、現在までの出来事を簡単に話して聞かせるのだった。


「……なるほどなあ。つまり、軍はトレキア文字が読める君に、トレキア書と呼ばれる手帳の解読を進めさせるため、マジュリカを泳がせておいたってことか。しかし、一体何の目的でそんな古ぼけた手帳を解読させようとしていたんだ?」

 口髭をさすりながら、ポートグロフさんが考え込む。

「詳しいことは読み進めてみないとわかりません。でも、この手帳によれば、古代からトレキア人はある『秘密』を隠し護ってきたようなんです。軍がそれを手に入れようとしているのは間違いないと思います」

「トレキアの秘密ねえ。莫大な財宝か、はたまた大いなる魔法の力か。何にしろ、確かに軍事に悪用でもされたら厄介な代物だろうな。しかし、そもそもこの手帳はマジュリカの物なんだろう? あいつは一体どこでこれを手に入れたんだ?」

 そのとき、隣でトレキア書を捲っていたミス・キルスティンの手が震えていることに気がついた。両目はこぼれそうになるくらいに見開かれ、ひどく興奮したような顔をしている。

「読める……。読めますわよ」

 彼女の言葉に驚いて、僕は思わず息をのんだ。

「読めるって、トレキア文字が読めるんですか?」

 占星魔術師は黙ったまま二度も三度も頷いた。

「一体どうして? あなたは東の大陸で育ったんですか? 確か記憶を失くして倒れていたところを、マジュリカさんのお祖母さんに助けられたって言ってましたよね?」

「ええ。あたくしは東の大陸の砂漠で倒れていたのだそうです。でも、なぜそんなところにいたのか記憶がありません。自分の名前すら覚えていませんのよ」

「じゃあ、マリサ・ルナ・キルスティンって名前は――?」

 ミス・キルスティンは懐から懐中時計を取り出して、それを僕に手渡した。大小の宝石が散りばめられた金時計の扉を開けると、ちょうど文字盤の時針が日付を変更したところだった。扉の裏側には絵のような文字で名前が彫られてあったのだが、刻まれていたのは驚くべきことにトレキア文字に間違いなかった。

「アデラ様があたくしの名前に違いないと仰ってくださったので、それ以来この名を名乗っているのです」

「トレキア文字が読めて、トレキアの装飾品を持っているなんて……ミス・キルスティン、あなたもしかして、トレキア人の末裔なんじゃ……?」

 三杯目のコーヒーを淹れていたコティさんは、僕らの話に夢中になるあまり、誤ってポートグロフさんの足にコーヒーを注いでしまった。

「あちち! こらコティ! よそ見をするな!」

「ああ、すみませんハンフリーさん。それにしても感動だなあ! 僕、トレキア人の末裔に会ったの生まれて初めてだよ!」

 コティさんが占星魔術師に尊敬の眼差しを向けると、ミス・キルスティンは確証もないのに満更でもない様子で鼻を高くした。しかし、ポートグロフさんがすぐにそれに水をさす。

「馬鹿馬鹿しい。トレキアの血はずっと昔に途絶えたんだ。今更末裔がいたなんて話が信じられるか」

 すると、占星魔術師はあっという間に不機嫌になり、コティさんもテーブルの上を拭きながら溜め息をついた。

「ハンフリーさんはいつもそうやって勘繰るから、女性にモテないんですよ。だから、先日のリピンコットの秘書の方だってすぐに帰ってしまったんだ」

「話を微妙に摩り替えるな! 俺は女にモテる! いいか、コティ。あの女はなんだか怪しかった。俺の研究を盗みに来た産業スパイに違いない。そう思ったから、ふざけた求婚をして早く帰りたくなるよう仕向けたまでだ」

「本気だったくせに」

「うるさい!」

 コティさんの頭にポートグロフさんの拳骨が飛ぶ。

 二人が話しているのはエイセルのことだった。エイセルはあれから一体どうしているだろう? 産業スパイどころか、彼女はシザーリアス・ヴァイレンの部下で軍のスパイだったのだ。先程の話の中で端折ってしまったその事実をポートグロフさんに伝えると、彼はいきり立ったようにテーブルの脚を蹴飛ばして椅子から立ち上がった。

「シザーリアスのやつめ! 本当に軍の犬になりさがったのか!」

 頭に血が上った飛行家は、気を静めるようにして部屋の窓を大きく開け放った。

 気持ちの良い夜の風と共に、打ち寄せる波の音が聞こえてくる。満潮になった干潟にはいつの間にやら桟橋まで水が押し寄せ、〈太陽の花びら号〉は夜空と同じ深い色の海に取り残されていた。黄色い機体に月の光が反射してきらきらと輝いているので、どこに流されたのかは一目瞭然だった。

 コティさんが〈太陽の花びら号〉を回収するため慌てて外に飛び出して行き、その姿をポートグロフさんと並んで窓から眺めていた僕は、夜空に光る星々に目を止めた。そしてふいに、肉眼では見えないが、東の方角、五つ子星座の斜め右上に位置するあの緋色の星のことを思い出した。


『私がこの世で最も愛する星、スカーレットだよ』


「スカーレット」

 突然その名を耳にして、僕は驚いて我に返った。ポートグロフさんが呼びづらそうに僕のことを呼んだのだ。

「スカーレット、君は……」

「すみません。出来れば『スカー』と呼んでもらえませんか? 『スカーレット』だなんて、女の子みたいな名前だから」

「そりゃこちらとしても助かるな。……スカー、君はマジュリカが来るまで書斎のソファで一旦寝とくといい。あいつが無事に生きてりゃ、あと三、四時間もすればここに着くはずだから」

「どうしてわかるんですか?」

「俺の勘だが、たぶんあいつは昔の馴染みに頼ってここに来るに違いない。今頃チェスターの新聞輸送機にこっそり潜り込んでいるだろう」

 すると、僕らの会話を聞いていたミス・キルスティンが、自分が眠たかったことを急に思い出したように大きな欠伸をひとつした。

「あたくしにはきちんとベッドをご用意してくださらない? レディは殿方と一緒の部屋では眠れませんことよ」

「馬鹿言うな。あんたは一晩かけてトレキア書の解読を進めるんだよ」

「あたくしに徹夜をしろとおっしゃるの? そんなお肌の荒れることをレディに強要するおつもりですの?」

「さっきから黙って聞いてれば、一体どこにレディがいるんだ? ばばあとガキしかいないじゃないか」

「んまああ! なんて失礼なじじいでしょう!」

「じじいじゃねえ!」

 堂々巡りの会話が勃発し、僕はそこから逃れるように書斎へと駆け込んだ。書き物机の下に隠れていたフィッツが、入れ替わるようにしてサロンの方に逃げて行く。

 ソファに横になると、ポートグロフさんたちの声に混じって、引いては寄せる波の音が耳に届いた。僕は寝返りを打ち、カーテンの隙間から夜空に輝く緋色の星を再び見つめる。


『死体は発見されなかった。彼女は死んでなどいない!』


 星図家の言葉が思い出された。墜落した飛行機の残骸を目にしても、マジュリカさんは未だに信じ続けているのだ。幼馴染のスカーレットさんが、この世のどこかで生きているのかもしれないと……。

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