ポートグロフ社とスカーレットのこと(1)
マルキスの抜け道を行き、無事ハーメルに入った〈太陽の花びら号〉は、高度を上げて月の輝く夜空を飛んだ。荒くれていた振動も今ではだいぶおさまって、翼が破損することなく、またエンジンがやられることもなく、どうにか飛行を続けていた。
月の光の中で、僕は右の掌に刻まれた『星の契約』の印をそっと指でなぞってみる。星を取り巻くようにして散りばめられた数式が、淡い光を放ち、陽炎のような残光を残して消えてゆく。
「マジュリカさんなら心配いりませんわよ」
伝声管からミス・キルスティンの声が響いてきた。
「あなたがここにいる限り、マジュリカさんの命は『星の契約』によって保証されていますからね。『星』であるあなたから離れたまま彼が命を失うことはあり得ません。『星の導き』が必ず二人を共にします」
「大いなる魔法の力が運命を誘う……でしたっけ? 抽象的過ぎて、なんだかぴんとこないな」
天にきらめく無数の星を見上げ、僕は星図家の無事を祈った。
マジュリカさんは以前から、何かあった際にはポートグロフさんを頼るようにと言っていた。だから、僕はハーメルにあるポートグロフ社への道程も習ったし、そこに行き着くために飛行艇の操縦の仕方もあらかじめ教わっていた。しかし、実際に飛行家であり、航空機製造者であるハンフリー・ポートグロフに会ったことは一度もなかった。
ハーメルの町の燈火を誘導灯代わりにし、ポートグロフ社と思われる航空灯を目印にして飛行艇を海辺に着水させる。滑水して近づいていくと、屋根の天辺に航空灯が取り付けられた母屋と、少し離れたところに『ポートグロフ』の看板を掲げる納屋が見えてきた。僕とミス・キルスティンは干潟に乗り上げた飛行艇から降り、ポートグロフ社の桟橋まで砂地を歩いて行った。
潮風に晒された家の玄関口で、僕は幾度かベルを鳴らす。しかし、しばらく待ってみても誰も姿を現さない。
「こんな非常時にお留守ですの?」
苛立ったミス・キルスティンがベルを連打し始めたとき、突然ドウンというエンジン音が納屋の方から聞こえてきた。僕らは顔を見合わせて再び砂地を歩いて行く。
格納庫と言うにはいささか小さすぎる、やはり納屋と呼ぶにふさわしい大きさの建物から、轟音と共に豪快な笑い声が聞こえてくる。
「よし! いいぞコティ! こいつはジョメルディア・バシックで最高のエンジンだ! こいつをうまく取り付けさえすれば、ベルクト・ランガーの新型艇なんか目じゃないぞ!」
取り付け前のエンジンが唸りを上げるその横で、口髭を蓄えた男性――新聞記事の小見出しで見かけたハンフリー・ポートグロフに間違いない――とレンチを手にしたエプロン姿の青年が喜びに抱き合っている。
僕とミス・キルスティンは製造中の飛行艇をよけるようにして、彼らの元に近づいてゆく。
「ポートグロフさんですね?」
僕が声をかけると、浮かれきっていた飛行家は面倒臭そうな顔をしてこちらを見た。
「なんだ? 今いいところなんだ邪魔するな。坊主とばばあに用はないぞ?」
『ばばあ』という言葉に、ミス・キルスティンが目を吊り上げて声を荒げる。
「レディに向かってばばあとは何事ですか!」
「レディ? おいおい冗談はよしてくれ。何の用だか知らないが、俺は年増に興味はない」
「んまあああ! なんて失礼なじじいでしょう!」
ポートグロフさんの顔が怒りで歪む。
「じじいだと? ふざけるな! 俺はギリギリ三十代だ!」
「それなら立派に『じじい』ですことよ!」
アストロラーべを振り回すレディを背後から押さえつけながら、僕は轟音に負けじと声を張り上げる。
「僕はマジュリカ・リピンコットの助手で、スカーレットです! 色々あってマジュリカさんからこちらを尋ねるように言われて……」
僕の言葉にポートグロフさんは動かしていたエンジンを即座に止めた。
「今、なんて言った?」
「え?」
「君の名前だよ!」
「……スカーレット、ですけど」
「スカーレット……」
「マジュリカさんが勝手につけた名前です」
付け足すようにそう言うと、ポートグロフさんは片手で頭を掻き毟り、脱力したように「くそ!」と吐き捨てた。
「子供を拾って助手にしたって話は聞いていたが、マジュリカめ……っとに悪趣味なヤツだ」
ポートグロフさんは『仕上げ』をしてから行くと言って、エプロン姿の男性が変わりに僕らを家の中に案内してくれた。彼はコーヒーを淹れながら気さくに自己紹介をし始める。
「僕はポートグロフさんの元で働いている助手のコティ・クレッグです」
コティさんは明るい麦藁色の髪をした、人懐っこそうな青年だった。
「初めまして。僕は星図家の助手でスカーレットと言います。スカーと呼んでください。こちらはリピンコット家の専属占星魔術師で、ミス・キルスティンです」
ミス・キルスティンは『公証』という部分をやたらに強調して挨拶をする。「公証占星魔術師のマリサ・ルナ・キルスティンですわ」
「うわあ、感動だなあ! 僕、魔法使いの子孫に会ったの生まれて初めてだよ」
コティさんが尊敬の眼差しを向けたものだから、占星魔術師はすっかり気分を良くしたようだ。そのとき、背後の扉が開いてポートグロフさんの声がした。
「なにが公証占星魔術師だ。魔法文明はとっくに終焉を迎えたんだ。君らは国家のご機嫌取りをするしか能のないただのマジシャンだろう」
ポートグロフさんと一緒になって、虎の子供じゃないかと見まごうほどの大きな猫が、扉の隙間から部屋に入り込んで来た。そいつがミス・キルスティンの足元に擦り寄ってくれたおかげで、険悪に歪んだ彼女の顔を華やかせる。
「あらまあ可愛いデブ猫ちゃんですこと!」
ミス・キルスティンは両手で猫を抱き上げた。しかし、相当重いようで、同時にニ、三歩よろめいた。
耳と尾っぽの先だけグレーの色をした白猫は、ごろごろと喉を鳴らして占星魔術師に甘えている。そのあまりの可愛さに頭を撫でようと僕が手を差し出すと、猫は怯えたようにフーッと威嚇して隣の部屋に逃げてしまった。
「フィッツが人を怖がるなんてめずらしいな。誰かれ構わずなつく猫なんだよ」
コティさんが驚いたように言う。
「僕、動物に好かれたことがないんです。なぜかはわからないけど、みんな怖がって逃げちゃうんだ」
すると、ミス・キルスティンがころころとした笑い声を上げる。
「スカーはいつも眉間に皺を寄せて気難しい顔をしているのだから、怖がられて当然ですわ」
コティさんに淹れてもらったコーヒーを片手に、僕はフィッツの逃げた部屋を覗き込む。隣りは書斎になっていて、壁には額に入ったセピア色の写真がたくさん飾られていた。若き日のポートグロフさんが飛行機と一緒に写っている記念写真に紛れ、中央にあった一枚の写真が僕の視線を釘付けにする。
背後で紙巻煙草を巻きながら、ポートグロフさんが説明してくれた。
「古き良き時代の写真だな。そいつは初めて飛行に成功した複葉機だ。初フライトは十四秒。なんと三十八メートルも飛んだんだ。操縦席から手を振っているハンサムなパイロットは俺。下でもめてるガキ二人はマジュリカとその幼馴染だ」
「これ……シザーリアス・ヴァイレンだ」
「なんだ。あいつのことを知ってるのか?」
「シザーリアス・ヴァイレンがマジュリカさんを裏切ったから、僕らは軍に追われてるんです」
「なんだって? シザーリアスの野郎……とうとう親友を売りやがったか。ていうか、マジュリカのやつ、一体何やらかしたんだ。当の本人はどうしたよ?」
「自らが足止めになって、僕らを逃がしてくれたんです。ポートグロフ社で落ち合おうと言われたので、僕らはこうしてここにやって来ました」
「おおそうか――って、あんにゃろう、勝手に俺を巻き込みやがって!」
ポートグロフさんは巻いた煙草に苛立たしげに火をつけた。
写真の中のマジュリカさんは、幼いながらも今と変わらずふてぶてしい表情だ。シザーリアス・ヴァイレンの方もこの頃からすでにニヒルな笑みを浮かべている。彼らは顔だけしっかり正面に向けているものの、互いの足を踏もうとしているのか体は取っ組み合っていた。その横で、笑いながら彼らを見守るひとりの少女……。
「この女の子は誰ですか?」
僕の問いに、ポートグロフさんは答えに詰まったように沈黙した。彼は吸い込んだ煙草の煙りを天井に向けて吐き出すと、顔を上に向けたまま小さな声で呟いた。
「スカーレット・ポートグロフ。……俺の死んだ妹だ」
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