大佐の犬(3)

 喉がからからに渇いてしまったみたいだった。僕はどうにか唾を飲み込むと、喘ぐような声を上げる。「エイセル、どうして……?」

 その声に反応して、エイセルが一瞬目だけをこちらに向けた。

「驚いた? ごめんなさいね、スカー。あなたを騙したくはなかったけれど、これが私の仕事なのよ」

 マジュリカさんは依然として銃を下ろさず口端を上げて言った。

「君のおかげで色々動きづらくて仕方なかったよ、秘密諜報員のエイセル・ワイズ少尉殿。せっかくポートグロフのところへ追いやっておいたのに、予定よりも早く帰ってきてしまうしね」

 星図家のその言葉に、銃を向けるエイセルの腕がわずかに揺れ動いた。

「知っていたの? あなたは私が少尉に任官されたとき、すでに退役していたはずよ」

「あいにくこちらも内情には未だ精通しているものでね」

「だったら話は早いわ。私は銃を捨てろと言ったのよ? 言うとおりにしなければ、口径七ミリの小型拳銃があなたの頭を撃ち抜くわ」

「そのときは私もシザーリアスを撃っていることだろう。どんなことがあっても決して外しはしない。殺されたって殺してやる」

 星図家の発する声は静かだったが、それはかえって凄みを増してエイセルを怯ませた。だが、シザーリアス・ヴァイレンは滑稽だと言わんばかりに笑い声を上げた。「おまえが人を殺すだって? 鼠一匹殺せなかった優しいおまえが? 確かに銃は撃つだろうが、おまえは俺を殺しはしないよ」

 マジュリカさんはシザーリアス・ヴァイレンの背中に冷めた視線を送り、彼に向けていた銃身の先を揺らして言った。

「エイセル、君のために一応忠告しておこう。この男を愛しても無駄だ」

「余計なお世話よ。リピンコット元少佐」

「残念だが、君の気持ちはシザーリアスには届かない」

「黙りなさい! 本当に撃ち殺すわよ?」

「彼は近いうちにメイルド少将のご令嬢と結婚するだろう。自らの昇進のためにね」

「……スフィニア・メイルドと?」

 エイセルの声がわずかに震えた。

 シザーリアス・ヴァイレンは呆れたような笑い声をあげて言う。

「マジュリカ、おまえは一体何を言い出すんだ? 冗談はよしてくれ」

「冗談ではない。昨晩、この耳でしかと聞いた」

 シザーリアス・ヴァイレンの肩が静かに動きを止めた。

 エイセルはひどく混乱し、うろたえているようだった。普段は血色の良い顔色も、今では奇妙なほどに蒼白だ。彼女は事実ではないと思い込もうとしているみたいに星図家の言葉を反芻する。

「メイルド少将のご令嬢と結婚する? 嘘よ。中佐がスフィニア・メイルドと結婚するなんて絶対に在り得ないわ」

 シザーリアス・ヴァイレンはさも当然のような口ぶりで彼女の言葉を後押しした。

「あたりまえだ。信じるなワイズ少尉。マジュリカは君を動揺させようとしているだけだ」

「……そうよ。信じたりなんかしないわ。この仕事が片付いたら、ヴァイレン中佐は私と結婚すると約束してくれたもの!」

 マジュリカさんに向けられていた銃口が、一層深くこめかみに突きつけられる。

 一触即発のこの状態で、星図家は悲哀と空虚な思いを混在させたような奇妙な笑みを携えた。それは、確実に何かを失い人生に疲れた人の微笑だった。彼は穏やかな声で言う。

「エイセル、この男は裏切り者だ。私を見ろ。友人さえも裏切る男だぞ」

 エイセルは目の前の星図家に焦点を合わせ、それから、シザーリアス・ヴァイレンの背中にすがるような目を向けた。その一瞬の隙をつき、マジュリカさんは素早く彼女の腕をねじ伏せる。続けて、滑り落とされた拳銃を足で蹴って僕によこした。

 僕は慌てて銃を拾い上げ、ミス・キルスティンとともに星図家の背後に駆け込んだ。シザーリアス・ヴァイレンの部下二人は、現状で自分たちが発砲すべきかどうか判断がつけられずに、上司の顔に視線を走らせながら僕らに銃を構えている。

 シザーリアス・ヴァイレンは上げていた両手を項垂れたように振り下ろすと、片手で額の髪をかき上げながら吐き捨てた。

「君には失望したよ、ワイズ少尉。仕事に恋愛感情を持ち込まれては困る。やはり士官学校を卒業したばかりのひよっ子は役立たずか」

「そんな……中佐……」

 星図家の腕の中で、エイセルは愕然と力を失くす。よろめく彼女を支えるようにして、マジュリカさんは濁った瞳で親友の背中を睨みつけた。

「自分のことを棚にあげてよく言えたものだ。新米士官だった頃を思い出すといい。シザーリアス、これだけは言っておくが、『スカーレット』は今の君を決して愛しはしないだろう」

「は。よせよマジュリカ。おまえは彼女がまだこの世に生きているとでも思っているんじゃないだろうな? 『スカーレット』は死んだんだ。ペルグイユ沖に墜落した搭乗機の残骸をおまえも一緒に見ただろう?」

「死体は発見されなかった。彼女は死んでなどいない!」

 そう叫んでから、マジュリカさんは口早に「走るぞ、スカー」と囁いた。彼はエイセルの体を前方に突き飛ばし、勢いよくサロンの扉を締め切った。銃撃戦の火蓋が切って落とされ、扉の内側に発砲された銃弾が打ち込まれる。

 僕らは無我夢中で廊下を駆け抜けた。回廊に周り込んだところで銃弾の雨が降り注ぐ。マジュリカさんは壁伝いにサロンの入り口に向かって応戦しながら僕に言った。

「スカー、そこの荷物から防弾チョッキと武器を取れ。私が食い止めているうちに、〈太陽の花びら号〉でルピヤードから逃げるんだ」

 放り投げられた浅黄色の布袋には、どこでどうやって入手してきたのか散弾銃やら実弾が詰まっていた。

「ポートグロフの元で落ち合おう。遅かれ早かれ軍が網を張るはずだから、以前教えたマルキスの抜け道から、ハーメルまでは低空飛行で飛んで行け。いいか、スカー。その手帳を絶対に手放すな。トレキアに纏わるこの件は空軍の一部の管轄だけで行われている極秘プロジェクトだ。彼らは表立って動けはしないが、おまえとその手帳を必ず手に入れようとする」

 マジュリカさんはそう言うと、僕の変わりに荷物から武器を取り出していた占星魔術師に対して、茶化すように声をかけた。

「ミス・キルスティン。それは私の防弾チョッキであって、あなたのために買ったのではなかったのだがね」

「おだまりなさい! あたくしはあなたがたの戦争に巻き込まれた被害者ですよ! あの野蛮な軍人達はあたくしを拷問にかけて知りもしないあなた方の秘密を白状しろと脅しをかけるに違いありません!」

「なかなか察しがいいようだ。そして捕まれば必ず殺されてしまいますよ」

 言いながら、マジュリカさんは散弾銃でサロンからの銃撃に応戦した。かなり適当な撃ち方をしているあたり、脅しをかけているだけで当てる気はさらさらないようだ。

 恐怖を煽られたミス・キルスティンは、「行きますわよ、スカー!」と青い顔をして階段を降りて行った。僕はその声に促されるようにして彼女の後に続いたが、途中で立ち止まり星図家の元を振り返る。

「行け、スカー!」

 マジュリカさんの叫び声に、僕は意を決して星図家から背を向けて、階段を駆け下りるのだった。

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