大佐の犬(2)
軍服姿のシザーリアス・ヴァイレンは背が高くてハンサムだが、軟派で軽薄な感じのする紳士だった。斜め分けされた銀色の前髪をかき上げる仕草なんかが大いにそれを物語っている。彼はマジュリカさんの秘書であるエイセルと何やら親密な様子で話をしていたが、僕の姿に気がつくと、サロンのソファから立ち上がり軍人らしくわざと敬礼して見せた。
「軍務でルピヤードに立ち寄ったので、ついでに顔を見に来たよ。どうだい、嬢ちゃん。その後マジュリカにおかしなことをされてないかい?」
ニヒルな笑みを浮かべ、シザーリアス・ヴァイレンが言った。
「何度も言いますけど、僕は嬢ちゃんじゃありませんからご心配なさらずに」
「俺だって君の姿を最初に見たときには男だと思ったさ。しかしだな、マジュリカが介抱しているところを隣で眺めていたんだが、君の体は――」
僕はシザーリアス・ヴァイレンを睨みつける。「特別な用が無いなら、もうお帰りになられてはどうですか?」
すると、彼は「まあ、そう言うなよ」とソファの隣りを叩いて僕にそこへ座るように促した。ミス・キルスティンの席はなかったが、シザーリアス・ヴァイレンの部下二人が即座に立ち上がり、彼女のためにソファを空けた。
エイセルはお茶を淹れてくると言って、赤い顔をしてそそくさとサロンから出て行ってしまった。彼女がシザーリアス・ヴァイレンに惚れているのだということを、僕はちゃんと知っている。この屋敷に来ることを了承したのだって、そもそも彼の役に立ちたかったからに違いないのだ。果たしてマジュリカさんがそのことを知っているのかどうかは謎だけど。
「今しがたエイセルから聞いたよ。マジュリカは街へ買い物に出ているそうだな。どうだ、君。君があいつと暮らし始めてからもうすぐ三ヶ月の月日が経つが、星図家の助手とやらは一体どんな仕事を頼まれるんだ?」
シザーリアス・ヴァイレンの言葉にミス・キルスティンが注意深く耳を傾けてきたので、早いところこの場から立ち去りたい心境だった。
銀髪の軍人は僕が持っていた手帳をひょいと取り上げ、勝手に頁をぱらぱらと捲り出す。
「この手帳は何だ? これもマジュリカから頼まれた仕事かい?」
「返してください!」
僕が血相を変えて大慌てで手帳を奪い取ったものだから、シザーリアス・ヴァイレンは苦笑した。「何もとって食いやしないよ」
吸いかけの葉巻に手を伸ばす彼の姿は、マジュリカさんと同じ歳にしては実際の年齢より少しだけ老けて見えた。
渦巻く紫煙と咽返るほど濃厚な葉巻の香り。
あれ? と思った。僕はこの香りを確かにどこかで嗅いだことがある。
「その葉巻……」
「ああ、これか。上司に頂いたものなんだが、お子様にはきつい香りだったかな?」
葉巻の香りが二人の軍人の会話を鮮明にフラッシュバックさせる。僕ははっとした。そうだ、間違いない。この香りは昨夜クロリア・ホールへ忍び込んだときに嗅いだものだ。若い方の軍人の声になんだか聞き覚えがあると思っていたが、あれはシザーリアス・ヴァイレンだったのだ!
「どうした? 急に立ち上がったりして」
僕が咄嗟にソファから立ち上がったものだから、シザーリアス・ヴァイレンは訝しげに顔を上げた。
「あなたは、ここへ何しに来たんですか?」
声色が変わったことに気がついたのだろう。軍人たちの表情がわずかながらに変化した。渦巻く煙に目を細めるようにして、シザーリアス・ヴァイレンは乾いた視線で僕を見上げる。
「君に会いに来たんだよ、スカーレット」
その言葉と共に、耳元でカチャリと音がした。シザーリアス・ヴァイレンの二人の部下が、僕とミス・キルスティンに銃口を向けていた。
ミス・キルスティンが悲鳴を上げると、部下のひとりが「黙れ!」と彼女のこめかみに深く銃口を食い込ませた。取り乱した占星魔術師は、黙るどころかますます興奮したように大きな声で叫び出す。
「レディに銃を向けるなんて恥を知りなさい! あたくしは国家のために働く公証占星魔術師ですよ! ああ、軍人は野蛮だから大嫌い! あなたがた、ろくな死に方しませんわよ!」
シザーリアス・ヴァイレンはうるさそうに片方の人差し指で耳を塞ぎながら、僕に向かって微笑んだ。
「しばらく君らを泳がせておくつもりだったんだが、俺のやり方じゃ手ぬるいと言われてな。君とトレキア書を奪って来いと大佐からのお達しなんだ。そんなわけだから嬢ちゃん、すまんが俺と一緒に来てくれないか」
「誰がいくもんか!」
噛み付くような勢いで返事をすると、銀髪の軍人は「つれないねえ」と肩を竦めた。
「あなたはマジュリカさんを裏切ったんだ! 親友を騙すなんて最低だ!」
僕の言葉にシザーリアス・ヴァイレンはひどく冷めた笑いをもらした。制帽が生み出す黒い影から、おぼろげな瞳が向けられる。「親友ねえ……」
それは、どこか遠くを見ているみたいな視線だった。
「『スカーレット』がいた頃は、あるいはそうだったかもしれん。だがな嬢ちゃん、大人の事情ってやつは、君が思っている以上に色々と厄介なんだよ」
そう言って、ソファから立ち上がったシザーリアス・ヴァイレンが僕を連行しようとしたとき、一発の弾丸が彼の頭上近くに撃ち込まれた。
僕とミス・キルスティンに銃口を向けていた部下たちが、慌てて弾の流れてきた方角に向かって銃を構える。シザーリアス・ヴァイレンが自らの銃を取ろうと腕を動かそうとした瞬間に、扉の方からそれを制する声がした。
「動くな! そのまま両手を上げろ!」
サロンの入り口で細身の単発銃を向けていたのは、なんとマジュリカさんだった。たった今街から帰ってきたところらしく、肩にはたくさんの荷物が詰まった浅黄色の布袋を背負っていた。
シザーリアス・ヴァイレンは言われたとおりに手を上げた。振り向くことが出来なくても、自分に弾丸を放った相手が誰であるかは当然わかっているようだった。
「いいのか、マジュリカ。これは軍に対する反逆だぞ」
「私が表立って反逆者のレッテルを貼られれば、正当な理由が出来て君もさぞかし動きやすいだろう」
銃を持っていない方の手で片眼鏡(モノクル)を押し上げながら、マジュリカさんは皮肉な調子で言葉を返した。それから、人差し指をわずかに動かし僕を呼ぶ。「スカー、こっちにおいで」
すると、自分が呼ばれなかったものだから、ミス・キルスティンが真っ赤な顔で怒り始めた。
「ひどいですわよ、マジュリカさん! あなたはあたくしの存在をお忘れになっていらっしゃるの!?」
「おっと。これは失礼ミス・キルスティン。あなたもいたとは気づかなかった。完璧に視界に入っていなかった。残念ながらこれっぽっちもね」
「んまああ! このあたくしを蔑ろにするなんて、亡くなられたリピンコット夫人は今頃天国で呆れているに違いありませんことよ!」
こんな状況だというのに、マジュリカさんとミス・キルスティンのくだらない言い争いは普段どおりに健在だった。占星魔術師がキンキン声で説教を始めたその隙に、軍人のひとりがマジュリカさんに狙いを定めて引き金を引こうとしていた。しかし、それに気づいたシザーリアス・ヴァイレンが、相変わらず天井に両手を向けたまま静かに言った。
「馬鹿、撃つな。おまえが撃ったら俺が撃たれる」
葉巻の火は未だ消えておらず、テーブルの上にある灰皿からゆっくりと煙が立ち上り続けていた。軽い眩暈を感じさせる独特の香りを嫌悪するように、僕は顔を顰めてシザーリアス・ヴァイレンを見つめた。
大佐の犬は僕に向かって、ニヒルな笑みを浮かべてみせる。
「行けよ嬢ちゃん。マジュリカが呼んでるぞ」
わだかまる気持ちに目を瞑り、僕はシザーリアス・ヴァイレンの脇を通り抜けた。その直後、形成は思いもよらぬ形で逆転されてしまう。
「止まりなさい!」
甲高い女性の声が部屋中に響き渡った。
急に歩みを止めたものだから、背後の公証占星魔術師は中世の魔女みたいな鼻面を僕の頭にぶつけてしまった。
「ここまでよ、星図家さん。銃を捨てて両手をあげなさい」
マジュリカさんの横に立っていた人物を見て、僕は心底目を疑った。星図家のこめかみに銃口を突きつけていたのは、驚くべきことに秘書のエイセルだったのだ。
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