マジュリカの魔法の目(2)
深夜零時。街の中央にそびえ立つマール・パウロ教会の鐘の音が鳴り響いた。ルピヤードで暮らす子供たちは、今頃安らかな眠りについているに違いない。そう、僕を除いては。
丘の裏手を下りて行くと、大木の枝に引っ掛けられたカンテラの火が、風に揺られて大きくなったり小さくなったりしているのが見えた。僕はマフラーで顔を覆い隠し、寒さを凌ぐようにして明かりの方へと近づいた。
そこにマジュリカさんの姿は見当たらなかった。僕はやれやれと小さな溜め息をついて大木に寄りかかる。見上げた夜空は満点の星空だった。チカチカとした輝きの中を、時折流れ星が横切ってゆく。
突然、後方から空気を震わせるような轟音が辺りに響き渡り、驚いた僕は耳を押さえて大木の根元に蹲った。恐る恐る背後を覗いてみると、カンテラを手にしたマジュリカさんがちょうどこちらに向かって歩いてくるところだった。
彼は片眼鏡(モノクル)を外し、代わりに飛行帽の上から大きなゴーグルをかけていた。着古された飛行服はごわごわとしておらず、痩身にぴったりと合っている。
「その格好じゃ凍えてしまうな! これを纏うといい!」
轟音に負けないほどの大声で叫びながら、マジュリカさんは分厚い毛布と、自分がかけているのと同じゴーグル付きの飛行帽を投げて寄越した。それから、枝に引っ掛けてあったカンテラの火を消すと、河岸に向かって歩いて行った。僕はその姿が闇に溶けてしまう前に、慌てて後を追いかけた。
川面には尾翼に『P』の飾り文字が施された、ポートグロフ社製の黄色い飛行艇が浮いていた。凄まじい轟音の犯人はまさしくこいつだったのだ。どうやらクロリア・ホールまでこの二人乗りの飛行艇でひとっ飛びする気らしい。
「滑らないように気をつけるのだよ」
カンテラで僕の足元を照らしながら、マジュリカさんが言った。
彼は花びらのように不規則で不安定な飛び方をするこの飛行艇に、〈太陽の花びら号〉と皮肉を込めて命名した。〈太陽の花びら号〉は水面から空に浮かび上がるや否やひどい翼振れを起こしたが、それがひとしきりおさまると、やがて美しい夜空に溶け込むようにして雲の上を舞い飛んだ。
空にきらめく無数の星々がくっきりと視界に映り込む。眼下の雲間に広がる街の灯は、まるで星に呼応しているみたいに輝いていた。なんて穏やかで美しい夜だろう。未だ戦争が絶えないけれど、ルピヤードは平和そのものに見えた。今この瞬間にもどこかで誰かが争っていて、赤い血が流されているかもしれないだなんて嘘みたいだ。
「世界はこんなにも美しいのに」
伝声管を介したマジュリカさんの呟きがふいに耳に届く。それはあきらめに似たような、ひどく渇いた呟きだった。振り返ると、星図家は言葉を続けるでもなく、淡い街の影を見下ろし、黙って夜空の静寂に身を委ねていた。(不思議なことに、エンジン音に慣れてくると辺りがとても静かに感じられるのだ)
空軍に属していたマジュリカさんは、『大きな戦争』を知っている。たぶん僕の想像以上に様々な出来事を経験してきたに違いない。考えたくもないけれど、もしかしたら人を殺したことだってあるかもしれないのだ。
「ねえマジュリカさん、あなたが軍人になったきっかけは何だったんですか?」
僕の突然の問いかけに、マジュリカさんの肩がぴくりと動いたように見えた。いや、機体は常に揺れているし、夜目なのでわかるはずもないのだが。
そのとき、気流の影響で飛行艇が一度大きく揺らめいた。すると、それをきっかけにして、〈太陽の花びら号〉の胴体がガタガタと振れはじめた。
「この飛行艇はちょっと何かあるとすぐに取り乱す! まったく造ったやつにそっくりだな!」
そう叫んでから、マジュリカさんは伝声管を放り投げた。僕は仕方なく前を向き、再びゴーグルを頬の上まで引っ張り下ろした。僕らはクロリア・ホールが見えるまで、しばらくこの荒削りなじゃじゃ馬を相手に無言で奮闘するのだった。
リピンコットの館の裏手を流れる川は、なんとクロリア・ホールの敷地内を流れる川まで延々と続いていた。僕らは屋敷から少し離れた場所に着水すると、葦草の茂みに飛行艇を隠し、河岸に面した厨房の勝手口から中に忍び込んだ。
こんな時間に勝手口が開いているだなんて、都合が良すぎてなんだか偶然とは思えない。不審気な僕の表情に気がついたのか、マジュリカさんがゴーグルを額に上げて微笑んだ。
「ああ、言ってなかったっけ。この時間になると、執事が決まって勝手口からこっそり煙草を吸いに外に出るのだ」
「どうしてそんなことを知っているんです?」
「彼とは古い馴染みでね。オールドヴィンテージワインとクランドル産のチーズを楽しみながら、ときどき厨房でカードゲームをしたものだよ」
「知り合いなんですか? だったら、こんな泥棒みたいなことをせずに、最初から彼に今夜訪れることを話しておけばよかったのに」
「『目を盗みに行くから、入れてください』って言うのかい?」
「そもそも、『目を盗む』って一体どういうことなんですか?」
マジュリカさんは話をそらすようにして、水先案内人である僕の背中を押し進めた。
「無駄口は後にしよう。さあ、まずはおまえが案内されたスフィニアのサロンまで行ってくれないか。そこまで行き着けさえすれば、目的の場所はすぐにわかる。この屋敷は勝手知ったる場所ではあるが、私は絶望的なまでに方向音痴でね。空に関しては迷うこともないけれど、不思議なことに自分が歩くとなるとからきし駄目だ」
屋敷はすでにほとんどの人間が寝静まっているようだった。しんとしており、誰かが見張りに立っている気配もない。僕がもしスフィニアの立場であんな奇妙な手紙をもらったなら、きっと警察に通報するだろう。目を盗むだなんて予告状は、知人からの手紙であっても、いくらなんでも気味が悪すぎる。
僕の視線は自然とマジュリカさんの濁った右目に運ばれていく。呪いは視力を奪うだけでなく死をもたらすと彼は言っていたが、本当にそうだろうか。僕にはむしろ、スフィニアの言っていた「自ら命を絶とうとしている」という台詞の方が、なんだか信憑性があるように思えてならなかった。この星図家は図太いながらも、どこか神経質すぎるきらいがあるし――もしかしたら、マジュリカさんは憧れの女性であるスフィニアの瞳を手に入れ、彼女を殺して自分も死のうとしているのではないだろうか――?
途方もない妄想は留まることを知らないらしい。色々考えながら歩いていたせいか、幾度目かに曲がった回廊の先は全く見覚えのない場所だった。
「なんだい、スカー。まさか迷子になったんじゃなかろうね」
「いえ、まだ大丈夫だと思います」
「『まだ』……? やれやれ。キラキラ鉱山はかつて東の大陸で『還らずの迷宮』と呼ばれ恐れられていた時代もあったそうだが、仮にもおまえ、そこで暮らしていたのだろう?」
「ちょっと考え事をしていて間違っただけです。ここを戻ればすぐに――」
そのとき、後方から人のやって来る気配がした。僕とマジュリカさんは互いに顔を見合わせて、慌てて手前にあった部屋に身を隠した。しかし、あろうことか現れた気配は僕らのいる部屋へとやって来るようだった。半ば追い立てられるようにして、僕たちはもうひとつ奥の小さな部屋に入って扉を閉めた。
暖炉の薪が燃えるしゅうしゅうとした音に混じり、しわがれた男の声が聞こえてくる。
「噂に寄れば、リピンコット元少佐が子供を拾ったそうじゃないか。それは例の事と何か関係があるのかね」
「はい。子供はどうやら東の大陸でも滅びつつあるトレキア文字が読めるようなのです。トレキア書の解読を進めさせ、何らかの糸口が得られるまでは泳がせておくのが最良の策ではないかと……」
会話の思わぬ内容に、僕は驚いてマジュリカさんの顔を見た。扉を背にして隣に立っている星図家は、床の一点を睨みつけるように見つめたまま微動だにしなかった。
「それで、手は打ってあるのか?」
「もちろんです」
「君はなかなか有望だな。どうだ、うちの娘の婿に来ないか? もっとも、君も知ってのとおり一度結婚し、離婚したばかりだがね」
「身に余るお言葉です」
流行のシャンソン歌手のレコードがかかると、二人の男は酒と葉巻を交えて昨今の音楽について語り始めた。独特な葉巻の香りがやたらと鼻腔をつく。目に見えぬ煙は狡猾に意識に浸透し、くらくらとした眩暈を感じさせた。
スフィニアの父親が軍人だということは、新聞記事を読んで知っていたが、まさか僕らの話がここで飛び出てくるとは思ってもみなかった。彼らの会話に出てきたトレキア書とは、マジュリカさんから渡された手帳のことに違いない。しかし、『例のこと』とは一体何だろう? 彼らの話から察するに、手帳の解読がその謎を解く重要な足がかりとなるようだが……。僕が星図家から頼まれた雑務は、思いもよらずとてつもなく大きな秘密を孕んでいるらしい。
「おいで、スカー。この扉から先程の廊下に出られるようだ」
奥の扉を開いたマジュリカさんが小声で手招きをした。僕はひどく混沌とした気持ちのまま、そっとその場を後にするのだった。
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