マジュリカの魔法の目(3)
ロスト・ルッド様式の漆喰の白壁に、二つの影がぼんやりと映し出される。強圧的な夜の闇に追い詰められた影法師は、カンテラの明かりに照らされ奇妙に長く歪んで見えた。
「退役後も軍隊に目をつけられているなんて、あなたは一体何に関わっているんです?」
ほの暗い廊下を歩きながら僕が攻め立てると、マジュリカさんは少し苛立ったように歩みを早めた。「その話は後だ」
「スフィニア・メイルドの父親が言っていた『例の事』って何ですか? トレキア書に隠されている秘密って……そもそも、あなたは一体どこでこの手帳を手に入れたんです?」
「ああ、スカー。頼むから話は後にしてくれないか? 今は何よりもスフィニアから『目』を手に入れることが先決だ」
振り返ったマジュリカさんの右肩が、廊下に飾られていた甲冑とぶつかった。バランスを崩した甲冑は床の上へと倒れかけ、我が身を挺した僕はその重たい武具の下敷きとなる。
「大丈夫かい? スカー」
マジュリカさんが慌てて僕の顔を覗き込んだ。
「全然大丈夫じゃありません。動けません。助けてください」
夜の闇に包まれた豪奢なサロンは、月明かりを受けて静かな輝きに満ちている。眠らぬ石たちの呼吸が今にも耳に届きそうだ。マジュリカさんはサロンに誰もいないことを確認すると、神秘の物質をひとつひとつカンテラで照らし歩いた。
「またコレクションの数が増えたな。これなんか新しいやつだ。スカー、おまえはこの原石がどこで採掘されたか知ってるだろう?」
僕がそっぽを向いてだんまりを決め込んでいると、彼は呆れたように深い溜め息をついた。
「甲冑に潰されたことをまだ怒ってるのか? おまえが下敷きになってくれなければ、大きな物音で屋敷中の人間が目を覚ますところだったんだから、私は感謝しているというのに何をそんなに怒ってるんだ?」
「あなたがニヤニヤ笑いながら、悠長に片眼鏡(モノクル)のレンズをわざとゆっくり拭き始めて、僕のことをすぐに助けてくれなかったことに対して怒ってるんです」
「それはひどい言いがかりだ。どうやら私の右目は自分で思っていたよりも物が見えていなかったようでね。丹念にレンズを拭いて何が悪い? 根に持つ女は嫌われるよ、スカーレット」
「僕は女じゃありません。それにその名前で呼ばないで下さい」
怒って顔を上げた僕は、マジュリカさんが手にしていた石を見てはっとした。懐かしさのあまり、思わず怒りも吹っ飛んだ。「キラキラ鉱山でしか採れないアモルファルファの原石だ!」
「ご名答。おまえが暮らしていたあの辺り一帯は、今では荒廃した田舎町でしかないが、かつては東の大陸の鉱業都市として栄えていたこともあったそうだね。確かキラキラ鉱山だけで五百にも及ぶ鉱区が残されているのだとか」
「よくご存知ですね」
「知っていて当然だよ。おまえが生まれるずっと昔、リピンコット家は私のおばあ様の代までキラキラ鉱山の保有者だったのだから」
思いも寄らぬ星図家の言葉に僕は耳を疑った。
「それ、本当ですか? そんな話、一度も聞いたことがありません」
「複数いる保有者のひとりだったから、特に話に上ることもなかったのだろう」
手にしていた原石を元の位置に戻しながら、マジュリカさんは言葉を続けた。
「幼い頃におばあ様から聞いた話だが、キラキラ鉱山では落盤で多くの採掘者が命を落とし、砂塵で肺を悪くして死んだ者も数知れず。採掘者たちは何かあるたびにそれを『トレキア人の呪い』だと言って騒いだそうだ」
「あの辺りでは昔から子供を教育するのに有効な迷信として、悪い事をしたら必ずトレキア人の魔法の力で罰せられると語り継がれているんです」
「私が右目に受けた呪いもトレキア人の呪いなのだ」
「え?」
驚いた僕はマジュリカさんの横顔を穴が開くほど見つめてしまった。
「『見てはいけないもの』に呪いをかけたのは、魔法人トレキアの民なのだよ。ときにスカー、手帳に記されていたトレキアの『魔法の目』について、おまえはどこら辺まで解読出来ている?」
「確か、『魔法の目』は星を詠むための優れた目で……」
「まだそこか。おまえには館に戻ったら少し仕事のスピードを上げてもらわねばならないな」
マジュリカさんは右目の片眼鏡(モノクル)を指先で軽く持ち上げながら、濁った瞳を僕に向けた。
「いいかい、スカー。念のために言っておくが、私はこの屋敷で盗みを働こうとしているわけではないのだよ。スフィニアに奪われた私自身の『魔法の目』を取り戻しに、こうしてここへやって来たのだ」
そのとき、冷静な女性の声が背後から降ってきた。
「目は渡さないわよ」
蝋燭の明かりがカメオ装飾のような美しい婦人の姿をぼんやりと照らし出す。なんとサロンの扉に寄りかかるようにして立っていたのはスフィニア・メイルド本人だった。
「やあ、久しぶりだねスフィニア」
マジュリカさんがマイペースな笑みを傾けると、宝石コレクターは苛立たしそうに眉根を寄せた。
「あなた馬鹿じゃないの? まさか本当にやって来るとは思わなかったわ。私が警察を呼んでいればあなたは今頃投獄の身よ。そうでなくても、父に見つかれば家宅侵入を理由にその場で撃ち殺されてしまうかもしれないのに」
「私は命知らずでね」
星図家のその言葉に、スフィニアの頬がぴくりと動いた。白い顔には血が上り、ひどく紅潮しているのが見てわかる。彼女はつかつかと踵を鳴らして僕らの元に歩み寄ると、星図家の濁った瞳を真正面から睨みつけた。
「残念だけど、『魔法の目』は渡さないわ」
「あれはもともと私の目だよ。まさか君に奪われるとは思いもしなかったがね」
「一度受けた呪いが解かれることはないんでしょう? だったらあなたに返したところで、右目は一生不自由なままじゃない」
「そのとおり。私はやがて両眼の視力を失う。そうして、この呪いに侵され死ぬ運命だ。……スフィニア、時間がないんだよ。頼むから『魔法の目』を返してくれ」
「嫌よ!」
スフィニアが叫んだ。
「あなたは私と一緒に生きるのよ! 残り少ない時間を私と一緒に過ごすのよ!」
癇癪を起こした子供のように喚き散らすと、スフィニアは震える身体を自らの片手で押さえ、一瞬だけ剥き出しの眼差しを僕に向けた。それから、胸が破れそうな顔つきで、向き直ったマジュリカさんに寄りかかるようにして抱きついた。
「いつまでも、いつまでもスカーレットの影が付き纏う。どうして私じゃだめなの? 死んだ女のことなんか、いい加減に忘れなさいよ!」
マジュリカさんは何も言葉を返さなかった。マール・パウロの鐘塔のように、ただ黙ってその場に突っ立っていた。
宝石コレクターは震える声で懇願する。
「ねえ、お願いよマジュリカ。これ以上危険なことに首を突っ込まないで。父を失望させるようなことをしないで。……私のそばにいて」
驚くべきことに、彼女は泣いているようだった。
僕の錯覚かもしれないが、このときマジュリカさんの濁った右目にほんの一瞬何かが浮かび上がり、沈んでいったように見えた。それはひどく複雑で不可解な、懐かしい光のような、何かだ。
おもむろに瞳を閉じたマジュリカさんは、再び目を開くとスフィニアの後頭部に片腕を回し、躊躇うことなくキスをした。雲間から姿を現した月明かりが、重なる二人のシルエットをくっきりと床に描き出す。それは、見ているほうが息苦しくなるくらいに、情熱的で長いキスだった。
やがて、青白い光の中にスフィニアを残したマジュリカさんは、月影に一歩後ず去った。掲げられた右手には、いつの間に手にしたのか小さな宝石が輝いている。「『魔法の目』は頂いていくよ」
真っ青な顔をして、スフィニアは慌てて自分の胸元に視線を下ろした。どうやら胸の谷間に宝石を隠し持っていたらしい。
マジュリカさんは扉の方に歩いて行くと、「帰るよ、スカー」と僕を呼んだ。茫然としていた僕は、弾かれたように小走りで後を追う。
サロンから出る寸前、床に崩れるようにしてしゃがみ込んだ婦人に向かって星図家はこう言った。
「君は美しい宝飾品をたくさん持っているのだから、もう、その古ぼけた結婚指輪は外すんだ。いいね?」
スフィニアの左の薬指に光るトレステンの指輪。かの有名な宝石コレクターと結婚した資産家とは、マジュリカさんのことだったのだ。
置時計が遠慮がちに深い夜の時を告げる。閉ざされたサロンの向こうから、鐘の音に紛れてスフィニアのすすり泣く声が耳に届いた。
僕とマジュリカさんは来た道を辿るようにして、クロリア・ホールの迷路から難なく抜け出ることが出来た。残光の帯を引くカンテラの明かりが、這い回る虫をちらつかせながら夜の闇に溶け込んでゆく。星図家の後に続き、僕は無言で浅い水辺を歩き続けた。時折、灯心草の根に躓きそうになりながら。
〈太陽の花びら号〉を隠した場所に辿り着くまでの間、僕らは一言も会話を交わさなかった。だが、操縦席に乗り込む前に、ふいにマジュリカさんが独り言のように呟いた。
「スフィニアは素敵な女性だよ。太陽のように明るく、快活で聡明で。私にはもったいない。呪いを受けた今の私の目には、遠い星の瞬きで充分なのだよ」
そう言って、彼はほんの少しだけ悲しげな微笑を浮かべ、静なる光を湛える星空を見上げたのだった。
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