マジュリカの魔法の目(1)

 自室で古びた反射望遠鏡を覗いていたマジュリカさんは、スフィニア・メイルドの屋敷から戻った僕を見るなり、「おいで、スカー。これを覗いてごらん」と窓際のテーブル席を僕に譲った。

 鏡筒の先端にある接眼部から望遠鏡を覗き込むと、赤い光を放つ美しい星の姿が見えた。

「東の方角、五つ子星座の斜め右上に位置する緋色の星だ」

 そう言って、マジュリカさんは遠い夜空を見上げながら目を細める。

「私がこの世で最も愛する星、『スカーレット』だよ」




 外出前より明らかに散らかっている星図家の部屋を片付けながら、僕はスフィニア・メイルドに手紙を手渡してきたことと、彼女からの伝言をマジュリカさんに伝えた。

「『手に入れられるものなら手に入れてご覧なさい』とは、相変わらず凛々しい女性だね。では、今夜スフィニアの屋敷へ忍び込み、予告どおり目を貰いに行くことにしよう」

 臆面もなく放たれた言葉に、僕の手元は大いに狂わされてしまった。目の前にある山積みの古書を倒してしまい、天辺に乗っかっていた環状天球器が真鍮の鈍い音を立ててベッドの方へと転がっていく。慌てて拾い上げたが、天球器の真ん中にあるはずの星がなくなっていた。

 床に這いつくばってベッドの下を覗き込んでいると、望遠鏡の鏡筒を動かし、ピントを合わせ直していたマジュリカさんが振り返って笑った。

「大丈夫だよ、スカー。その天球器はもともと中身がないんだ。でも、おばあ様の形見だから大切に扱っておくれ」

 天球との対応関係を見るための道具なのに、肝心の星がないだなんて馬鹿げてる。いや、今はそんなことはどうでもよい。僕は天球器を安楽椅子の上に置くと、冷静に夜空の観察を続ける星図家を穴が開くほど見つめた。

 目を貰いに行くって、一体どういうことだろう? マジュリカさんは言葉どおり、自分の呪われた右目の代わりに、スフィニアの瞳を手に入れようとしているのだろうか? 僕はあの美しい婦人の顔から彼が眼球を取り出すところを想像した。そして、自らが生み出したおかしな妄想を追い払おうと、すぐに頭を振った。

「ねえマジュリカさん、あなたは自分のしようとしていることがわかってるんですか? 目を盗むなんて尋常じゃない。明らかに異常です。スフィニア・メイルドが言ってました。あなたは……その、や、病んでいるって」

 どもりながら口にすると、意外にもマジュリカさんは「まあ、そうだろうな」とあっさり自分の異常を認めて望遠鏡から顔を上げた。それから、右目の片眼鏡(モノクル)を軽く指先で持ち上げながらこう言った。「だが、世界は私以上に病んでいる」

 時折、はっとさせられることがある。この星図家は、普段のふてぶてしさからは想像もつかないくらいに、ひどく繊細な顔をすることがあった。危うい足取りで、かろうじて暗がりの中に立っているみたいなその姿は、教授が殺された日、坑道で初めて会った軍人のマジュリカさんを否応なしに思い出させた。

「いいかい、スカー。私が病んでいるのは心だけではない。身体もだ。『見てはいけない物』を見たせいで、呪われた右目の視力をほとんど失いつつある。受けた呪いは身体の奥深くまで潜り込み、私はそう遠くないうちに死ぬだろう」

 僕が困惑気味に黙り込むと、それに気づいたマジュリカさんは微笑んだ。

「なに、心配は要らないよ。万が一のことを考えて、こうして『星の契約』を交わしたのだから。魔法の絶対的な力によって、私の最期を看取るのはおまえであるようきちんと保証されている。たとえ虫の息でも、死ぬ前には必ずおまえにキラキラ鉱山での一連のことを話して聞かせよう」

「僕は別に、今そのことを心配しているわけじゃありません。僕が心配していたのは、あな――」

 言いかけて、慌てて口をつぐんだ。僕は今、一体何を言おうとした? 僕が心配しているのは誰だって?

 無表情を装いながらも落ち着きを取り戻すため、床に散らばっていた幾枚かの銅版画を拾い上げ、僕はそれを助手らしく星図家の机の上に運んだ。

 目が合うと、マジュリカさんは金色の睫をぱちりと閉じてウィンクした。

「今夜マール・パウロ教会の鐘の音が十二回鳴ったら、丘の裏手の土手に出ておいで。人様の屋敷に忍び込みに行くのだから、誰にも見つからないよう気をつけて来るんだよ。いいね?」

 突拍子もなく告げられ、頭が一瞬真っ白になった。言葉の意味をゆっくりと咀嚼するように考えてから、何やらおかしな点に気がついた。

「ちょっと待ってください。屋敷に忍び込むって? スフィニアの目を盗みに行くのに、どうして僕までついて行かなきゃならないんです?」

「もちろん、クロリア・ホールを案内するためだ。鉱山で生まれ育ったのだから、あのくらいの迷宮はお手の物だろう?」

 ああ、なるほど。そういうことだったのか。この人は、それでわざわざ僕に手紙を届けさせたのだ。僕は自分の全く知らぬ間に、クロリア・ホールを偵察させられていたわけだ。

「仮にも、おまえは私の助手なのだから、手伝う義務もあるはずだ」

「僕は星図家の助手ではあっても、精神に以上をきたした盗人の助手になったつもりはありません」

 突き放すように言葉を返すと、マジュリカさんは微苦笑を浮かべた。

「まあ、そう怒るな。これはおまえの知りたいことに深く関係があるんだ。すべてを知りたいなら、今夜は私と一緒においで」

 僕の知りたいこと――? それは、つまり、教授が殺されたこととあの屋敷が、何か関係しているということだろうか?

 口を開きかけると、マジュリカさんは素早く僕の口元に人差し指を突きつけて、静かにするよう促した。彼が唐突に会話を中断させたその理由は、たぶん廊下を歩いてくるハイヒールの足音だ。どうやら秘書のエイセルがポートグロフ社から戻って来たらしい。

「いいかい、スカー。今夜私たちがスフィニアの屋敷へ行くことは、エイセルには秘密にしておいてくれ」

 僕は呆れて、もはや何も言う気にすらなれなかった。いくらふてぶてしいマジュリカさんであっても、自分の秘書に『人妻の目を貰いに行ってきます』だなんてことは、口が裂けても言えないらしい。特にお気に入りの秘書であるエイセルには……。

 扉をノックした星図家の秘書は、主の返事を待ってから颯爽と僕らの前に姿を現した。

「ただいま帰りました、マジュリカ様」

「やあ、お帰り麗しの君」

 先程までの態度とは打って変わって、マジュリカさんは幾分演技がかったような甘ったるい笑顔を浮かべた。

 流れるようなブルネットに、理知的な黒い瞳。エイセルはとびきりの美人というわけではなかったが、内にどのような情熱を秘めているのだろうと思わず想像したくなるような、不思議な魅力があった。

「長旅ご苦労だったね。思っていたよりも随分早く帰って来れたようで良かったよ。かなりの遠方だし、明日の晩くらいまではかかると思っていたのだがね」

「ポートグロフさんのお弟子さんに送って頂いたんです。新型の飛行艇に乗せてもらいました」

「コティに? なんだ、ここまで来ていたのなら立ち寄ってもらえばよかったのに。それで、ハンフリーは元気にしていた?」

「ご訪問した三分後にプロポーズされて、五分後に海辺の教会に連れて行かれそうになったので、慌てて帰ってきたんです。あの方はどんな大規模な爆発事故を起したとしても、絶対に死んだりなんかなさらないでしょうね」

 エイセルの辛辣な言葉に、マジュリカさんは声をあげて大笑いした。

 楽しげな二人の様子を、僕はやや軽蔑の入り混じった眼差しで眺めていた。気の多い星図家の不気味な企みを、今この場でぶちまけてしまいたい心境にかられながら。

 何も知らないエイセルは、花も綻ぶ清廉な笑顔を僕に向ける。

「ただいま、スカー。どうかしたの? なんだかとても難しい顔をしているわよ」

 頭が良く、優しさの中にも芯があって、忠実で思慮深い――。エイセルは僕の憧れそのものだった。彼女は僕がこの館で暮らすようになってからまもなく『星図家の秘書』として雇われた。マジュリカさんの親友であるシザーリアス・ヴァイレンからの紹介でこの館にやって来たそうだ。その経緯は詳しく聞いていないけれど大筋想像がつく。たぶん、僕のことを女だと思い込んでいるシザーリアス・ヴァイレンが、『お世話係兼話し相手』のつもりで彼女を送り込んできたに違いない。

 マジュリカさんが軍に内緒で僕を引き取ることに決めたとき、シザーリアス・ヴァイレンは当然のことながら猛反対したそうだ。しかし、結局親友想いの彼は、上層部に余計なことを一切報告することなく、マジュリカさんのわがままに付き合い続けているのである。

「あなたが難しい顔をしているのは、きっといつも難しい本ばかり読んでいるせいね。スカー、年頃の女の子が屋敷に篭ってばかりじゃいけないわ」

 エイセルの言葉に僕はがくりと項垂れた。やはり女の子だと思い込まれているらしい。

「あのさ、エイセル、僕は女の子じゃないんだよ」

「つまらない冗談はよしてちょうだい。慰めのつもりで言ってるの? あなたは私よりもうんと肌の色が白くてきれいなのに」

「それは鉱山で暮らしていたからで――」

 僕の言葉を遮るようにして、マジュリカさんが口を挟んだ。

「そう言えばエイセル、屋敷に口紅が落ちていたのだがこれは君のじゃないかな?」

 それで、はっとした。僕は自分の生い立ちについて口にしかけてしまっていたのだ。慌てて口に手をやったが、幸いなことにエイセルの注意はすでにマジュリカさんの方に向けられているようだった。正確に言えば、彼の手の中にある口紅に。

 こっそりと僕にウィンクする星図家の濁っていない方の目は、鍵穴から部屋の中を覗く子供のように輝いている。悔しいが、僕は彼に感謝すべきなのだろう。

 マジュリカさんがエイセルに手渡した口紅は、スフィニアの手紙にキスマークをつけたときに使ったと言っていたやつだった。エイセルはわずかに戸惑った様子を見せていたが、「ええ、そうです。どこかでなくしたらしくて、ずっと探していたんです」と、すぐに笑顔で受け取った。

「やはり君のだったのか。ミス・キルスティンの落し物かもしれないと思って躊躇していたけれど、最初から君のだとわかっていれば間接キスが出来たのに――ああ、残念だ」

 一体どの口が言っているのか。最初から知っててちゃんと使ったくせに――。

 やはりこの星図家に感謝などこれっぽっちも必要ない。スフィニア・メイルドの言うとおり、マジュリカさんは間違いなく病んでいる。変態以外の何者でもない。

 変質的な行為と言えば、彼は時々ストーカーのように遠くからエイセルを観察していることがあった。(ここではっきり言っておくが、あれは結構気味が悪い)ほら、今だって、彼女の一挙一動を逃すまいと目に焼き付けようとしているみたいだ。

 スフィニアにあんな奇妙なラブレターを送っておきながら、まったく、この星図家の考えていることは本当によくわからない。

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