第6話 長いの、取って返す

「よし、貫太郎かんたろう、おれたちも急ぐぞ。さあ乗れ」


 子供に背を向け、やや腰を落として負ぶさるよう促す。逡巡の気配はあったが、「ごめん」という声がして、背中に控えめな重みがかかった。子供の体をいとも軽々と背負い直して、雅寿丸は勢いよく走り出した。貫太郎の足並みを気遣いつつも急いでいたときより、なお速い。さすがに飛ぶようにとまではゆかないものの、蝉の声が前から後ろへと次々流れていく。すぐに暑くなったが、速さがあるため顔で風を切ることになり、これが思いのほか涼しかった。


 そうこうしながら、四半刻が過ぎる。行く手のほうから、大きな音がして、次いで地響きが伝わってきた。大木の倒れる音のみが聞こえる山の怪異「天狗倒し」にも似ていたが、斧を入れる音がない。雅寿丸は足の運びを緩めないまま首をひねった。


「ううむ、ここらに天狗殿はいなかったはずだが」


 のんきな声でそういってから、いくらもたたぬうち、地響きがいよいよ勢いを増した。さすがに訝りつつ山道の先に目をやると、なにやら黒々としたものが凄まじい速さで下ってくるのが見えた。土砂を多分に含んだ大水だ。生い茂る木のうち、細いものや若木はことごとく引き倒され、濁流に飲み込まれてゆく。


「貫太郎、ちょいとばかり大変なことになった」

「この音? 怖い、怖い、何が……」


 心細げな声を出し、首を伸ばして肩越しに前方を覗き込もうとする子供の顔を、雅寿丸は大きな手のひらで覆って遮る。地鳴りはますます激しくなり、おどろおどろしい轟音は、はらわたを裏返すのではないかと思うほどに響いた。


「まず、目を閉じろ。それから、両手両脚を使って、おれを絞め殺すくらいのつもりでしがみつけ。できるな?」

「え? うん、できるけど……わっ」

 首と腰に細い手足が巻きついたのを見計らい、雅寿丸は跳んだ。目と鼻の先まで迫る獰猛な山津波を前にしつつ、ためらうことなく前方へと身を投じる。ひときわ太く大きな木に取りついた。そのとたん、濁流がとてつもない勢いで足をすくい、とんでもない強さで後方へ連れ去ろうとした。腕に渾身の力を込め、なんとかそれに耐える。背中では貫太郎が、わけのわからないうめき声を、ひっきりなしに上げている。障子や柱、ときには屋根の一部までもが、土砂と一緒に流れてきては二人のそばをかすめていった――と、濁流の中に見知ったものがあるのに気づき、雅寿丸は大声で呼ばわった。


「おおい! 楽喜らっき、こっちだ」

「おう、雅寿兄がじゅにい、助かったあ」


 左手で大木にしがみつきながら、右手を離して伸ばす。雅寿丸は弟鼬を正面からすくい取ろうとして失敗し、長い尾を辛うじてつかむことができた。濡れた猫のように無様な姿の弟と、やや勢いを弱めた流れの中で無事を確かめ合う。


「うはは! おまえの尾が短かったら、つかみ損ねていたかもしれんぞ」

「ううむ、これでは鼬の川流れだ。泳ぎにはいささか自信があったが、さすがにああも凄まじいと、おれごときでは話にならん。獺なら、もう少しましだったかもしれんが」

「怪我はなさそうでなによりだ。それで、上で――村で何があった?」


 自力で木の幹に長い爪を立ててしがみつきながら、尾長鼬――楽喜丸らっきまるは気遣わしげに長兄の背へと目をやった。


嫁ヶ淵よめがふちの主な、だめだった。おれが宮川に着いたときには倒れていて、妖怪が化生したらしい大男に踏みつけられていた」

「ふむ。それではこの大水は……」

「うむ。蛇姫殿の仕業だ」


 雅寿丸は無言で弟の真っ黒い目を見つめていたが、しばらくして首をひねった。


「ううむ、わけがわからん。宮川の守護鳥獣殿は、大男とやらに倒されたのではないのか?」

「少しややこしいんだ。心して聞いてくれ」

「おう」

「大男は勝ち誇って、蛇姫殿に聞いたんだ。『腹の子と村の衆、どちらを生かす』とな」


 さすがの雅寿丸も、二の句が継げなかった。濁流のごうごうという音が妨げて、この話が貫太郎の耳に届かないことを願いつつ、ただ頷く。弟は、さらに声を落として続けた。物の怪でもなければ、この轟音の中では聞き取れないであろう小声で。


「蛇姫殿は、守護鳥獣である前に、母親だった。そうしたら大男はおもむろに蛇姫殿の腹を割いて、赤……い塊を地面に叩きつけた。それはもうだめだとわかったから、おれはせめて腹の傷を塞ごうとしたんだ。そうしたら……」

「さすがのおれでも、なんとなくわかってきたぞ。魔道、だな?」

「うむ、恐らく」楽喜丸は言ってから頷き、「急におかしくなった。血まみれのまま大蛇の本性を現して、この大水だ」


 ようやく水かさが膝辺りにまで下がると、雅寿丸がじゅまるは山の上を仰ぎ見た。


「嫁ヶ淵の主を、止めに行くか」

「いや、雅寿兄、それには及ばん」

「どうしてだ?」

「医術の心得のあるおれの目から見て、嫁ヶ淵の主は、もう助からん。最後の力を振り絞ってこの大水を起こし、力尽きただろうよ」

「そうか。それなら……」と、雅寿丸は今度は山道の下へと目を向けて「風隼村かざはやむらは大丈夫だろうか? 蛇姫殿をやった大男というのは、どうしたんだ?」

「その様子だと、雅寿兄たちは出くわしていないんだな。たしかに山道を――この道を下っていったんだが」


 雅寿丸は大きな体を屈め、背中の貫太郎を下ろした。水かさはすでに、くるぶしまでもなくなっている。


「貫太郎、ちと厄介なことになった。おれたちは風隼村に戻らなければならん。悪い物の怪がいるかもしれんから、おまえを連れては行けん。一人で宮川まで、戻ってくれるか」

「うん」


 頼りなく首を縦に振って歩き出した子供の背中をしばらく見送ってから、弟鼬の倍ほどもある大鼬に姿を変えた雅寿丸は、楽喜丸と先を競うようにして山道を駆け下りた。本気で走れば、つい今しがた釣りをしていた川が見えてくる。川までくればあとは平坦な道で、風隼村は目前である。


吉勝きっしょう!」

吉勝兄きっしょうにい!」


 村の入り口に血溜りがあり、中心に一匹の獣が倒れている。毛足が並みの倍以上も長い鼬である。その長い毛に、鮮やかな赤がまとわりついていた。血溜りはいまだ広がり続けていたが、毛長鼬はうめきながら目を開いた。

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