第3話 暗躍
後に封地名は「
寧和二十七年長月。十五夜である。裏町の長屋を囲む土塀の上に、猫がいた。白黒茶の混じり具合が絶妙な三毛猫である。器量のみならず、毛づやも申し分ない。「
三毛猫は、前足と後ろ足を内側へ器用に折り曲げ、俵を思わせる形となって鎮座している。金色と緑を行きつ戻りつする不可思議な色合いの目は、障子の穴を通してじっと長屋の中へと注がれていた。
「五十両……ああ、これが五十両ってやつか」
「そうだよ、お前さん。この金が、お
やや年のいった男と女の声に、土塀の猫は耳を振るわせ、首を持ち上げた。満ちたる月を受けて輝く二つの大きな目の中で、瞳が鋭く引き絞られる。そのまま首をつと上げて、障子のさらに上に空いた穴から長屋の中を覗き込んだ。
月代も髭もあまり手入れされていない、くたびれた風情の男と、同じく後れ毛の程度が甚だしい、疲れ切った様子の女が、上がりかまちに向かい合っている。手には小判。人を惑わす金色の輝きが、それぞれの手に、大事そうに握られていた。
「でもなあ、寂しくなるなあ。だってお前、十年だろう?」
「そ。十年経ったら、もう五十両。おまけに公儀の仕事ももらえて、安泰だよ」
「そうかあ? 考えてもみろよ、十年つったらお前、お紋はもう二十五の大年増だ。嫁のもらい手がいなくなったちまうんじゃないか?」
髭だらけの顔が、不意に男親のものとなる。だが、二枚目の小判を手に取った女が、
「お前さん、母親のあたしがいうのもなんだけど、あの子は器量が今一つだ。このままここでぼうっとしていたって、嫁の貰い手なんざ、来やしなかったよ」
そういうと男、口では
「お前、あんまりな言いぐさじゃないか」
などといいつつも、顔つきはほぼ女にうべなうものと成り果てた。
「何いってんだい。お前さんだって、腹ん中じゃあそう思っていたんだろ」
女はそう決めつけ、男の手から小判をひったくった。そして、濁った目でそれを数え始める。
昨日からずっとこのような調子なのを、三毛猫は知っていた。どう数えたところで増えるはずも減るはずもない金を、もはや幾度数えたものか知れない。それでも、男は女の好きにさせていた。なぜなら、女が「五十」といって小判の耳を揃えると、次は男の番だからである。
灯りがゆらめくたび、得もいわれぬ魚の匂いが三毛猫の鼻をくすぐった。障子に映る夫婦の影法師も、大きく揺らいでは滑稽な動きを繰り返し、じゃれつくのを誘っているように見える。だが、猫はわずかに小鼻を動かしたのみで、眼居は片時も逸らさない――無論、障子の穴から覗く金色からである。猫の、顔に対してひどく大きな二つの金色もまた、それを受けて輝きを増した。どこか禍々しく、鈍い輝きを。
――と。猫が不意に首をひねり、土塀を挟んだ逆側の路地に目を落とした。人の耳ではまだしばらくは捕らえられぬであろう、ごく小さな遠くの足音を聞きつけたためである。長屋の中の夫婦が互に小判と戯れている間も、三毛猫は耳だけを近づきつつある足音に向け、怠りなく用心を続けていた。
姿が見てとれるであろう間まで足音が近づいたころ、三毛猫は再び塀の外へと目をやった。
すり足でやってくるのは、役人と思しき黒い紋付姿。それが、荒れ果てた長屋くんだりまでやってくるのは一大事である――今までは。このところ、役人が町人地や裏長屋やらに姿を現すのが珍しくなくなっていた。三毛猫がこの界隈で役人を見るのも、これが初めてではない。
役人は、常ならば潜るのを躊躇うであろう門を何食わぬ顔でとおり抜け、件の夫婦が今も「一、二」とやっている荒屋の前まで来ると、二、三度咳いた。
中の二人は弾かれたように動きを止めてから顔を見合わせ、慌てふためきだした。今さらそうしたところでどうにもなるまいに、女は男の手から五十両を引ったくって尻の下に敷いた。男は腰を浮かせてその様子を障子の穴から隔て、ややあってから「へい」と応じる。先ほどは考えが合わなかったというのに、このときだけは馬鹿に息が合った。
「加藤だ」
「お、お役人様」
改めて畏まったふうを装う人間どものやりとりを、猫は土塀の上から冷ややかに見つめる。障子がするすると引かれ、目界が一息に晴れた。猫は満足げに目を細める。
「娘のことで参った」
「お、お、お紋の……」
女は身を固くした。顔からは血の気が失せている。
「お紋が、何か……粗相でも……」
三和土に這いつくばった男が、女に代わって問う。こちらも顔色がよくない。男が案じているのは、娘の安否か、それとも金か。
「出立まであまり時がないのは承知しているが、そなたの娘が、その……どうしても父母にもうひと目会いたいと、こう申すのだ」
「ああ……お紋……」
女の眦に、光るものが。
「本来であれば、別れが辛くなるゆえ、一度預かった娘は旅先から戻るまで親兄弟に会わせてはならんことになっている」
「お紋、ああ……行かせるんじゃあなかったなあ」
男までもが無精髭に覆われた小汚い面に涙を浮かべる始末。
役人は一度障子の外へ頭を突き出し、辺りを素早く窺ってから、夫婦に向かって膝を進めた。
「拙者とて人の子。娘の涙ながらの頼みを、無下に断ることはできなんだ」
「おお、お役人様あ」
声を揃え、感極まった様子で手を擦り合わせ、役人を拝み倒す夫婦。それを役人は手で制し、さらに声を低める。
「そこで、だ。拙者の力では、ここへ娘を連れてきてやることはできん。だが、そなたらを密かに娘の元へ連れて行って引き合わせてやるというのであれば、何とかしてやれる。どうだ、来てくれるか?」
「もちろんでございます」
「願ってもないこと。どうか、お連れくださいまし」
夫婦は役人の足元に体を投げ出し、縋りつかんばかりの勢いでひれ伏した。
「しっ。上の者の耳に入ると面倒だ」面長な役人は顎を振り振り、「だが、そうか、来てくれるか。娘もきっと喜ぶ」
力強く頷いて、夫婦に出立を促した。
男は土間に飛び降りて、草履を足に引っかけるだけでよかった。役人に続いて戸を潜ってから振り返り、後ろでのろくさしている妻を急かす。
「何してやがる、お紋は待ってるんだ。早く行ってやらにゃ」
「でも、お前さん……」
女が困り顔で示して見せたのは、あの金色の輝き。貧乏長屋には似つかわしくない大金をどうするか、夫に問うているのである。
「金なんて、お前……」苛立たしげに足踏みしながら、男は乱暴に言った。「持っていきゃあいいだろう。お役人様もついていてくださる。滅多なことは起こるまい」
「ああ、そう、そうだね」
女はとたんに顔を輝かせ、大慌てで小判を手ぬぐいで包み、懐に突っ込んだ。
三毛猫はそのさまを、大きな金の眼で見つめていた。そして手ぬぐいが、女が身にまとう藍色の小袖の懐に消えたのを確めてから、つと立った。長屋を出た三者が連なっていそいそと歩きはじめ、土塀に沿って遠ざかってゆくその後姿を、見送っているようにも見える。しかし、その姿が曲がり角に差しかかって消えた矢先、猫は塀の上を駆け出した。
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