口紅を口に塗らず

「列車の行き先ってのは書いてあるものよ。それを確認したらどう」


男は気が付いた。

窓を開けて、身を外に乗り出した。

列車の行き先を示す掲示は列車の外に掲げられているはずだ。


「ない。行き先がない」


「そう空白なのよ、何にも書かれていないの」


少しの沈黙の後、女は何かを決意したようにバックから口紅を取り出した。

そして、窓を開けた。


「行き先を書くわ。本当はあなたと一緒で行きたくないんだけど、会社に行かなくちゃ。最悪な職場なんだけど、必要とされているし、私がいないと困る後輩がいるのよ」


女は窓から身を大きく乗り出した。

どうやら空白の掲示板に口紅で文字を書きこんでいるようだ。


「じゃあね、先に行くわ。こういう列車も必要なんだと思うわ」


「どんな時に」


「行き先を思い出す時に」


口紅を男に放り投げると、列車のドアが突然開いた。

男は口紅をとっさの反応で受け取った。


女は男の方にとてもこじんまりとした笑顔を向けながら列車から降りていった。

ドアはすぐさま閉まり、さっきと同じ光景が車内に戻った。


女が寄越よこした口紅で

すべきこと、

したくないこと、

が一致していた。

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