第2話
嵐が過ぎると気温は一気に下がった。アーモロートの冬とは異なり、エリ・ブランシェには雪が降らない。空気がすごく乾いているようで、霜も下りない。道の両脇には砂かきで集められた砂が山をつくっている。外を歩くと、吐く息は白い。
「ベント」
突然声をかけられ振り向いた僕に、手を振りながらウインクを投げ返してきたのはマリだった。ダッフルコートを着て、ニット帽を被っていた。
「久しぶり、元気してた?」彼女は僕に駆け寄ってくる「スケート行くんだ、川に。氷張ってるから」彼女は手にしていたスケート靴を見せた「来る?」
「でも僕はスケート靴持ってないよ」
「じゃあ来ないの?」
「いや」僕は少し戸惑ったあと、首を縦に振った「ううん、行くよ」
そう来なくっちゃ、と彼女は言うと僕の手を取った。彼女の暖かさが手袋越しに伝わってきた。まだ砂の残った道を、谷の方へと駆け出した。
道がアスファルトから砂利道に変わり、やがて礫の散らばる谷に着く。前来たときは気づかなかったけれど、割られたようないびつな形をした石だけじゃなく、角が取れて丸くなった石も同じくらいある。吹き付ける砂粒が角を削ったのだろうと想像した。斜面のそれで覆われたところは、非常に滑りやすい。
「足下の石が凍ってるから、気をつけて」
マリは言った。嵐は砂だけじゃなくて川の水も巻き上げて、飛沫を谷に降らせるに違いない。濡れた石はそのまま凍ってしまう。僕は注意しながらゆっくり歩をすすめた。
谷底に着くと、そこには仄かに赤みがかった、凍った川があった。彼女はスケート靴に履き替えると、川の上を滑り出す。風にマフラーがひらひらとする。僕はその様子を川岸から見ていた。
「ねえ」マリは滑りながら僕の方へ声を上げて呼びかけた「洞窟の方行ってみようよ」
僕はまたあの水晶が見てみたかったし、本物の氷と実際見比べて、そのすばらしさを改めて実感してみたかった。僕は首肯した。
「どっちが早く着けるかしら」彼女は不敵に笑い、そのスピードを上げた。僕はというと、凍った川辺を転ばないように進んでいくのがやっとだった。
狭隘な谷間を抜けたところで、僕は不意に立ち止まった。
前とは様子がかなり変わっていた。数週間前に来たときにはそこには何もなかったはずだ。しかし今は、洞窟の入り口に柵がつくられ、洞窟前の開けた砂利地には工事用の重機が数台置かれていた。
「ここって、閉鎖されてたはずだよね」
先に辿り着いて、同じく唖然としているマリに尋ねる。彼女は、既にスケート靴を履き替えていた。
「ええ」彼女も訝しげに答える「今になって掘り返すのかしら……あ、誰か来たわ」
見ると崖の上の方から十人ほどの大人が降りてくる。僕は驚いた。そのうちの何人かは軍人のようであったし、何人かは役人のようだった。その役人の中に、僕の父も混じっていたからだ。
思わず僕は父に駆け寄った「お父さん、これは……」
父の方も思いがけない僕の出現に戸惑った様子だった「お前、こんなところで何をしているんだ」
「ええと……散歩をしていただけ」ばつの悪そうに僕が答えると、今度は父は僕の後ろへと視線を移した。マリの方だ。
「彼女は……?」
「こんにちは。マリ・マッカーストンです」少女は父にお辞儀をした「この辺りを案内していました」
「この辺は危ないよ」父は言った「足下も滑りやすいし」
「ベント君のお父さん」マリは首をひねりながら聞いた「ここに何を建てるんですか? 廃坑をもう一度掘るんですか?」
「まあ、そんなところだよ」父は急かすように続けて言った「さあ、でも、早く帰りなさい。ここはもうじき立ち入り禁止になるから。装備なしで鉱山に近づくのは危ない。それに、こんなに寒くて風邪をひいたら困るぞ」
僕らは父の言ったことに従って斜面を登っていった。後ろを振り向くと、兵隊さんが、谷への入り口に『立ち入り禁止』立て札を立てていた。
僕らは、道を、町へと戻り始めた。マリは非常に不満そうな顔で、手を首の後ろで組んだ。
「でも憂鬱ね。残り少ない秋休み、今年は遊べないなんて」
「宿題は終わったの?」僕は不意に尋ねてみた。彼女の足が止まった。
「……しまった(ヨシャパテ)」愕然とした顔に変わる。どうやら、してなかったようだ。
「あと一週間ぐらいだろう、二ヶ月分近い宿題どうする」
「いや、少しはやってるよ、うん、やってるんだ」彼女は慌てつつも、僕にというよりかは自分に言い聞かせるように言った「初めの二、三日はがんばったんだけど、そこでばてちゃって……あなたは宿題終わってるの?」
「宿題はないよ。というか、アーモロートを離れる前に、夏休みの宿題は全部やり終えてしまってたから。それに転校したばっかりの人に宿題は出せないだろ」
彼女は、何なのよそれ、と僕に悪態をついたあと、どうしよう、と溜息をついた。暫く頭を抱えたあと、何かを思いついたらしい、顔を上げてにやりと僕を見た。
「ねえ、勉強はできる?」
「え、うん、少しは……」
「じゃあ手伝って!」
「え?」
「決まり! よろしく!」
マリはそう勝手に一人で決めると、僕の手を掴んだ。いいとは言ってないよ、という僕の言葉を完全に無視して、彼女は僕を彼女の家まで引っ張っていった。
「ただいま」彼女はそう言って重たい扉を開けた。玄関で返事を返したのは老婆だった。おそらくマリの祖母だろう。
「友達連れてきたの。勉強の分からないところ教えてもらいに」
僕はマリの祖母に会釈をすると家の中に入った。マリは、ダイニングテーブルに坐って待ってるように言った。暫くすると、彼女が両手いっぱいにノートと教科書を抱えて戻ってきた。それを机にドサリと置く。
「こんなにあるのか……」僕は思わず絶句した。宿題は、ほぼ全教科にわたって手つかずのようだった。数学、物理学、共用語……地理は既に終わらしたようだった。
「まずは歴史から!」彼女は『歴史ワークブック』と題された本を手に取った「歴史の先生、厳しいから」
「全然やってない……って訳じゃないようだね、中世まではやってるみたい」僕はその本をぺらぺらとめくってみて言った。
「そう、それ、中世とか、近代とか、いつからいつまでかよくわかんないの。この問題とか『中世の終わりについて述べよ』とか。これ考えてるうちにやる気がなくなったの。教科書見ても何年とか書いてないじゃない」
「僕はウエストファリア条約って習ったけどな」
「ウエスト……何?」
「ウエストファリア条約。三十年戦争の講和条約。中世的な封建社会が終わって、主権国家が生まれたんだ」
それが近世の始まりだった。それから産業革命、帝国主義時代を経て、二度の世界大戦ののち近代へ移行する、と説明した。
「ええと、それじゃあこの空欄は二次世界大戦で……ねえ、第三次世界大戦の開戦っていつか分かる?」
「二十一世紀、だったような……」僕は手元の山から歴史の教科書を発掘すると、頁を開いて読み上げた「ええと、あった。地球歴二〇四四年六月十七日、中国は台湾へ侵攻、米国を中心とするNATO軍は中国へ宣戦布告する……」
「了解、二〇四四年、っと。まだ穴埋め続いてるの。『この戦争で、二次大戦以降初めて【F】を使用したのは【G】である』」
「ええとそれは……たぶん、ええと、縮退砲、じゃなくて」僕は教科書の文に目を走らせた「【核兵器】を使用したのは……ううん、この教科書の書き方じゃインドかパキスタンか、どっちか分からないな」
「ええい、もう。わかんないから全部アメリカでいい」彼女はペンを回してぶっきらぼうに言った「確か当時の覇権国家でしょ、三度の戦争に勝ったんだし」
「先生に怒られるよ」
「とりあえずは全部埋めるの……よし、近代は半分くらいまで行ったわね、早くやりあげよう」
僕はため息混じりに聞いた「次は何の問題?」
「ええと、やっと火星が出てきたわ。初めて火星につくられた植民市は……簡単ね、【ブラッドベリ・ベース】っと」
こんな感じで僕らは問題集を進めていった。二十三世紀の木星独立戦役、二十五世紀の最終戦争と続いて、三十分ほどで、近代史は終わった。
「はあ、疲れた。とりあえず歴史は今日はこれでおしまい」彼女は椅子にもたれかかり、背伸びをしながら言った「にしても、戦争のことばっかりね。戦争の名前ばっかり覚えちゃう。あ、でも、最終戦争、って。これ以降戦争は起きてない、ってことだよね」
僕は肯いた。最終戦争以降は大規模な戦闘は行われていなかった。地球が十億人を犠牲とした最終戦争から立ち直るにはたっぷり三世紀を必要とした。そのあと成立した太陽系連合(ソーラー・コモンウェルス)が主体となり、人類はそのエネルギーを外的膨張へと転換する。太陽系政府はアルアファ・ケンタウリを皮切りに、くじら座タウ星やエリダヌス座イプシロン星へと移民船団を送り出す。これが現代の始まりだった。
「戦争、ってどんなものなのか知らないもんね。文字だけでたくさん」
「確かに」
「あっ、そういえば……」マリが思い出したように言った「さっき谷にいた人、軍人もいたよね。軍が鉱山に何の用かしら。……よく考えてみたら、戦争がないのに軍はあるなんて」
「確かに、おかしいかもね」
僕は笑ってそう言ったが、あの時の父親の口調に、なにか心に引っかかるものがあるような気がした。いいや、気のせいだろう、僕もあくびを一つすると、次の教科をしようと言った。
結局その日は共用語と数学を少し手伝い、家に帰った。夕食の時、父は昼間のことについて何も話さなかったし、僕も何も聞かなかった。
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