緑の丘に花咲く頃

淡嶺雲

第1話

 エリ・ブランシェは大きな町ではない。その名を聞いたことある人は多いかも知れない。しかし、どこにあるのかは殆どの人が知らない、そんな田舎の町だ。大昔は石英の鉱山で栄えたらしいが、今となってはそんな面影はない。太古の鉄砲水がつくった峡谷と、斜面に穿たれ、今は放棄された坑道、そしてその谷川を流れる遙か地底からの湧き水に頼ったジャガイモ畑。それがエリ・ブランシェの町だった。どこにでもありそうな、寂れた、田舎の町なのだ。

 だから、エリ・ブランシェへ引っ越すと父が僕に告げたとき、僕は地図を開かなければならなかった。そして、そこが南半球の、海もない、寒く乾いた土地だと知って愕然とした。夏の初め、僕は海で泳ぐのが好きだった。家がある首都アーモロートの海岸では、冬が終わって春になり、北極洋から流れてくる冷たい海水が、ユートピア海に流れ込み、蜃気楼が起こる。そして、だんだんと暖かくなって、魚座の月の頃には、海で泳げるようになる。

 でも、今年は海に行けなかった。引っ越しの準備が忙しかったし、それに、夏休みの宿題を提出してしまってから、転校したかったのだ。


 アーモロートから鉄道で十八時間、さらに最寄りの都市から、微睡みながら父と母の交代で運転する車に乗って赤茶けた荒野を渡ること四時間、エリ・ブランシェにたどり着いた。

 エリ・ブランシェはすでに涼しかった。車は一軒の家に入り、母はここが新しい家よ、と僕に告げた。へんてこな家だと僕は思った。玄関のドアが重くて厚い鋼鉄でできていたからだ。体重をかけないと開け閉めできない。家の中に入って、内装を見ると案外普通かと思ったが、その感想は窓ガラスを見て霧散した。窓ガラスもドアみたいに分厚く、しかも二重になっている。外側のガラスは磨りガラスだ。居間の窓だけかも知れないと思って家中の窓を見てみたけど、どれも皆同じだった。あまりいい趣味には思えなかった。どうして親はこんな家を選んだんだろうと不思議になった。

 母にはその姿がはしゃいでいるように見えたらしい。母は父にそう告げた。十四にもなって、と、父は溜息をついたあと、自分は今から市長の所へ行かなくてはけない、と言った。父は中央政府の役人だった。今回の引っ越しも政府の命令だ、と説明していた。僕はそれを聞いて、左遷かと思ってしまった。でも、父はその様な悲嘆を見せたりはしなかった。ただ、時折見た悩み込む姿を、僕は覚えている。

 父の外出に母もついて行ってしまうと、僕は一人で家にいるのもつまらないので、何か遊べる所はないかと思って、外に出た。

 道を歩きながら見回してみると、どうやらおかしいのは僕の家だけではなさそうだった。どこの家も、重たそうな金属製のドアと磨りガラスの窓なのだ。そうでなければ窓に外側から覆いをかけていたりする。不思議な町だ、と思った。そんなドアがいりそうなほど治安が悪くも見えない。それに、エリ・ブランシェの人々は人に見られるのをいやがるのだろうか。甚だ疑問だった。

砂を含んだ乾いた風がびゅうびゅうと吹き、アーモロートよりも二ヶ月くらい早く秋が来ているように感じられる。砂粒が舞っていて、時々目に入りそうになった。

 歩いているうちに町外れまで来てしまっていた。地面は礫に覆われている。鉱山跡が近いためだろう、その中には雲の合間から差す陽光をきらきらと反射して光っているものもあった。小石を蹴飛ばしながら進んでいくと、地面はなだらかな下り坂となった。次第に急になり、しまいには僕は谷底を流れる小川の川辺にいた。

 川の水は澄んでいて、いかにも冷たそうだった。川底にも水晶は散らばっているらしい、きらきらと水底が光っている。谷の斜面には至る所に大きな洞窟が見える。ここが聞く鉱山跡だろう、と僕は思った。

 石を一つ拾った。鉱山から掘り出したものだろう、ツルハシを使ったようにきれいに割れていた。それを僕は川に投げた。ポチャン、と水しぶきが立つ。

 ふと後ろで人の気配がした。振り返ると、そこに少女が立っていた。セーターを着て、スカートとニースソックスを穿き、茶色いストレートの髪。年は僕と同じくらい。

「見ない顔だけど、ここで何してるの?」

 少女は僕に問いかけた。茶色い瞳だった。

「ええと……いや、今日、この町に越してきて」

「へえ、そうなんだ」少女は吹く風に髪を揺らして歩み寄る「ねえ、町、気に入った?」

「何もないね」素直な感想だった。

「そう言うこと聞かれたら、嘘でも『いいところだよ』ってお世辞を言うところじゃないの」

 はあ、と溜息をつくようにして少女は足下の石を一つ拾い上げた。

「ここが何だか知ってる?」

「鉱山跡じゃないのかな、石英の」

「正解。知ってるじゃない」少女は石を差しだした。それには小さな六角柱の水晶が埋まっていた「ここは昔、石英鉱山の町だったの。この国一の産出量。でも、いまは寂れている。でも、私はこの町がすきだよ。この石もきれいでしょ」

 少し悪いことを言ってしまったかなと思った。僕は彼女に同意するように肯いた。

「何もないって言うのはごめん、謝るよ」僕は右手を出した「僕はベントだ。アーモロートから引っ越してきた」

 少女は僕の右手を握り返す。

「マリ。よろしくね」少女は完爾(にっこり)とした「アーモロートから? 凄く遠いね」

「父親の転勤でね。今年はこの引っ越しのせいで海にも行けなかったし。ここはもう飽秋の暮れだし、夏が無くなっちゃった感じだよ」

「それはお気の毒に」マリは笑ってそう言ったあと続けた「ねえ、海ってどんなところ? 行ったことないんだけれど。凄く広いのよね」

「うん、まあ、何て言うか」どう表現すればいいか分からなかった僕は、両手を広げてみた「これくらい、じゃないけど、とにかく広い」

「ふうん。毎年そこに行ってるの」

「うん、夏の海岸は、僕のとっておきだったよ」

 彼女は僕の言葉を聞いて少し考え込んだあと、何か思いついたように僕を見た。そして、白い歯を見せながら、僕に尋ねた。

「ねえ、私のとっておき、見たい?」

「君の?」

「うん。私だけの秘密の場所」

 僕は頷いた。

「じゃあ行こう!」

 マリは僕の手を取ると、川に沿って上流の方へと進んでいく。谷が狭まっている隘路を抜けると、そこには拓けた河原になっていた。数町に渡って平らな地面があり、斜面には、大きな洞窟があった。入り口は家一軒くらい入りそうなほどだった。百年前までは、主要な坑道として使われていたものだろう。

 少女は襷掛けにしていた鞄からランプを取り出した。

「少し暗くなるから足下に気をつけて」

 マリに先導されて、線路(昔鉱石を運ぶトロッコに使われていたのだろう)に沿いながら、洞窟の奥へとずんずんと進んでいく。次第に暗くなり、すぐランプの灯だけが頼りになった。地下から湧いて出た水が溜まったのかも知れない、足下でピチャピチャと音がする。上着を着ているのに、凄く寒い。

 十五分ほど歩いて、僕らは立ち止まった。

 彼女はランプをかざした。僕は息を呑んだ。大きな、一つの結晶が人間の腕ほどもある透明な水晶が、ランプの橙の灯に照らされている。それが、まるで羽のように扇形に連なっている。

 昔見た氷の彫刻の展覧会を思い出した。でも、あれはすぐ溶けてなくなってしまう。これは違う。永遠の時の中に氷が閉じ込められたように思われた。触ってみようかとも思ったが、溶けてしまうかも知れないと、ありそうもない不安が頭をよぎった。

「すごいでしょ」

「これは……」

「そんなに数は多くないんだけど、時々、こういうのが見つかるんだ。『天使の羽』っていうんだけど。たいていもっと濁ってたりするから白いんだ。それがこの町の名前の由来」

「これが君のとっておき?」

「うん。一つ目のね」薄明かりの中で彼女が微笑んだ。

「他にもあるの?」

 一つだけじゃつまんないでしょ、とマリは指を立てて言った。僕は十分この自然の芸術品に感動しているんだけど、しかし彼女はそれだけでは満足がいかないらしい。

 再び手を取ったマリは、さらに奥へと進む。暫くして線路がなくなった。

 行き止まりじゃないのか、と僕は尋ねてみたけど、彼女は微笑むだけで答えを呉れない。不意に彼女はランプを消した。僕は怪訝に思った。

 その時彼女の髪が僕の頬を撫でた。微かだが、風が吹いているようだ。よく見ると先の方に明かりが見えた。明かりはだんだんと近づいてくる。そしてすぐに、それが反対側の出口だと分かった。いや、出口というよりはもしかすると通気口として造られたものかもしれない。道はごつごつした上り坂、石の階段となった。光は、すぐそこから差し込んでいる。マリは、先に登っていく。

 穴を抜けて、僕らが空の光を仰いだのは、枯草に覆われた、小高い丘の麓だった。彼女は丘の上へと駆けだした「早くおいでよ」振り返り手を振りながら呼びかける。

 僕は彼女を追いかけて丘へ登る。てっぺんでは、彼女が髪をなびかせていた。いつの間にか日が傾いて、辺りの空気は紅を帯び始めていた。

 僕が追いつくと、彼女は西の方を指さした。僕が視線を投げかけると、一望のうちにエリ・ブランシェの町をおさめていた。町の中心の広場には、教会の尖塔が長い影を落としている。

「ここもいいでしょ」彼女はにっこりと笑った。

 凄くきれいな眺めだった。北に目をやると、遙か彼方に山が見えた。タルシス山脈だろうか、と僕は思った。そして、その山の頂き近くに、茶色い靄が見えた。マリは眼を細めた。

「秋の嵐ね」彼女は言った「今年は少し早いみたい。いつもは牡牛座の月の初めに来るのに……まだ牡羊座の月の半ば」

「秋の嵐?」僕は聞き返す。

「そう。秋の終わりにやってくる嵐。アルカディア海から吹く風はタルシス山脈を越えるうちに乾いて冷たくなって、砂を巻き上げてやってくるの。早く砂戸を閉めなくちゃ」

 なるほど、と思った。窓に付いていた飾り、あれは砂戸というのか。磨りガラスが多いのも合点がいった。風は砂を少なからず含んでいる。それがガラスを削るのだ。

「秋の嵐は強烈だよ。一週間は家から出れない。ほら、ここにある枯草も、みんな飛んでいっちゃう。そしてそのあとに来るのが長い冬」

「それは憂鬱だな」

「うん。でも、その分春が楽しみになる」彼女は両手を広げた「嵐は砂だけじゃない。枯草を土の中に埋めるんだ。それは肥料になる。そして春の嵐が砂を吹き飛ばし、雨が降ると、この丘も、緑に覆われる。花が大地に咲くんだ」

 彼女はくるりと回り、微笑みを僕の方に向けた。

「言うじゃない、冬来たりなば、春遠からじ、って」

 僕は肯いた。

 次第に辺りは暗くなり、空は紅から濃紺に染まりつつあった。僕らは丘を降り、今度は空の下を、町へと帰っていった。


 家に帰ると、すでに両親は帰宅していた。どこへ行っていたのか聞かれて、ただ散歩していたとだけ答えた。僕は自分の新しい部屋にはいり、室内を見回した。机と椅子とベッド、あとは引っ越しの荷物が入った箱が積まれていた。僕はベッドに腰を下ろすと、ポケットに手を突っ込んだ。中には、川辺でもらった石が入っていた。


 数日のうちに秋の嵐はやってきた。空は殆ど真っ暗になって、風は強く吹きすさび、家の中に閉じこもって、砂戸に吹き付ける砂の音を聞いていた。

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