第11話 地上1F→地上12F

 タカラがボトルの中の栄養液を花壇に流し、ぴたりと動きを止めた三秒後、左右の手のひらをぴたりとつけて目を閉じた。その五秒後、空になったボトルに水を入れて私とトウヤの元に戻ってくる。タカラはトウヤを見て、私を見て、一度頭部を上下に運動させた。

「よし、行こっか!」

「了解した」

 トウヤを先頭に、タカラが続き、その後を私が歩く。

 塔の外周に沿ってしばらく進み、塔の正面ゲートの前でトウヤとタカラが停止する。タカラは何も指示を出さなかったが、私も停止した。

「……この中ってさ、武装パーツ、いないの?」

 正面ゲートを見てから、タカラがトウヤを見上げる。トウヤはタカラを見下ろして言う。

「いないわけではないが、地下ほど数はいない」

「そうなの?」

「武装パーツの巡回コースは主に地下部分だ」

「ふぅん……? まあ、いても逃げるだけなんだけどさ。非戦闘員、三人中二人だもんね。賭けにすらなんないわ」

 タカラが私とトウヤを置いて、正面ゲートから塔内部に入る。タカラは何も指示を出さなかったが、トウヤはタカラの後についていった。私も数秒遅れて、タカラとトウヤの後を行く。

 指示はなかった。けれど、トウヤは動くし、私も動く。タカラはそれについて何を正そうともしない。

 パーツは、外部、つまりマザーからの指示を受け、その指示に沿って行動する。そういうものだと認識している。それが正しいパーツの行動だ。

 タカラからの指示なしに行動する今の私とトウヤはその認識から外れてしまっている。タカラはそこに何も異常はないかのように振る舞う。

 それは……それは、どういう事なのか。

 長く教えられた正しい行動とは違う動き方をするパーツを、私を、私はどう捉えたらいいのだろうか。

「うおぅ……!?」

 前を行くタカラが動きを止め、大きな音を上げた。私はタカラの後ろで止まった。トウヤも私同様の動きをしたが、数秒経過した後に数歩前方に進み、タカラと並んだ。

「どうした」

「いや、どうしたって……」

 タカラの声が聞こえるが、顔はトウヤに向けられていない。

「建物の中までプランターでいっぱいだとは思わなかったわ……せいぜい地下みたいな標本ちっくな感じかと……」

 トウヤの首が斜めに傾く。

「うん、分かってる。トウヤ達にはこれが普通なんだろうね。でもこれ普通違うからね! ぜんっぜん普通じゃないからね!」

「……そう、か」

 そうか。トウヤと同じ言葉を、私も口の中で繰り返す。

 頭部を動かして、内部の様子を観察する。

 清掃の行き届いた通路を歩くパーツの姿がある。……私と同じ種類のパーツの姿は見受けられない。

 塔の地上部分へ立ち入るのは、これが初めてではない。一定期間に一度、塔の内部にある検査スペースで素体の状態チェックを受ける。チェックを受けた後は、塔の外にある休眠スペースに移り、一定時間の休眠を取り、その後活動を再開する。

 通路を縁取るように設置されているのは、花を植えたプランターだ。私から見えるだけでも、違う形状の花が十種類近くある。色彩の差異もあるだろうが、ゴーグルは色彩情報を認識しない。床に設置されているものだけではない。横に垂直に立つ壁、左右それぞれにも花が設置されている。壁に取り付けられた突起に頑丈な紐を引っ掛け、円形の小さなプランターが吊り下がっている。

 これまでの記憶と何も変わらない、異常など何もない、塔の内部だ。

 しかし、タカラにはこれが、異常がないものには見えないらしい。

「……まあいいや。ぶっちゃけ建物の中にどんだけ花が飾られてようがわたしには関係ないし。んじゃトウヤ、上に行く方法は?」

「……階段」

「……ですよねー。今度こそそれしかないよねー」

 正面ゲートから直進した先にあるエレベーターおよび階段を内包する巨大な円柱。それに顔を向けて、タカラは音を立てて息を吐き出した。同時に、頭部と両肩の位置が下がる。しかし、タカラは二秒もしないうちに元に戻った。

「うっし。じゃ、追っ手が来ないうちにさくさく行きますかー!」

 タカラが歩き出した。トウヤも歩き出した。私も、数秒遅れて、タカラとトウヤの後を追った。

 コツ、コツ、コツ。タカラが立てる一定間隔の足音。カツ、カツ、カツ。私とトウヤが立てる音が混ざった不規則な足音。私とトウヤの足音は、多少違いはあるような気がするが、何が違うのかまでは分からない。

 塔を貫くように存在する太い円柱の内部、エレベーター部に巻き付くように設置されている階段。左右を壁で仕切られている細長く湾曲している空間にただひたすらに三種類の足音だけが響く。

 四フロアまで進んだあたりで、タカラの呼気音がそれまでより音量を上げている事に気づいた。よくよく見てみれば、脚の動作が鈍化し、浮かした足が階段につく際に鳴る音も不規則化している。トウヤを見る。トウヤの肩部は呼吸活動と連動して大きな上下運動を繰り返し、私の視線の先で階段とつま先が衝突し、素体上半分が前方へと傾いた。

「え、ちょ、トウヤ!?」

 タカラがトウヤを向き、階段を上るという行動が中断された。

「……問題ない」

「ないわけあるかこのバカちん!」

 タカラの手のひらが横合いからトウヤの頭部に打撃を加えた。トウヤの素体が力の流れのまま横に傾ぐ。トウヤが右の膝を階段に乗せたのを見てから、タカラが長く呼気を吐き出した。

「……よし、ちょっと休憩しよ」

「……問題ない」

「シャラップ! あ、いや、通じないか。とりあえず、問題ないようには見えない、ちーっとも見えない。下手したらわたしより体力ないんじゃないの、アンタ」

 タカラはトウヤから視線を外し、階段に臀部を載せた。『座る』という行為だ。通常は椅子に対して取る行動だが、階段に対しても可能なようだ。

「ほれ、座った座った。あんまりのんびりはできないんだから、とっとと脚休めるよ」

 座れ。指示を受けたので、私も階段に座った。数秒遅れて、トウヤも階段に座った。

 ……トウヤが私の後にタカラの指示に従う。先ほどまでとは逆の順序。ふと、胸部に熱いものが接触したような気がして視線を下ろしてみたが、胸部に触れるものは何もない。喉に熱いものがせり上がってくるような感覚もあるが、手で触れて確認しても、異常はない。

「シイナ、喉渇いた?」

 タカラが私に問いかけた。『喉が渇いたのか』。喉の内部がはりつく感覚があるか確認してみたが、そういった類ではなかった。

 私は答える。

「……渇いていない」

「そう? でも、水分はこまめに補給しときなよ。で、トウヤは飲め。水分摂れ。トウヤが一番体大きいんだから、倒れられたりしたら運ぶの大変じゃん」

 タカラは途中でくるりと顔の方向を変更した。途中までは私への指示で、途中からはトウヤへの指示だ。

 指示を出すタカラも、背負っていた荷物を膝の上に載せ、ボトルを取り出してフタを外して口元へ運び、ストローを唇で挟んだ。ちゅう、という音は三秒にも満たないうちに止んだ。タカラはボトルのフタを閉め、再度荷物入れの中にしまう。

「……それだけでいいのか」

「うん。喉が潤えばいいからね」

 トウヤの問い掛けにタカラが答えた。トウヤは五秒ほど手元のボトルを見てからストローに口を付けた。そして、タカラ同様、三秒程度で口を離した。

 タカラはその素体の脚部に両手を伸ばし、大腿部を揉み出した。

「……何をしている」

「筋肉ほぐしてんの」

「『キンニク』……」

「……なるほど、こういう事は知らないのか。んー……さすがに、わたしがやるわけにはいかんよね、逆セクハラっぽい。……トウヤ、こう、真似してみて」

 タカラが右の大腿部を両手で揉みながら指示した。トウヤは「了解した」と応えてタカラの動きを追いかけた。私も同じ行動をした。タカラから私への指示はなかったが。タカラはそれを止める事も正す事もなかった。

「わたし達の体が動くって事は、体の中にある筋肉が動いてるって事でね。えーっと……筋肉が伸びたり縮んだりしてるわけなんだけど……トウヤって、普段あんまり階段使ったりしないの?」

「……階段は使う。しかし、階段の昇降も含め、これほど長時間連続で稼動を続けたのは初めてだ」

「あ、そゆ事……走ったりもしたし、余計疲れ溜まったのかな。えっとね、普段あんまり動かしてない筋肉って、柔軟性も耐久力もないんだよ。だから、慣れない事するとガッチガチになっちゃったりするんだけど……頻繁に休憩したり、こうやってほぐしたりする事で、またそれなりに動くようになるからね」

「……『磨耗する』という事か」

「……違う。なんか違うけど、もういいよ、今はそれで。わたしも専門家ってわけじゃないし。そもそも本当はこういう風に適当にほぐしたりすんのよくなかったような……。うん、まあなんとかなるだろ」

 タカラの両手が左大腿部に移動し、揉み始めた。私とトウヤもそれに続く。

「してはいけない事なのか」

「自分以外にはしないほうがいいかもねーって話。ちゃんとした訓練積んでないと、後で余計辛くなるって聞いた事ある気がするんだよね。でもま、自分の体なら自分の責任だし。脚くらい問題ないよ、多分。むしろ筋肉痛が怖いね!」

「『キンニクツウ』とはなんだ」

「続きは次回! ……うん、トウヤはなりそうだしね。言葉で説明するより体験するほうが理解早いだろうし。……おーし、そろそろいいかな」

 タカラが大腿部から完全に手を離した。私とトウヤも大腿部を解放した。

「トウヤ、動けそう?」

「……問題ない」

「ほんとに?」

 トウヤが立ち上がり、一段高いところに座るタカラを見下ろした。

「行こう」

「……お、おお」

 タカラが目を丸く変化させ、十秒ほど一段高いところにいるトウヤを見上げる。

 タカラは目の大きさを通常に戻し、肩先の位置をほんの数ミリ下げた。唇の両端は緩く上方を向いている。

 タカラは立ち上がって、私を見た。

「シイナ、行ける?」

「問題ない」

「そんじゃしゅっぱーつ! ……あ、トウヤ、また脚が重いと思ったらちゃんと言いなよ! 休憩とるから。シイナもね」

「了解した」

 私は立ち上がり、階段を上るという行為を再開したタカラとトウヤの後ろを歩く。

 数段進んだところで、タカラが私を振り返った。

「ていうか、シイナが一番平気そうだよね……若さか、若さなのか……」

「タカラ、『ワカサ』とは何だ」

「え、えーっと……トウヤたちからしてみると、『新しい』って事かな……」

「……たしかにシイナは新しい」

「だよね。そういえばシイナっていくつなの?」

「…………」

 ……『イクツなのか』。……何の事だ。問いである事はわかるが、問われている内容を把握できず、答える事ができない。

「タカラ、『イクツ』とは何だ」

 トウヤがタカラに問う。タカラの視線が私からトウヤへと移動する。

「おっと……ここじゃそういう表現ないのか。んっと、生まれてから何年経ってるかって事なんだけど」

「……『ウマレテ』とは何だ」

「そこー!?」

 タカラの脚が一時停止し、トウヤを振り返る。しかし、すぐに前方に向かい、活動を再開する。

「え、えー……ちょ、これはなんて説明すべき? ん、とー……パーツ、パーツだから……『作られる』……?」

「『生産』という事か?」

「……うん、きっとそんなかんじー」

「シイナは生産から一年と三ヶ月だ」

「へえー、一年……ん? 一年? 一年ん!?」

「どうした」

「いや、どーしたもこーしたも、おかしーだろ! どっからどう見ても十歳くらいじゃん! どうしたら一年でここまで成長するわけ!?」

「パーツ生産方法の詳細は知らない。パーツはカプセルで稼働可能な状態になるまで置かれる。その期間が最低一年。その間に必要な情報も叩きこまれる」

「……つまり、そのカプセルとやらに入る初期は胎児みたいなもんで、一年の間に無理やり成長を促進させるってわけ……? ありえん……ホントなんなのこの国……。――ん? ちょっと待て、じゃあトウヤは?」

「生産から八年と七カ月経過している」

「……一歳に八歳? 冗談キツイわ……」

 タカラが右手で頭部横を押さえる。

「……タカラは……」

「ん?」

「……タカラは、イクツ、だ」

「わたし? ああ……わたしは十六歳よー」

 トウヤが問いかけて、タカラが答えた。

 生産からの経過年数は『サイ』という単位で数えるらしい。質問の際には「イクツか」と聞くらしい。私が本稼働に入ったのは三ヶ月前だが、それまで一年、カプセルで必要な知識を学習してきた。合計、一年と三ヶ月。

 タカラは十五年、トウヤは七年、私より長く稼働しているということになるらしい。

「……そういやなんでトウヤ、シイナがいくつか知ってんの? 前からの知り合い……な、わけないわな」

「識別番号から分かる。三ヶ月前にカプセルから出て役務についた武装パーツ群の範囲内だった」

「……そんなん把握してるお前が怖いわ……」

 タカラとトウヤを、私は後から追いかけて行く。

 途中、八フロア目を過ぎたあたりでトウヤがタカラに疲労を伝えた事により再び短い休息を取り、十二フロアの通路に出た。下層のフロアにはパーツの行き来があったが、このフロアには他のパーツの姿はない。

 塔の十二フロア目には、初めて来た。このフロアも下層フロア同様、塔の中心部を縁取る花を植えたプランターが整列し、反対側には色のないガラスがはめこまれている。その向こうには下層フロアの天井を利用した花壇が見え、更に奥にはこの国を覆う巨大な壁がある。

「うな?」

 タカラが首の角度を変えた。

「トウヤ、ここ何のフロア?」

「何もない」

「……はあ?」

「このフロアに施設はない。下層のフロアには開発スペースおよび検査スペースを設置しているが、このフロアは花を育てるためのスペースとして利用されているのみだ」

 トウヤの回答を聞き、タカラは眉を下向きに湾曲させ、緩く握った拳の人差し指の間接を顎に押し当てた。

「……ごめん、ちょっと一周してもいい?」

「了解した」

 タカラの提案に従い、このフロアを一周する。所要時間は三分。元の位置に戻り、タカラは再び首の角度を変えた。

「どうした、タカラ」

「いや、どーもこーもって感じですよ……。トウヤ、ここは何フロア目?」

「十二だ」

「塔の地上部分は何階建て?」

「十三だ」

「……おかしいと思わない?」

「何がだ」

「思わないんかい!」

 タカラが音量を上げた。

「塔の地上部分は十三階建てなんでしょ!? ここは十二階! じゃあなんで階段がここで途切れてんでしょーか!?」

 トウヤが中心部を見た。それから、先ほどタカラがしたように首を緩く傾ける。

「……何故だ」

 タカラが頭部と肩先の高度を大幅に下げた。

「わたしもそれが知りたいよ……。水路は十三階から伸びてるんだよね?」

「そうだ」

「んー……」

 タカラは顔を上げ、数秒停止した後にガラス張りの壁に向かっていった。

「これ開く?」

「……開閉はマザーが管理している」

「ってことは、開けられないのか……。この外に、上に登るためのはしごがある、なんて事はあり得る?」

「……私は知らない」

「そっかあ……」

 タカラがガラスに背を押しつけた。

「あーもう……こんなところで手詰まりとか予想外! なんで階段ないんだよ、エレベーター乗れってか?」

「……いや」

「ん?」

「エレベーターも地上十二フロア目までしか通じていない」

 タカラは黙った。黙って、ガラス壁にもたれかかり、顔を天井へと向けた。ゴツ、と音がしたのは、おそらくタカラの頭部がガラスにぶつかったためだ。

「……階段もエレベーターもこの十二階までしかない、って事?」

「そのはずだ」

「でも、もう一個上のフロアがあるんだよね」

「……そのはずだ」

 タカラの問いに答えるトウヤの声量が、少し小さくなった。

「……となると、《あれ》がなんなのかとっても気になるところですねー」

「……《アレ》?」

「《あれ》」

 タカラが顔の向きを固定したまま、右手の指を天井に向けた。私とトウヤがその指の先を黙って辿る。

 天井には小さなくぼみがあった。そのくぼみの中に取っ手が見える。

「……取っ手に見える」

「安心しろ、わたしもだ」

「……引っ張ればいいのか」

「そんな感じっぽい? でも、わたしらじゃ背丈足んないな……三段肩車とかしたら、もしかしたらいけないかなあ……」

「シイナならできるだろう」

「え?」

 タカラが顔をトウヤに向けた。次にその顔は私に向けられ、その後再度トウヤを向く。

「……シイナ、わたしよりちっちゃいよ?」

「だが、シイナは武装パーツだ」

 私はタカラが発見した天井の取っ手を見上げた。次にその顔が私に向けられる。

「……シイナ、あれ、届く?」

 タカラの問いかけだ。私はタカラを見た。

 タカラは、あの取っ手を引っ張りたい。私にそれを望んでいる。

 私は口を開く。

「届く」

 タカラの口が再度開く前に、私は跳んだ。数十センチ先に迫った取っ手に向かって右手を伸ばす。一秒も経過しないうちに右手は取っ手に届き、そこを起点に私の素体が天井からつり下がる。素体が上昇した反動から下方へと落ちる力と私が右腕を引く力により、取っ手も私と一緒に下へと落ちる。

 数秒後、がくん、と落下が止まる。ほんの少し素体が上下に揺れた。縦揺れがほぼ収まった段階で、私の視線の高さはトウヤより少し高いくらいになっていた。足下に床は存在しない。

 視線の先で、タカラが目と口を大きく開く。

「……何ですかそのデタラメなジャンプ力!?」

「シイナは武装パーツだから」

「それで説明ついちゃうの!?」

「武装パーツとして生産されるのだから、他のパーツより素体の運動能力が優れているのは当然だ」

「だからってこれはないよ!?」

 その直後、タカラはしゃがみ込んで頭部に両手を添えた。「いやこれがこの国のジョウシキなのか」「でもあれは軽くチョウジンだったぞ」などといった内容を小さな声で言っている。どういう事なのかは分からない。

 天井を見上げると、取っ手があったくぼみの奥から頑丈そうで太い紐のようなものが私の手で握っている取っ手に向かって伸びている。長さの限界らしく、ひもはそれ以上伸びる事はなく、私の素体は前後左右に揺れたり回ったりする。

 エレベーターよりも小さな駆動音が鳴り出し、天井のくぼみから数センチ離れた位置に正方形の孔が開き、そこから階段が降りてきた。塔内部の階段のような頑丈な作りではなく、急傾斜に伸びる左右の細い鉄製の仕切りの間に、平たい鉄製の板を一定間隔で挟んである、階段というよりははしごと表現できそうなものだ。

 現れたそれを、タカラはしばらく口を開かずに眺めた。目線を上へ下へと三往復させてから立ち上がり、隣に立つトウヤと、天井と頑丈な紐で繋がっている私を見た。

「……とりあえず、行ってみよっか」

 指示を耳に入れ、私は下へと引っ張り下ろした取っ手から手を離して床へと着地した。

 顔を上げると、いつの間にかすぐ目の前にタカラが立っていた。あの階段を上るのではなかったのだろうか。

 タカラの右手が私の頭部に向けて伸ばされ、その指が私の毛髪を前後に撫でつけた。

 目を少しばかり細くして、唇は両端が上向きになり、緩い弧になっている。

「ありがとね、シイナ」

 タカラの顔を見て、胸部をとん、と内側から叩かれたような感覚が湧き出てきた。

 初めて感じたものに、私の首が勝手に傾いた。タカラの手が私の頭部を離れ、胸部が縮こまるような感覚がわき出てきた。

「シイナ? どうかした? もしかして頭撫でられるの嫌だった?」

「……『イヤ』……」

「ぎゃっ、嫌だったの!? ごめんね、もうしないから!」

 しない。タカラが、私の頭部に触れない。もう。触れない。タカラが。

 私と距離を取るタカラの手を、私の右手が捕らえた。タカラの目が丸くなる。

「シ、シイナ……?」

「私、は……」

 手に力がこもる。言葉を吐き出したいのに、吐き出したい言葉が分からない。何故タカラの手を掴んだのかも分からない。

 分からない事が多すぎて、動き方がわからない。こんな事は初めてだ。こんな時どうすればいいのかなんて情報、私の中に存在しない。

「……分からない」

「シイナ?」

「タカラ、分からない」

「…………えっと?」

「私は、どうすればいい。どう動けばいい。タカラは、知っているのか」

「……や、知らない、と思う」

 タカラの返答を聞き、右手から力が抜ける。素体から空気が抜けていく。

 タカラも、知らないのか。では、私はどうしたらいいのだろうか。

「うーんと……シイナ、この手はどうしてわたしの手を掴んでるの?」

 動きを止めるしかない私の頭上に、タカラの声が落ちてくる。

 タカラは私が掴んだままの右手の高度を上げた。私はそれを五秒ほど見つめた。それだけの時間を費やしても答えられる言葉は変わらなかった。

「……分からない」

「ほうほう……。ってことは無意識か。ふーん……にゃるほどねー」

 タカラが意味のわからない言葉ばかり発するのを黙って聞く。見上げる私に、タカラが目を閉じて唇を下向きに湾曲させた顔を向けてきた。また、胸部を内側から叩かれる。

「なら、それが答えだよ、シイナ」

 重なっている二つの手を見る。タカラの手は、私の手より一回りほど大きい。

 これが、こたえ。

「んふふふー……ていやっ」

「っ……」

 タカラの空いていた左手が突如私の頭部に伸ばされ、毛髪をかき混ぜるように撫で回す。タカラの手に力はこもっていない。私は動かず、ただタカラの行動に任せた。

「シイナは今、わたしに頭をわっしゃわっしゃと撫でられているわけだけど。体が動くに任せてみてくれない?」

「……よく、分からない」

「んー、そっかそっか。じゃあとりあえず嫌ではないんだね」

「……そうなるのか」

「そうなるのだ!」

 タカラの左手が私の頭部を離れる。思わず左腕が宙に浮く。タカラの左手が弱々しく私の頭部を叩いた。

「ていうか、『好き』なのかな」

「……『スキ』……」

「こうやってわたしの手を捕まえてるって事は、そういう事なんだと思うけど」

 掴んだままのタカラの手を見る。その手を離したら、この先タカラの手は私に触れる事がなくなるのではないか、という言葉が流れた途端、私の手が勝手に動いた結果。

「……タカラ」

「ん?」

「……これからも、私に触れるか」

「おう! ……あ、シイナが嫌でなければって前提つきだけどね」

 タカラはこれから先も、私に触れる。この手を離しても、触れるのか。

 言葉が素体の内部を満たす。腕部や肩部から力が抜ける。私の右手はタカラの左手を解放した。

「……タカラ」

「ん?」

「……私は、分からない事ばかりだ。分からない事ばかりがどんどん増えていく。それをどうすればいいのかも、分からない」

「うん、そっか。まあ分かんない事があったらとりあえず聞いてよ。答えられる範囲で答えるし、わたしにも分かんない事だったら一緒に答えを探すからさ」

「……了解した」

 分からなくても、問題ない。タカラがいれば。タカラが答えてくれる。探してくれる。

 今度は、タカラの右手が私の左手を取った。タカラが十三階へと続くはずの階段に向かって歩き出す。私もそれに続く。階段の傍らにはトウヤが直立して、私とタカラを見ている。

「シイナ、そんな感じでもっとしゃべってよ。シイナがしゃべったらしゃべっただけ、わたしはシイナを知る事ができるから」

「……タカラと話したら、私はタカラを知る事ができるか」

「……えーと、うん、たぶんね。ていうかわたし、そんなに得体が知れないのか……しょうがないのは分かるけど、何だかなあ……」

 タカラはよく分からない言葉を小さく声に出しながら歩く。私の手を取ったまま歩く。

 階段まで辿り着くと、トウヤが口を開いた。

「タカラ」

「うん?」

「『アリガトネ』とは何だ」

「え? えーっと……ほら、ちょっと前に言ったよね、『ありがとう』って。あれをちょっと崩した感じ、かな。親しい相手に向けて言うような。『ありがとうございます』って言うと丁寧な感じになるんだよ。そうだな、これ覚えておいて損はないと思う」

「……タカラ」

「うん?」

「…………」

 トウヤの右手がタカラの左手を握った。トウヤの手はタカラの手より大きく、タカラの手がトウヤの手の中におさまる。

「ト、トウヤ……?」

 タカラが首を傾けながらトウヤを呼んだ。

 トウヤは十秒ほどタカラを見下ろして、タカラの手を解放した。トウヤはタカラと私に背中を向けて、カンカンと音を立ててはしごによく似た階段を上っていく。

 トウヤはどうしたのだろう。私には分からない。遠くなる後ろ姿を見上げながら首が少し傾いた。

 タカラが私を見た。

「な、何だったんだろう……」

 タカラにも分からないらしい。

「分からない」

 私は答えた。

 タカラも分からないが、トウヤも分からない事が多い。

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