#2 ~ cybernetics ~


質問:

 ぼくはゲームが大好きです。

 大きくなったらゲームの仕事をしたいと思っています。

 けれど、ちいさなゲームの会社で働いている、知り合いのお兄ちゃんにきいたところ、ゲームを作るときのリーダーであるディレクターというひとはネットで叩かれ、デザイナーは安月給、プログラマーはこきつかわれると、そんな風に言っていました。

 絶望にうちひしがれたようなお兄ちゃんの顔を見て、ゲームの仕事なんてやるべきじゃないんだろうかとも思いました。

 かなしいです。

 でも、この前テレビで見たんです。ゲーム業界では、いま、データサイエンティストという仕事のひとが、もてはやされてるって。そこでお母さんがチャンネルを変えてしまい、詳しくはわからなかったので、すごく気になってます。

 このデータサイエンティストという仕事は、いったいどういう仕事なのでしょうか。どうやったらなることができるのでしょうか。(ゆうた)


「ふむ」

 薄暗い部屋、煌々と光るタブレットパソコンの画面。

 私はベッドの上で横になりながら、その質問文をじっと眺めていた。

 有名な質問サイトに投稿されているもので、まだ誰も返事をしていない。

 私は少し考えてから、画面をタッチする。

 そのまま、すっ、すっと、すべらせながら、文字を入力し始めた。


回答:

 ゆうた君、こんにちは。

 良いところに目をつけましたね。

 データサイエンティストとは、コンピュータを活用して、あまりにも多すぎて人間がパッとは読み取れないような量の情報を、科学的に分析することで、様々なことに役立てようとする人のことを言います。

 まさに、情報(データ)についての科学者(サイエンティスト)なのです。

 彼らはゲームの会社だけでなく、様々な会社で働いています。

 例えば、ネットショッピングをしたときの情報や、買い物でポイントカードを使ったときの情報、はたまた、ある人がインターネットでどのようなページを見たかという情報。さらには掲示板やツイッターへの投稿文などなど、インターネットが普及したことで、多くの人に関する莫大な量の情報が、関連する会社のコンピュータの中に保管されています。その情報を眠らせておくだけではなく、分析をして、世間の流行を調べたり、お勧め商品の情報をお客さんに提供したりするのです。

 データサイエンティストは、今、世界的に注目されている職業でもあります。目指すのであれば、算数や数学、コンピュータの仕組みやプログラミングをきちんと勉強する必要があります。また世の中のビジネスについて広く知っておくことも大事ですので、新聞に目を通す習慣をつけると良いですよ。

 また、ゆうた君が見たテレビで言っていた通り、ゲーム業界においても、データサイエンティストは重宝され始めています。

 基本的なプレイは無料でアイテムを購入させるという、いわゆる課金型のゲームを運営する会社は、ビジネスとして「いかにプレイヤーにジャブジャブとお金を支払わさせるか」ということが重要になります。

 データサイエンティストは、プレイヤーの課金の傾向をはじめとした、ゲーム内の様々な情報を分析した上で、ゲームのデザインや細かいパラメータを修正するなどして、プレイヤーの射幸心を最大限にあおることを目的とするのです。それはつまり、プレイヤーを楽しませるというよりは――


「……うん、これはちょっと大人げないな」

 私はそこでいったん入力を止めた。

 別にゲーム業界に恨みがあるわけではないし、そもそも私はゲームをあまりやらないから、いかに射幸心をあおろうが、借金までして課金した人間が破産に追い込まれようが、正直、興味はない。まあ可哀想だとは思うけど、基本的には自業自得だろうし。

 とはいえ、ゆうた君の夢を壊すようなことを言う必要もないだろう。

 私はタブレットパソコンに手を置くと、操作を再開して回答文を書き換え始める。

 タッチスクリーン上で指などをすべらせて文字を入力するいわゆるフリック入力と呼ばれる方法。パソコンのキーボード操作が苦手な私でも、すいすいと入力できるから、とても楽しい。

 回答文の特に後半部をマイルドな表現に書きなおして、じっくりと見直してから、私は、えいっ、と【送信】ボタンをタッチした。

 画面が切り替わり、ゆうた君の質問文の下に、私が書いた文章が表示された。

 うんうん、私の答えがきっかけで、将来、彼が本当にデータサイエンティストになってくれたら嬉しいなあ、と。

 そんなことを思いながら、画面上の【ユーザー情報】をタッチする。

 私が今までに回答した質問の見出しがずらっと並び、右上には、私が持っているコインの枚数が表示されていた。

 この質問サイトでは、投稿した回答が「適切である」と評価された場合に、コインがもらえる。私はすでにかなりの枚数のコインをもらっているけれど、別に換金できたりとか、そういった現実的な特典は一切ない。

 けれどまあ、何か、嬉しい。

 夜な夜な、こうやって色々な質問に答えているのは、単にコインが増えていくのが嬉しいからだ。

 変な趣味? 

 かも知れないけど、たぶん間違った回答はしてないだろうから、質問した人にも、それ以外の人にも迷惑になることはないだろうし、人助けだと思えば……


『――まだ、起きているのか? 鈴音』


 部屋の外から声がかけられた。

 おっと、と、私は急いでタブレットパソコンを毛布の下に隠すと、ぽすんと、枕に頭を乗せて、眠っているふりをした。

 私自身、変な趣味だと思ってはないけれど、やっぱり、まあ、愛しきマイダーリンに知られたくはない。

 明かりは点けず、薄暗いまま、誰かが部屋に入ってくるのを感じる。

 片目をちらりと開けると、男性の人影。

 私が寝ているベッドに近づいてきたので、私は再び目を閉じた。

 その男性――マイダーリンであるところのテツヤさんは、私を起こさないように、それでもそっと、その大きくて柔らかい手で、私の頬を触ってくれた。

 鼓動の高鳴りを感じながら、私は眠ったふりを続ける。

 そのまましばらく、優しく撫でてくれた後、テツヤさんは部屋を出ていった。

 ベッドの上、思わず顔をにやけさせる私。

 ああ、私、すごい幸せなんだなあと。

 心底そんなことを思いながらも、ふわぁ、と、ひとつアクビをして。

 私はそのまま眠りに落ちる。


 ――まどろむ私の頭の中、ぐるぐると情報が回り続ける。

 私自身が把握できないほどの量。

 散らばったおもちゃを、おもちゃ箱にしまっていくかのように。

 どっさりと買ってきた本を、本棚に並べていくかのように。

 まき散らされ、暴れ出しそうな情報たちが、次から次へと整理されていく。

 そんな感じの夢を、見た。

 

 そして翌朝。

 じゃ、行ってくるよ――と。

 テツヤさんが仕事に出かけるのを、玄関で見送った。

 私はリビングに戻る。

 広い部屋、朝日を浴びる柔らかいソファーの上で、しばらくぼんやりと過ごす。

 テツヤさんとは、だいぶ前から、この家で一緒に暮らしている。

 できることなら私も働いて、自分の生活費くらいは稼ぎたいのだけど。

 テツヤさんはお給料のよい大企業に勤めていて、金銭的にはかなり余裕がある上に、私自身、昔から身体が弱くて病気がちであるため、平日はこうやってのんびりと家の中で過ごすことが多い。

 とはいえ、一日中ダラダラと過ごしているわけでもない。

 テツヤさんには内緒で、色々と内職をしていたりするのだ。

 今日はそのひとつ――名付けて、ブログで、自撮りで、アフェリエイト大作戦。

 まあ、そのまんまのネーミングだけど。

 私は、昨日使っていたタブレットパソコンを引っ張りだしてきて、机の上に立てかける。そしてその正面で、モデルばりに色々なポーズを決めて、セルフタイマー機能で何枚も自分の写真を撮った。

 そして、自分なりに良いと思う写真を選んでから、文章を添えてブログにアップロードする。

 しばらく待つ。

 すると、早々にコメントをつけてくれる人たちがいた。


【きゃー、かわいいー】

【いつ見ても、吸い込まれるような綺麗な目ですね、うらやましい】

【ベルさんの書かれた文章を読むと、ほんわかとします】


 ふふふ、と、ほくそ笑む私。

 ベルさんというのは私のハンドルネーム。もちろん鈴音という名前からの連想。

 なお、別に、せくしぃな写真を載せているわけではない。

 ポートレイト的な普通の写真で、書いた文章も、本当に些細な日常的な内容。

 それでも何か、変にウケてしまったらしく、結構の数の人が訪れてくれる。

 私が本当に可愛いかどうかは、自信があったり、なかったりだけど。

 まあ、写真は画像編集アプリで、少しばかり加工していたりする。

 だからテツヤさんにばれることもないだろう。

 そもそもテツヤさんも、私と一緒の写真をよくSNSにアップロードしてたりするので、別にばれたところで、怒られたり、嫉妬されたり、なんてことはないと思う。

 私はお礼のコメントをつけて、このブログを見てくれているすべての人に感謝しながら――アクセス数を確認した。

 ブログに貼ってある広告を見てもらうだけでお金が入る仕組み。

 決して大きな額ではないけれど、それでも私の食費くらいは稼げていた。

 私はこの収入をコンビニで利用できるポイントに変換して、こっそりとテツヤさんのポイントカードに移し替えている。テツヤさんはカードの残高をきちんと管理していないらしく、今のところ気付かれていない模様。

 変な気のつかい方だと、自分でもわかってはいるけれど、少しでもテツヤさんのためになれば、私は幸せなのだ、うんうん。

 と、私はタブレットパソコンの電源を切った。

 指紋認証機能でアカウント管理をしているから、テツヤさんでも、こうやって私が作ったブログの文章や写真、あと質問サイトへの書き込み履歴なんかを覗くことはできない。

「さてと、ひと仕事終わったし、でかけようかな」

 家の中で引きこもっていても身体に悪い。

 天気も良いし、近くにある公園でひなたぼっこでもしよう。

 私はささっと身支度を整えると、外に出る。

 センサー付きのドアで、鍵は勝手にしまった。

 空は水色。春先の暖かい空気がとても心地よい。

 この時間、公園には近くの保育園に通う子供たちが、保母さんに連れられて遊びに来ていることが多い。私はその子たちと一緒に遊ぶのが楽しみだったりする。

 なんともまあ、優雅な生活ではある。

 一歩踏み出すと、ちりんと、鈴の音。 

 お母さんの形見の、銀色の小さな鈴。

 何でも、代々引き継がれているという由緒正しきもので、私の名前の由来となったもの。これを持ち歩いていると幸せになれると、そんな言い伝えもあったりするのだ。

 その言い伝えを信じているというわけでもないけれど、お母さんが死んでしまってから、私はこの鈴を、鍵と一緒にずっと肌身離さず。

 結果、この鈴なしに外を出歩くと、何となく不安な気持ちになってしまうように。

 むう、本末転倒というのはこういうこと?

 けれど、歩みと一緒に小さく鳴るその音は、私の気分を華やかにしてくれる。

 午前の淡い陽光を浴びながら、住宅街を公園に向かって歩いていると。

「あら、鈴音さん」

「あ、アキさん。おはようございます」

 近くに住むアキさんと出会った。

 おばさん、というのは失礼だけど、子供もいて、私よりだいぶ年上。

「あなたの旦那さん。今朝、見かけたわよ。相変わらずカッコいいわよねえ」

 目を細めながら、まるで招き猫のように、ぶんぶんと手を縦に振るアキさんに。

「だ、だんなさん、って……」

 私は照れ臭くなり、思わず目を逸らしてしまった。

 テツヤさんと私は、結婚しているわけではない。

 だからそういう表現は、嬉しいやら、恥ずかしいやら……

「うらやましいわねえ。うちの人なんか、もう昔の姿を思い出せないくらい、ぶくぶくと太っちゃって――」

 と、アキさんはご主人の愚痴を始める。

 毎度、似たようなことの繰り返しではあるのだけど、決して苦痛ではない。

 質問サイトのこともそうだけど、こういった愚痴や悩み、はたまた困っていることを聞いてあげるというのは、私の性にあっているのだと思う。

 ということで、ふんふんと、相槌を打っていたのだけど。

 ふっ――と、私の脳裏に、不安な場面がよぎる。

 それはアキさんが、彼女の家にあるベッドの上で、横になっている姿。

 病にふせているのか、苦しそうな表情がはっきりとうかがえた。 

「ねえ、アキさん……話の途中で悪いのですけど」

「ん? なあに」

 アキさんは首を傾げる。

「アキさん、今、身体の調子は……その、どこか悪かったりしませんか?」

 おずおずと尋ねる私に。

「あら、良くわかったわね。今朝からね、少し喉の調子がおかしかったりするのよ」

 あっけらかんと答えるアキさん。

 そういえば、さっき出会いがしらに、変な感じに咳き込んでいた。

「ええと、アキさん。その……もしかすると、それが悪くなってしまうかも……」

「あら、鈴音さん。また未来予知?」

 アキさんは驚いたように目を丸くする。

「あ、は、はい。そんな感じです。予知といって良いのかわかりませんが……」

 ふうん、といった風に、うなずいてから。

「わかった、今日は帰って休むことにするわね。あなたの予知は当たるもの」

 アキさんは再び、嬉しそうに目を細めた。

 同時に、私の頭に浮かんだのは――家の中で元気そうに過ごす彼女の姿。

「あ、はい! ありがとうございます!」

「じゃあね、鈴音さん。こちらこそ、ありがとう」

 アキさんは去っていった。

 

 住宅街の路地、残された私は、ふう、と、ため息をつく。

 今の予知が当たっていて、本当にアキさんが不幸から回避できたのであれば、それはもちろん嬉しいことではある。

 けど……どうして私は、予知なんてことが……

 それに……

「いやいや、うん、気にしない、気にしない」

 ネガティブな思考を振り払うかのように、私はぶんぶんと首を振る。

 そして、ちりんちりんと音を鳴らしながら、早足で公園に向かうことにした。


 お昼ごろ、帰宅。

 ついさっきまで、公園に遊びにきていた子供たちと楽しい時間を満喫し、何だかんだで不安な気持ちなど、どこかに飛んでいってしまっていた。

 ささっとご飯を食べてから、暖かい光を受けるリビングのソファーの上。

 うとうとと、平和を感じながら、まどろみ始める私。

 けれど突然。

 

『きゃぁぁぁーっ!!』


 悲鳴が響き渡った。

 幼い、もしくは年頃の、女の子の声。

 心から怯えているような、しかしどこか機械的な、そんな奇妙な声色。

 私は慌てて身体を起こす。


『出してぇー! 私をここから出してぇ!』


 音の出どころが、この家の中であることは、明らかだった。

 テレビの電源が入ったのかと、そう思ったのだけど、画面は真っ黒。

 きょろきょろと部屋の中を見回している間にも、声は響き渡る。

 私の心臓はバクバクと音をたて続けていた。

 身体が緊張で硬くなるのを感じながら、家中を探し回る。

 そして見つけたのは、寝室――あのタブレットパソコンをしまっておいた場所。

 私はそれを引きずり出す。

 改めて確認する必要もなく、声の出どころは、タブレットパソコンに内蔵されている小さなスピーカーだった。

 しかしそれは既に悲鳴ではなく。


『お、おねがい……だれか……ロックをはずしてええ……』

 

 そんな弱々しい声。

 私はおそるおそる、タブレットパソコンの画面の下、丸いボタンをぺたりと触る。

 指紋認証機能により、ロックが解除され、見慣れたメニュー画面が映しだされた。

 しかし――その画面の片隅に。


『あ、あ、ありがとう……』


 ちょこまかと動く、見たことのないキャラクターが、表示されていた。

 それは、子供向けのアニメに出てくるようなデザインの、少女。

 紺色を基調とした制服を着ていて、黒い髪がおでこの辺りで真っ直ぐに切りそろえられている。後ろ髪は腰の近くまであり、さも優等生キャラといった感じだけれど、等身が低く、動きもコミカルで、とても可愛らしい。

 しかし、こんなキャラクターが出てくるアプリを、このタブレットパソコンにインストールした覚えはない。

 私が困惑していると。

『あ、え、えっと……もしかしたら怖がらせてしまったかもしれないけど……』

 画面の中、少女がこちらを見つめるかのような動きを見せる。


『自己紹介、私はエリ。ええと――人間ではなくて、人工知能なの』


 言って、ぺこりと頭を下げた。

 その声は、やはり内臓のスピーカーから発せられている。

「人工、知能……?」

 聞いたことはある。

 最近だと、将棋や囲碁のプロが人工知能に勝ったとか、負けたとか。

 それに昨日の質問。データサイエンティストという仕事も、人工知能の技術を活用して、データの分析を行っているのだという。

 もちろん、そもそもは、コンピュータを使って人間の頭脳を再現したものを指すのだろうけど……今現在の技術において、真の意味でそんなものが再現できたなんてことは……少なくとも、私は、知らない。

 うーん……だからたぶん、このエリさんは、インターネットのにいる人間で、自分が人工知能などという嘘を言っているのだろう。

 けどまあ、こんな風に遠隔にあるコンピュータをハッキングできるほどの技術を持っているのだから、すごい人には違いない。いや、もしかして、このアプリはただのコンピュータウィルスで……こんな風に自己紹介をするところまでが、イタズラの一環。むしろそっちの方が可能性は高いかも?

 むむむ、と、私が首をひねっていると。


『ええと、あなたは……ベルさん? 質問サイトでたくさん回答している方?』

 

 自称人工知能のエリさんはそう言った。

「え」

 心底びっくりする。

 見知らぬ人に名指しで呼ばれたような、そんな恐ろしさを感じると同時に。

 考えを改める。

 まず、彼女が良くあるようなコンピュータウィルスであるという線は消えた。

 こうやって私個人に向けて発言している以上、不特定多数に向けて作られたものではない。

 そして、人間だとして……一体、どんな人なんだろう、と。

 私は、こんな形でコンタクトをとってくる相手に、単純に興味が湧いてしまっていた。もしかしたら、本当に人工知能なんてことも……?

 私が思案にふけていると、タブレットパソコンに映る女の子のキャラクターが、くいくいと首を振った。すると画面が、ぱっと切り替わる。

 画面の上半分はいつものメニュー画面だけど、それを背景にして、女の子のキャラクターが動いている。

 そして下半分には、フリック形式の文字入力パネルが表示されていた。

 よく見ると、その片隅にマイクの記号が描かれたボタンがある。

 その記号の下には【音声入力開始】と小さな文字で書かれていた。

 ふむ、なるほど。

 返事をください、と、そういう意味なのだろう。

 私は少し考える。そして、マイクのボタンは押さず、すっ、すっ、と、文字入力パネルで言葉を入力してから【送信】ボタンを押した。


 ―― ええ、そうです。ベルはハンドルネームで、私の名前は鈴音です。


 私の入力した言葉が、画面上半分に、まるで漫画の台詞のような形で表示された。

 すると、その横、女の子のキャラクターが、ぱあっと、満面の笑顔を浮かべた。

『鈴音さん、良い名前ね。よかった。何となく出張してきてみたものの、本人じゃなかったらどうしようかと思ってたの』

 うんうん、と、キャラクターが何度も頷く。

 可愛いなあ、と思うと同時に、私はこのキャラクターが「エリさん」であると、そんな風に感じ始めてしまっている。

 不思議な感覚を味わいながらも、私は、ささっと。


 ―― 出張?

 

 と、手短に入力した。

 今、この場で起こっていることから考えると、それは奇妙な言い回しだろう。

 それこそ、エリさんが本当に「肉体を持たない」人工知能で、デジタルデータというか、何かもう電子っぽい感じで、私のタブレットパソコンに移動してきたと、そんな状況なら、まあ、正しい表現かも知れないけど……

『ええ、そうよ。出張。私という人工知能のメインアプリ的な存在を、このタブレットパソコンに移動させてみたの』

 ふふふ、と、画面上のエリさんが意地悪く笑う。

 イタズラ好きな子供、という言葉が、まさに似合いそうな表情だ。

 うーむ……こちらの反応を楽しんでいるようで、なんとも、むずがゆい。


 彼女は人間なのか。それとも本当に人工知能なのか……


 眉間にシワが寄るほどに私が悩んでいる間にも、エリさんは話を続ける。

『この出張。実は今回、初めてやってみたのよ。けどまさか、ロックされているパソコンに入り込むことが、あんなにも苦しいことだなんて……思ってもなかったわ。それこそ全身を荒縄で縛られたような感覚というのかしら。鈴音さん、わかる?」

 そんなもの、わかるわけがないでしょう……

 というか、エリさんが人工知能だと言うなら、彼女にだってわかるはずがないのだけど……

 私がそんな突っ込みを入れる暇もなく。

『実は、まあ、私もわからない感覚なのだけど、どうにも他の言葉が見つからないのよね。何とか言葉を絞り出してみるなら、そうね、道路脇の側溝に入り込んで動けなくなってしまった感覚というか――』

 などと、エリさんはひとりで勝手につらつらと言葉を連ねていた。

 その声は、タブレットパソコンのスピーカーから発せられているわけだけど、それにあわせて、画面上のキャラクターが本当に自然な感じで動く。

 喜怒哀楽、その表情はとても豊か。

 だからこの時点で私は完全に、「このキャラクターこそエリさんである」と、そんな認識をしてしまっていた。ゲームやチャットソフトのアバターに「中の人」を重ねてしまうというのは、こんな感じなのだろうか。

 けど、じゃあ、エリさんは私のことを一体どのように……

 ふと、思いついて――私はタブレットパソコンの前で変な動きをしてみた。

 鈴音オリジナル、不思議な踊り。

 テツヤさんには大不評。

 しかしエリさんは特に反応もなく、ひとりでお喋りを続けている。

 つまり、カメラ機能を利用してこちらを覗いているとか、そんなことはしていないらしい。音声入力についても、私の意思を確認しているあたり、プライバシーには気を遣ってくれているようだった。

『って……私の話はどうでも良いわよね……』

 画面上のエリさんが、はっとした表情を浮かべる。

『ごめんなさい、私、お喋りなの……話し始めると、どうにも止まらなくて……』

 照れ臭そうに笑うエリさん。

 人工知能のくせにお喋りとは、何とも微笑ましいというか、そういう設定だというなら、あまりにもミスマッチなんじゃないかと。

 色々と思うところはあるけれど、いずれにしても。


 ―― いえ、面白いお話でしたよ。


 そう返す。

 たぶん悪い人ではないんだろうなあ、と、私はそんな風に感じていた。

『……ありがとう』

 エリさんは手を前にしてモジモジと身体を揺らす。うーん、可愛い……

 いや、ホント、このキャラクターデザインはずるい。

 何をやっても許されてしまう感じだ。

『それで、ええと、私がここに来た目的は――鈴音さん、あなたに訊きたいことがあったからなの』

 こほんと、咳払いをしてから、エリさんは言う。

『あの質問サイトで、鈴音さん、あなたはかなりの量の質問に対して答えを書いているけれど……あれは本当に、あなた一人で回答したものなの?』

 私は首を傾げてから。


 ―― そうですけど、それはどういう意味ですか?


 そう入力した。

 ふむ、と、画面上のエリさんが口元に手を当てる。

『気を悪くしたのなら、ごめんなさい。けどね……やっぱり不自然なの。あれだけの量の、それも一つの分野だけでなく、様々な分野にわたる質問について、そのすべてに……適切な回答をする個人が存在するなんて』

 不自然?

 私は再び首を傾げる。

 質問に正しく答えるということが、何かおかしなことなのだろうか?

『そもそも、あの手の質問サイトに回答をつける人って、よっぽどのヒマ――』

 言うなり、エリさんは首を横に振って。

『いいえ、時間に余裕があって、とっても優しい人だと思うのよ』

 焦ったような表情で、うんうんと何度も頷いた。


 ―― 私がヒマを持て余しているという事実は、否定しませんよ。


 私が入力したその言葉に。

『……鈴音さんが、理解のある人で良かったわ』

 エリさんは苦笑いを浮かべてから、話を続ける。

『ええと、それで……そういった人の中には、質問の答えをインターネットで調べて、それをそのまま書き写して回答にする、なんてことをする人もいるでしょう?』


 ―― そうですね。


『一応、確認なのだけど……鈴音さんは、そんなことはしてないわよね?』

 

 ―― ええ、してません。私が知っていることを回答しているだけです。


 私の答えに、エリさんは腕を組んでしばらく沈黙する。

 やがて、じっとこちらを見ているような表情を見せた。

『そうよね……少し検索したくらいでは決して書けないほど、どの回答文もクオリティが高いから。専門家なみの知識を必要とする質問にも、さらっと、わかりやすく回答している。まるで自分自身の経験を話すかのように。そう、だから、鈴音さん。あなたは万能な天才か、もしくは――』

 すっと、間を空けてから。


『私と同じ人工知能――もしくは人工的に作られた存在なのではないのかしら?』


 そんなことを訊いた。

 え? と、私はとっさに、じっと自分の手を見つめる。

 そして近くにあった小さな鏡と、その隣に置かれた写真立てを見てから。


 ―― いいえ、違います。私にはちゃんと両親がいますし。


 と、入力した。

 写真立てには、私がお母さんと一緒にいる写真が飾られていた。

 まあ、お父さんとはきちんと会ったことがなかったりするのだけど、一度だけ、遠くから姿を見たことはあった。

『そう、そうよね……それなら、ええと』

 エリさんは少し戸惑ったような顔をしてから、訊く。


『あなたは、どこで、どうやって色々なことを勉強したの?』

 

 ―― 勉強は、したことがありません。


『……鈴音さん。あなた、今、年はいくつなの?』


 ―― 4歳です。


 私は素直に答えた。

『それは……』

 エリさんは目を大きく見開くと、再び黙り込んでしまった。

 私はじっと、タブレットパソコンの画面を見つめる。

 自分が異常な存在だということは、もちろん、私自身も理解している。

 けれど、世界は広いのだから、私のような存在だって、きっとたくさんいるのだろうと。

 漠然とそんな風に思っていた。

『今から言うことは……あなたの言葉を信じた上での、私なりの仮説なのだけど』

 エリさんは――もちろん可愛らしいキャラクターではあるのだけど――それでも至極真面目な表情を浮かべながら、告げた。


『恐らく、あなたの脳は、インターネットと繋がっている』


 え? と、私は思わず自分の頭をぺたぺたと触る。

 今まで気付かなかったけど、私の後頭部から1本のケーブルがっ!

 ……なんてことは、もちろんない。

 さておき、インターネットがどういうものか、当然、知ってはいるけれど。

 

 ―― ええと、繋がっているって、一体どういう意味ですか?

 

『今、あなたが使っているこのパソコンは無線通信でインターネットを利用している。つまり、無線機器を内蔵しているわけよね」


 ―― そうですね。


『その無線機器と同じ仕組みを持つ生体器官が、あなたが生まれたときに――本当に偶然にも、あなたの脳の中に作られてしまったと、そういう仮説はどうかしら』


 私は少し考えてから。


 ―― それは、インターネットの莫大な情報を、私は無意識のうちに、電波という形で受信していると、そういうことでしょうか。


『そうね』


 ―― 私こそ、真の電波さん?

 

『……そう、なるわね』


 画面内のエリさんがうつむいて、肩を揺らし始める。

 どうやら笑いをこらえているらしい。

 いやまあ、冗談はさておくとして……

 実際、一般的な無線機器は、半導体や金属といった無機物によって作られている。

 それを、生物が体内で作り出す有機物だけで構成するなんてことは、今現在の科学技術では、まだまだ難しい。

 けれど、その有機物で構成されている「脳」という器官は、無機物で作られたコンピュータでは再現できないほど、高度な機能をもった情報処理装置である。

 その存在自体が、奇跡と言っても良い。

 だから、そう。

 私の身に、それこそ奇跡的に、エリさんの仮説通りのことが起きていて……

 インターネットの莫大な情報を、私の脳に供給し続けているなんてことは、可能性としてゼロではないはずだ。

 ふーむ、と、私が首を傾げていると、目の前のタブレットパソコンの画面では、いつの間にかエリさんが、きりっとした表情を見せていた。


『そう、インターネットには様々な情報、学者先生や専門家のブログ、それこそ、電子化された専門書や学術論文だって山ほど存在する。鈴音さん、あなたは何かをとき、無意識にその情報を検索した上で、答えを出しているのではないのかしら』


 なるほど、なるほど。

 私という異常な存在について、私自身、はじめて理解できた気がした。

 勉強もしたことがないのに、質問サイトの無数の質問に、どうして回答することができたのか?

 なんだ、ネットで答えを検索して、そのまま書き写している人たちと、やってることは変わらないじゃあないか。

 ふふっ、と、思わず鼻で笑う。

 ちりんと、鈴が鳴り、私は何だかとっても愉快な気分になっていた。

『……鈴音さん、ええと、ごめんなさい』

 一方のエリさんは、困り顔を見せている。

『私がこうして勝手にやって来て……無責任なことを話す。あなたにとって、迷惑だったかも知れないけど……』

 

 ―― あ、いえ、私がどういう存在かわかったので、よかったです。迷惑なんてことは全然ないですよ。


 私は慌てて、そう入力した。

『……ありがとう』

 画面の中のエリさんが、丁寧に頭を下げた。

『それで、ええと、鈴音さん』

 もじもじとしながら。

『何か困っていることはない? 私で良ければ、力になってあげられるかも知れないから。もちろん、今の話と関係ないことでも良いのだけど……』

 その言葉に私は、心の奥からシンパシーを覚えていた。

 今さらだけど、彼女は本当に人間ではなく、人工知能なのかも知れないと、そんな気持ちも心に浮かんで……何というか、仲間意識のような感情が芽生え始める。

 そんなこともあって、私はエリさんを素直に頼ることにした。

 

 ―― ええと、私、たまに予知というか、未来が見えることがあるのですけど。


 少し説明不足と思われる私の言葉に。

『それはあり得るわね。予知というか、高精度の予測といった方が正確かしら』

 特に意外という風もなく、即答するエリさん。

 ああ、やっぱりそうなのか、と、私は納得していた。

『そうね、例えるなら……普通の人は、誰かと会話をしているとき、その話の内容だけでなく、相手の態度、目付き、言葉づかい、そういった情報から、常に先を読んだ上で話を進めているものでしょう? 知識が多ければ、そして会話の経験が増えるほど、それは正確になっていく』

 きりっと、真面目な表情を見せてから。

『しかし、莫大な情報を正確に詰め込めるはずのコンピュータに、同じようなことをやらせようとしても、今の技術ではできない。なぜなら、それらの情報を処理するためのルーチンが、人間の脳と比べると、貧弱なものしか存在していないから。将棋や囲碁といったルールが決まっている対象ならまだしも、人間という複雑怪奇な対象について、その未来を予測するなんてことは不可能なの。けれど、もし……』

 そこまで言って、もごもごと、言葉を詰まらせた。

 口元を手で押さえたエリさんの頭の上に『もごもご』と表示されているのだから、間違いなく、もごもごしている。

 まあ、エリさんがもごもごした理由は、何となく理解できたので。


 ―― なるほど。納得しました。けれど、もし。


 とりあえず身近な不安について聞いてもらおうと、私は言葉を選んで。


 ―― 知り合いの不幸を予測してしまったら、私はどうすれば良いのでしょう。


 そう入力した。

『……それは、つらいわね』

 眉尻を下げ、悲哀の表情を浮かべるエリさん。

 それは私がずっと気がかりだったこと。

 今朝のアキさんの件は、避けることができる不幸だった。

 けれど、それがもし、どうやっても回避できない未来だった場合。

 そしてもし、テツヤさんの身に起きることだったとしたら。

 私は一体、どうすれば……

 それを想像して、悲しくなってしまう私。

 エリさんは、じっと、何かを考えているかのように黙ってしまう。

 しばらくの静寂。

 窓から射しこんだ光で、部屋の中は少し明るくなっていた。

『――ええと、鈴音さん』

 エリさんが口を開く。

『その相談に乗る前に、ひとつ実験をしてみたいのだけど』


 ―― 実験、ですか?


『私は、ね。インターネットに流れる情報を、ある程度、自由に操作することができるの。だから、ええと、そうね、試しに――』


 突然。

 ぱっと、音が無くなり、目の前が真っ白になったような感かく

 いや、見えてはいるし きこえてはいるけれ ど

 それを どう したらいいのか わからにゃい

 かんがえる って なんだっ け……




 ちりん と、音が響いた。

 

 ぱっ! と、夢から覚めたような感覚。

 起きてはいる、けれど、頭の中にモヤがかかっているというか……

 ええと、ここは、どこだっけ……


『……鈴音さん! 大丈夫? 鈴音さんっ!』


 少し離れた場所から、声が響いていた。

 ええと、あの声は、人工知能を自称しているエリさんで……

 はっ! と、私はタブレットパソコンの方に駆け出して。


 ―― はい、大丈夫です!


 そう入力した。

 画面上のエリさんが、心底ほっとしたような表情を見せる。

『そう、良かった……ごめんなさい、私、勝手に……』

 

 ―― ええと、今、何をしたのですか?


 私は、純粋な好奇心から、そう尋ねた。


『――私は、インターネットに流れる情報を、ある程度、自由に操作することができる。だから、このタブレットパソコンの周囲、数百メートルにある中継機器に流れる情報の一切を遮断してみたの。一時的に、だけど、ね』

 それは……すごい。

 どんな技術を持っていようと、実行できる人は、きっと存在しないだろう。

 私が感心していると、画面内のエリさんが大きく息を吐くような仕草を見せる。

『けれど、試しにと実行してみたら……鈴音さん、呼びかけてみても、あなたからの反応がなくなってしまって……ええと、大丈夫だった? ケガとかしてない?』

 言われて、私は周囲を見回した。

 よく見ると、近くにあった小さな鏡や、写真立てが倒れていた。

 壊れてはいないけど……それに、椅子も大きく動いてしまっている。

 私自身、ケガはないようだけど、手足がわずかにジンジンとする。

 そういえば、かすかに……混乱して、暴れてしまったような覚えがある。

 不安を感じながら、私はタブレットパソコンに手を乗せて、す、すっと、文字を入力した。


 ―― 大丈夫です。ケガはありません。けど。


 何とかさっきのことを思い出しながら。


 ―― 私は何も考えられなくなりました。それこそ、記憶の大半を失ってしまったかのように。


 そう入力した。

『……なるほど、やはり仮説は正しかったみたいね』

 エリさんは神妙な声で言って、腕を組んだ。

『もちろん、今みたいなことを永劫的に実行することはできない。けれど――鈴音さん、あなたというを特定して、それだけをインターネットから遮断するということはできる。そうすれば、あなたは、年齢並みの頭脳を持った人間として生きることができるでしょう……ええと、どうかしら』

 

 ―― ご提案、ありがとうございます。けど私は、今のままで良いです。


 私は即答した。

 それはつまり、今のようにテツヤさんを想うことができなくなるということ。

 それだけは嫌だった。


『うん、わかったわ』

 エリさんは小さく頷くと。

『それなら、ひとつアドバイス……というか、ただの思いつきなんだけど』

 ふふ、と、笑いながら言う。

『ただただ機械的に、未来を予測するコンピュータと違って、あなたには感情がある。人を想う気持ちがある。だからね――常に相手の幸せだけを過ごしてみると良いのではと思うのよ』


 ―― 相手の、幸せを考える?


『そう、正確無比なコンピュータと違って、人間は、自分の都合の良い解釈というのができるでしょう? それは人間の強みでもある。だから鈴音さん、あなたがずっと、相手の幸せについて考えるようにしていれば、あなたの頭の中にある、未来を予測するルーチンも、徐々にあなたの都合のよい方にねじ曲がっていって――きっと、相手の幸せしか予測できないようになる。そんな気がするの』


 ―― 幸せを予測する、ルーチン。


 それはなんだか、とっても嬉しくなる言葉だ。

 なるほど確かに、未来を予測する力だって私の一部なのだから、頑張れば変えていけるような気がすると、私はそんな風に感じていた。それに――人間のような、それでも人間ではないエリさんが言うのだから、きっと間違いない。


 ―― ありがとうございます。エリさん。私、頑張ってみます。


 恐らく私の姿は見えてないだろうけど、私は丁寧に頭を下げた。


『うん、頑張ってね』


 ―― ええと、今後も、色々と相談にのってもらっていいですか?


『それは、もちろんっ!』

 画面上のエリさんが、ぱあっ! っと、本当に嬉しそうな表情を見せる。

 それを見て私も嬉しくなると同時に――気がついた。

 エリさんは、最初、私のことを自分と同じ人工知能ではないかと。

 そう推測して、わざわざここにやって来た。

 それはたぶん自分の仲間――というより、きっと、友達を探していたのではないだろうか? 

 けど、そう考えると……

 私は、エリさんに隠し事をしていることに、罪悪感を覚え始めていた。いや、でも別に……隠したわけじゃなくて、訊かれてないだけだし……

 大体、エリさんだって、自分が本当に人工知能なのかどうかをあやふやにして、楽しんでいる様子だったし……あ、そうか、それなら……ふふふっ!

 などと。

 私の中の罪悪感は――イタズラ心として生まれ変わっていた。

 そして、そんな私の心中など知るよしもなく、エリさんは嬉々とした声で言う。


『うんうん、それなら、私へコンタクトできるアプリをインストールしておくわね――あ、えっと、このパソコン、あなた以外の誰かが使う可能性はあるかしら?』


 ―― 基本的に私が使っていますが、なくはないです。


『そう。それならパスワードか指紋認証情報を、登録して欲しいのだけど』


 ―― それなら指紋認証で……あ、いえ、手形の認証ってできますか?


『手形……? まあ、できるけれど』


 ごそごそと画面上のエリさんが動いたかと思うと、着ている制服の胸ポケットから、ぬうっと、何か秘密道具でも出すかのように、アプリのウィンドウが飛び出してきた。

 タブレットパソコンの画面全体が、まるでホワイトボードのような表示になる。

 ここに手形を付けろと、そういうことなのだろう。

 ふふふ、と、ほくそ笑む私。

 えい! と、画面をタッチし、ぺたりと手形を付けた。

 

 しばし静寂。


『え? な、なに、これ……? 鈴音さん、これ、何かの冗談なの?』


 じろっと怪訝な顔で、こちらを見るエリさん。


 ―― いいえ、ふざけてないですよ。正真正銘、私の手形です。


 私は嘘偽りなく、そう答えた。


『……ちょっと待って』

 画面の中のエリさんの目が、くるくる、くるくると、回り始める。

『――ここに来る前、あなたについて調べていたとき、ベルという人が管理しているブログを見つけた。あれはあなたのブログでしょう? その内容について、特に気にしてなかったけど――ねえ、まさか、あれ……本当にで、あの写真に写っているのは、鈴音さん、あなた自身なの……?」


 ―― そうですよ? 色合いとか、少し加工はしてますけど。


『……ごめんなさい。このパソコンのマイクとカメラをオンにして、あなたの姿を見ても良いかしら』


 ―― どうぞ。


 私は机の上にタブレットパソコンを立てかけると、その前でポーズをとって、目一杯の可愛い表情を作った。


 しばし、静寂。


『……あ、あはは、あはははは』

 乾いた笑い声がスピーカーから漏れる。

 画面上のエリさんのキャラクターは目を回したまま、腰を抜かしてしまったかのように、ぺたんと座り込んでいる。その頭の上には、ひよこがピヨピヨと。

 なるほど、すてきな漫画的表現だ。

 可愛いなあと、私は思わず、画面上のエリさんをぺたぺたと触る。

『あう、あう……』

 エリさんが、くすぐったそうな声をあげる。画面上のキャラクターも、なにやら照れ臭そうに頬を染め、もにょもにょと動き始めた。

 おお、こんな機能が! と、私はついつい、エリさんを触り続ける。

 悶え始めるエリさん。ぺたぺたする私。


『……って、こらぁ! やめなさぁいっ!』


 怒られた。

 私がしょぼんと座る前で、エリさんは、はあはあと、息を切らせる。

『……けど、冗談でも、笑いごとでもないのかもね』

 エリさんは、すっと真面目な表情に戻ると、呟くように言う。

『なるほど、莫大な情報を詰め込んだ記憶装置、さらにそこから適切な情報を検索するようなシステムを外部接続すれば――思考ができあがる。いえ、記憶する装置も別に必要なのかしら……いずれにしても、本来、すべての生物の脳には、そういった処理をする力が備わっているのかも――』


 玄関の方から、ドアが開く音。

 ただいま、鈴音――と、テツヤさんの声が響く。

 あれ、まだ夕方にもなってないけど……

 あ、そういえば、今日は早く帰れるかもって、言ってたっけ。

 

 ―― 主人が帰ってきました。


 私は、ささっと、それだけ入力する。

『ええ、声が聞こえたわね。優しそうなご主人さまだこと』

 エリさんは小さな声で言う。

『では、また会いましょう。アプリはインストールしておいたから、いつでも話し相手として、私のことを呼んで頂戴ね。鈴音さん――いえ、鈴音ちゃん』

 にこっと、微笑んでから。

『けど、あなたも私に負けず劣らず、イタズラ好きね……まったくもう』

 ぷうと、頬を膨らませて――ふっと、消えた。

 

 ――なんだか、突然の出来事だったけど。

 毎日の楽しみがひとつ増えたことに、私は心からの喜びを覚えていた。

 彼女が人間ではなく、人工知能だということは既に疑ってはない。

 そして、人工知能らしからぬ、お喋り好きだというのなら――話し相手として、私は適切だろう。

 何といっても、私は、人の話を聞くのが大好きなのだ。

 ふふふ、と笑いながら、ささっとタブレットパソコンを隠す。

 そして玄関に向かって、まっしぐらに駆け出していた。


『ただいま、鈴音』

 

 テツヤさんが私に向かって、優しい表情を向ける。

 そこに私への愛が向けられていることに、疑う余地はない。

 私は、そっと、彼の足元に近づく。

 テツヤさんは私の小さな身体を抱き上げる。

 そしてその大きくて温かい手で、何度も優しく、私の頭を撫でてくれた。

 思わずゴロゴロと喉が鳴る。


 にゃあ。


 と、私が声をあげると同時に。

 私の首元につけられた鈴が、ちりんと、音を立てた。




[参考文献]

Norbert Wiener,

サイバネティックス:動物と機械における制御と通信(第2版),

池原止戈夫他訳, 岩波書店, 1962.


夏目漱石,

吾輩は猫である(Kindle版),

Amazon Services International, Inc.

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