10. 二〇三九年六月二十一日 一四時一五分

埼玉県所沢市 防衛医科大学校病院

東棟十一階 一一〇七号室


エピローグ


 レディ・グレイを警務隊に引き渡した後、まだ失神しているうちに俺はクレアによって強制的に入院させられてしまった。

 脳室内に充満したナノマシンを吸着洗浄しなければならないとかで、先週まで側頭部に繋げられていたシャントが今週ようやく外されたところだ。

 医師団はどうやら俺のことが大好きなようで、未だに退院の日程は教えられていない。

 同時に入院していたマレスは三日で退院した。彼女にはナノマシンのベースとなっている緑膿菌感染の兆候もなく、問題はないだろうという。確かに肋は折れていたが、どうやら入院するほどではないようだ。

 マレスによればクレアの狼狽ぶりは相当だったらしい。

『どうしよう、どうしようって、半狂乱だったんですよー』

 あんなにうろたえるクレアを見たのは初めてだと、マレスが身振り手振りで教えてくれた。今でも毎晩電話で連絡を取り合っているのだという。


 マレスは何かと理由をつけてはスケルツォを爆走させて毎日この病室に現れる。

 しかし、クレアの支援もなしに都心から二十分足らずで所沢に到着する彼女は一体どんな運転をしているのだろう。

 そんなマレスは今日は山口を一緒に連れていた。

「じゃーん」

 病室に入るなり、マレスはいつものトートバッグから取り出した真新しい免許証をかざして見せた。

「やっともらえました、ちゃんとした免許証。これでいつでもドライブ行けますよ」

 会心の笑みを浮かべている。今までは局に発行してもらった一時運転許可証で爆走していたのだ。

 一方、隣の山口はかなり疲弊した様子だ。

 いつもは綺麗に櫛目の通っている髪がボサボサに乱れている。

 今日の山口は黒いサマーウールのスーツに白いシルクのシャツ、それに山口にしては地味な銀糸のペイズリー柄が入った黒いネクタイを締めていた。

 こいつは一体何を考えているのか。これじゃあ葬式だ。

「いやあ、死ぬかと思ったよ。和彦、いつもあんなのに乗ってるの?」

「いや、一回だけだ。レディ・グレイを追ったとき。凄かったのか?」

 俺はぐったりした様子の山口に尋ねた。

「うん、すごかった。そもそも僕が思うに、首都高って時速百キロ以上で走るようには設計されていないと思うんだよね。あの混んでて狭苦しい新五号新池袋線で二百キロ越えた時は叫んじゃったよ」

「スケルツォに乗っていれば大丈夫さ」

「大丈夫な訳がないじゃん! 二百キロオーバーだぜ?」

 山口は呆れたように両手を広げた。

「君たち、やっぱり頭のネジがどっか外れてるよ。……帰りは電車にする。あれは、僕には無理だ」

 山口は壁に立てかけてあった折りたたみ椅子を引き寄せると、前後逆にした椅子の上にどっかりと腰を下ろした。

 椅子の背に両腕を乗せ、ぐったりと頬をもたせかける。

「わたし、お花替えてきますね」

 我関せずとばかり、マレスが花瓶を抱えてぱたぱたと部屋から飛び出していく。

 今日は南欧風のゆったりとした白いワンピースだ。いつぞやの新宿のホステスたちの話を真に受けているのかも知れない。連絡を取り合っていなければいいのだが。

「いやー、参った、参った。叫びっぱなしで喉が枯れた。車って横向きにも走れるんだねえ」

 山口はネクタイを緩めてしばらく片手で顔を扇いでいたが、ふと廊下を覗き込んでマレスが遠くに行ったことを確認すると真顔に戻り、話題を変えた。

「でさ、和彦、あの話覚えてる?」

「あの話?」

 俺は少し身体を山口の方へ向けた。即座にジェルベッドが形を変え、移動した重心を下から支える。

「見極めてくれって話さ。どうだい、彼女は?」

「いいんじゃないか? マレスは俺よりも強いぞ。近接戦闘CQBでは勝てる気がしない」

 俺は山口に言った。

「ふむ」

 山口が顎の下に片手をやり、少し考える。

「性向はどうだい? 僕が見たところ彼女には殺人狂傾向があるんだけどさ、それは大丈夫かな?」

 山口の瞳が冷たく光る。

「殺人狂はいらないんだ」

「それも大丈夫だろう」

 俺は山口に答えて言った。

「なにしろマレスはレディ・グレイを殺さなかったんだからな」

 俺は言葉を濁した。

 マレスがレディ・グレイを殺さなかった理由は判っていた。

 だが、それを山口には言いたくなかった。

「マレスはマレスなりにちゃんと考えてるよ」

「うむ」

 再び考え込む。

「じゃ、合格ってことでいいかな?」

 やがて山口は顔を上げると、明るく俺に尋ねた。

「ああ。いいと思う。マレスはきっと役に立つ」

「いやあ、よかったよ。ずっと悩んでたんだ、この件は。いやあ、やっとすっきりした」

 山口は晴れやかな笑みを浮かべた。

「僕も彼女のことは好きだからね、可哀想なことはしたくなかったんだ。じゃあ、黒田長官には問題なしって報告しておくよ?」

「ああ、よろしく頼む」

 俺は頷いた。

「ところでさ」

 山口は一歩椅子を俺の方に寄せた。

「和彦は聞いたのかい、彼女の大きなお買い物の話」

 妙なことを言う。

「いや、聞いてない。マレスが何を買ったんだ? 車か?」

「いやいやいや」

 山口が右手を顔の前で振る。

「和彦のおうちさ、東北沢コーポ。あそこ来月から名前が変わってコーポ霧崎になるみたいだよ」

「なにッ?」

 思わず起き上がろうとする。だが、全身に張り巡らされた管やセンサーに押し戻される。

「マレスちゃん買っちゃったみたいなんだよね、和彦のアパート。キャッシュで一棟買いだってさ」

 その時新しい花を持ってマレスが戻ってきた。

「マレス、本当か? 東北沢コーポを買ったって話」

 俺はマレスに尋ねた。

「あ、バレました?」

 マレスが小さく舌を出す。

「改築が終わるまで黙ってようと思ってたんですけど、お祖父様におねだりして買っちゃいました」

 マレスが花台に真紅の薔薇と霞草が生けられた花瓶を置きながら言う。

「一階と二階に住んでた人たちにはお願いして今月で退去してもらうんです。一階はわたしとおじさまたち三人それぞれの私室、二階はダイニングとホークさんのキッチンに改装して三階は居間にする予定です。三階は和彦さん以外誰も住んでなかったから、もう工事を始めてます」

 唖然とする俺を見てマレスが何か誤解する。

「あ、大丈夫、三階の和彦さんのおうちはそのままにしておきますから。そのまま住んでてください。もちろん、遊びにきて下さいね。和彦さんのソファも買っておきますから」

 マレスがすとんと俺の足元に腰を下ろす。ジェルベッドが再び形を変える。

「退院したらおとなりさんです。よろしくお願いします」


──ブラッディ・ローズ 完──

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ブラッディ・ローズ Level 1.0『血染めの白薔薇』 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo

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