第8話

 あめと将棋、というか、歩なしの簡略版将棋を指していたおじいさんと、そのおじいさんの横で、僕みたいに二人の将棋を見守っていたおじいさんのことを、僕は心の中でひそかに、長いのと丸いの、って呼んでた。将棋を指してたおじいさんのほうが長いので、見学していたおじいさんのほうが丸いの。長いののほうは、背が高くて痩せてて、でも、がっちりした感じで、顔やら手足やらなんやらが全部、長細いような感じだった。見学していたおじいさんのほうは、背が低くて小太りで、いかにもずんぐりむっくり、っていう感じだった。顔も体も手の指も、これまた全部、丸っこいような感じだった。


「あ、あの!」

「んあ?」


 僕が思い切って声をかけると、長いののほうは、なんだかめんどくさそうな声を上げた。


「す、すみません!」

「なんだあ、坊主?」

「あの、か、感想戦、やっていただけませんか!?」

「あ? ……感想戦?」


 長いのは、なんだか困ったような顔で僕を見て首をひねった。


「つまり、坊主は、俺に何をしろって?」

「え、えっと……あ、あの……」


 僕はドギマギした。もしかしたら、長いの――いや、あの、僕がまだ名前を知らないおじいさんは、僕が厚かましいんで怒ってしまったのかもしれない。


「みっちゃんみっちゃん、もっと愛想よくしないと、おチビちゃんがびっくりしちゃうよ?」


 と、突然丸いのが愛想よく口をはさんだ。僕は、おチビちゃんって呼ばれたことにほんとはかなりムッとしてたんだけど、それでもここはとりあえず、丸いのの仲裁を受け入れておくことにした。


「あのね、みっちゃん、おチビちゃんはね――」

「赤石です。赤石陸翔」

「あ、そっかそっか、まずは自己紹介しないとね。えっと、陸翔君、おじいちゃんはね、崎村光(さきむら・ひかる)。で、こっちのおじいちゃんが、田岡道則(たおか・みちのり)。あのねー、おじいちゃんの娘と、みっちゃんの息子が結婚したから、だからおじいちゃん達、親戚どうしなんだよー!」

「……はあ、そうですか」


 僕は曖昧にうなずいた。この局面では、「はあ、そうですか」以外にどうにも返事のしようがない。


「あのねえみっちゃん、陸翔君はねえ、さっきのみっちゃんとあめちゃんとの試合を、もう一回やりなおしながらいろいろと、感想とか意見とか教えてくれ、って言ってるんだよ」

「……そんなもん、俺覚えてねえよ」


 長いの――田岡さんは、ぶっきらぼうにそう言った。僕は、怒らせちゃったのかな、って思ってちょっとビクッとなった。今の僕なら、あの時の田岡さんはただ単に、本当に覚えてなかったから困ってただけなんだ、ってわかるけど、あの時の僕にはまだそんなことはわからなかった。


「大丈夫大丈夫。あたしゃ覚えてるよー」


 陽気にそんなことを言いながら、丸いの――崎村さんは、丸っこい手で素早くパチパチと、盤の上に駒を並べなおした。その手の動きを見ていると僕は、崎村さんが大局を観戦中ずっと、エア将棋というかなんというか、とにかく、楽しそうにフンフン鼻歌を歌いながら、空中の見えない将棋盤に、見えない将棋の駒をパチパチ置いて動かすように手を動かしていたことを思い出した。


「相変わらず、よくそんなこと覚えてるな、サキは」


 田岡さんはやっぱりぶっきらぼうにそう言った。


「うんうん、おじいちゃんはね、覚えるの得意なんだよ」


 崎村さんは、フンフン鼻歌を歌いながら、僕と田岡さんにニコニコとうなずきかけた。


「パチパチー! パチパチー!」


 唐突に、いつの間にか踊りを終えて、瑪瑙のひざに抱っこされていたあめが、うれしそうにそれこそパチパチと手を叩いた。


「そうそう、パチパチだよー」


 崎村さんは機嫌よくそうこたえながら、僕を見てキョトッと首をかしげた。


「それじゃ、まずは、早回しでやってみようか?」

「え、早回し?」

「うん。えっとね、こんな感じに」


 そう言うと崎村さんは、それこそ『早回し』って感じに、パチパチパチパチ、あめと田岡さんとの対局を、素晴らしいスピードで盤の上に再現していった。


「う、うわあ……」

「はやーい、はやーい!」


 あめが喜んでパチパチと拍手をする。


「おじいちゃん、こういうのは上手なんだよねー」


 あめの拍手に崎村さんは、機嫌よく、ムン! と胸を張った。


「……感想とか、言われてもなあ」


 田岡さんは、眉間にしわを寄せながらボソリと言った。


「俺、別にそんな難しいこと考えねえで、ただ置けるところに置いてってるだけだからなあ……」

「うんうん、みっちゃんはそうだよね。だから、意見や感想はこのおじいちゃんが言ってあげるよ!」


 崎村さんはまたもや、ムン! と胸を張った。僕はそのあたりでようやく、「おじいちゃん」というのがどうやら、崎村さんの一人称の一つらしいということに気がついた。


「ええと、あの……」

「御言葉に甘えちゃって大丈夫だと思うよ、赤石君」


 ひざの上で、キャッキャッとはしゃぐあめをあやしていた瑪瑙が、のんびりとそう言った。翡翠さんはさっきからずっと、田岡さんと崎村さんをスケッチしている。もちろん、スケッチを始める前に御二人の許可を取って、だ。


「僕は将棋のことはよくわからないけど、でも、崎村さんの観戦眼は確かだと思うよ」

「観戦眼? 将棋の強さじゃなくて?」

「おじいちゃん、将棋はそんなに強くないよー。おじいちゃんが得意なのは、別のパチパチ」


 と、崎村さんがコロコロ笑う。


「え? 別のパチパチ?」

「そうそう。おじいちゃんはねー、珠算が得意なんだよ」

「……しゅざん?」

「あれ? 今は学校でそろばん習わないの?」


 崎村さんはきょとんと目をパチクリさせた。


「えっと、あの……」

「昔はねー、読み書きそろばんって言ってねー、そろばんも、羽振りを利かせてたんだけどねー」


 崎村さんは、ハァッと大きくため息をついた。


「サキ、そこの坊主は、たぶんそろばんには別に興味ねえぞ」


 田岡さんはぶっきらぼうにそう指摘した。それはその通りだったので、僕は内心田岡さんに感謝した。


「え? あ、そう? あ、そっかそっか、今はそろばんじゃなくて、将棋の話をしてたんだっけ」


 崎村さんはそんなことを言いながら、丸い頭をコクコクとうなずかせた。


「それじゃあ、えーっと、将棋の話に戻ろうか?」

「ぜひお願いします」


 僕は崎村さんに深々と頭を下げた。


「おじいちゃんは別に、そろばんの話でもいいんだけどなー?」

「いえ、将棋の話でお願いします」

「え? あ、そう? うん、まあ、陸翔君がそういうんならねー」


 崎村さんは、なんだかちょっと、渋々っていう感じでうなずいた。


「じゃあ、あと、サキに任せていいか?」


 田岡さんは、なんだかめんどくさそうに言いながらヒョイと立ち上がった。


「あ、ど、どこに行かれるんですか田岡さん!?」

「ちょっくらヤニ入れてこねえともたねえよ、俺」

「え? や、やに?」

「みっちゃんみっちゃん、今時の若い子にはその言いかたじゃ通じないよ」


 崎村さんはおかしそうに笑った。


「あのね、陸翔君、みっちゃんはね、煙草を吸いに行きたいんだよ。あめちゃんみたいなちっちゃい子がいるところじゃあ、煙草は吸えないからねえ」

「ってことだ。じゃあ、サキ、後は頼んだ」

「はーい、りょうかーい」


 崎村さんが機嫌よくパタパタと手を振って見送る中、田岡さんはのっそりと席を立って、将棋道場の外に出て行ってしまった。


「……え、えーっと……」

「さて、それじゃあ、感想戦を始めようか、陸翔君」


 崎村さんに、愛想よくそう言われて。

 僕は思わず、コックリとうなずいてしまった。

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