第7話

 あめの兄弟がやたらとたくさんいる、っていうことはずいぶん早いうちから、っていうか、ほとんど初日にもうわかってたようなもんだけど、それから本当にすぐ、僕はその事実を自分の目で確かめることになった。それも、何度も何度も。


 その日、あめの隣には、私服の瑪瑙ともう一人、やっぱり私服の、僕より年上、たぶん、中学生か高校生くらいに見える、あめによく似たおねえさんがいた。たぶん、あめのお姉さんだろう。『おねえさん』という言葉は、若い女の人、という意味と、自分より年上の女の兄弟、という意味の両方があるからややこしい。


「あ、こんにちは、赤石君」


 瑪瑙はニコニコ笑いながら僕に挨拶をした。どうやら、僕があめを泣かせてしまったことに関しては、許してくれたかさもなくば、面には出さないことにしてくれたようだ。


「初めまして、赤石君。私は、安藤翡翠(あんどう・ひすい)。あめの姉で、めのにぃ――じゃなくて、瑪瑙のすぐ下の妹です」


 そんなことを言いながら、あめのお姉さん、翡翠さんはペコリと頭を下げた。翡翠さんの顔は、あめや琥珀によく似ていて、つまりまあ、目が細くて鼻が小っちゃくてなんとなくのぺっとしている。それでも、栗色のフワフワッとした髪の毛を臙脂色のカチューシャでまとめて、やわらかそうな薔薇色のほっぺたと薔薇色の唇で、ニコニコ優しい笑いを浮かべている姿はなんだか可愛かった。


「は――初めまして。赤石陸翔です。えっと――えっと――」

「あめとこちゃにに――じゃなくて、琥珀がいつもお世話になっております」


 翡翠さんはそんなことを言いながら、またもやペコリと頭を下げた。


「りくにぃ、こんちゃー!」


 あめがうれしそうにパタパタと短い手を振りながらあいさつした。


「瑪瑙さんや翡翠さんも、将棋をなさるんですか?」


 と、僕はたずねた。


「いや、僕はこの間も言った通り、将棋のことはあんまりよくわからないよ。まあ、ルールや駒の動かしかたくらいは知っているけど」


 と、瑪瑙は言った。


「私もめのにぃとおんなじ。将棋のことはよくわかんない。でも、この将棋道場に来るとたくさんスケッチが出来るのがうれしい」


 と、翡翠さんは言った。


「スケッチ?」

「そう。私、絵を描くのが好きなの」


 と、ニコニコいう翡翠さんの足元には、大きなトートバッグがあって、どうもそこに、スケッチやらなんやらの絵を描くための道具が入っているみたいだった。


「どうする、陸翔君、あめとまた将棋を指すかい?」


 と、瑪瑙が言った。


「えっと……いえ、僕は、まずはあめと他の人が将棋を指すところを見ようと思ってます」


 と、僕は言った。


「ああ、そういうのも勉強になるっていうよね」


 と、瑪瑙は軽くうなずいた。


 その、ほんのちょっと未来に、僕は自分の目を疑うような光景を目撃することになった。







「あぅ~……ありまちぇん! まけまちた!」


 あめはそう言ってペコリと頭を下げた。僕は、予想はしていたけど愕然とした。あめは、あめが得意なあの、歩なしの将棋で指していた。それなのに負けた。けどまあ、それは当たり前と言えば当たり前のことなんだ。だって、あめはあのとき、まだたったの3歳だったんだ。だから、あめが大人の、大人っていうかお年寄りの、おじいちゃんに負けちゃったって、それはある意味、当然といえばものすごく当然のことだったんだ。


 それでも僕は愕然とした。僕は、僕を負かしたあめが、僕以外の人に負けるところなんて絶対に見たくなかったんだ。


 それでも、あめは負けた。あめのお兄さんもお姉さんも、つまり、瑪瑙と翡翠さんも、あめが負けても平然としていた。まあ、この二人の場合は将棋がよくわからないっていうから、それも平然としている理由の一つになっていたのかもしれない。


 とにかく、あめは負けた。あめがポヤポヤした眉をひそめて、小さな鼻からクシュンクシュンという音を漏らし始めたから、僕は、あ、こりゃ、あめ泣いちゃうかな、って思った。そうしたら、瑪瑙があめの頭を撫でながらこんなことを言った。


「あー、あめ、負けちゃったねえ」

「うん、めのにぃ、あめ、まけちゃったよぅ……」

「あめー、道場で負けたときはどうするんだったっけ?」

「うぅ~……おどりゅ!」

「ええッ!?」


 僕は思わず悲鳴を上げた。あめは今、まさか、「踊る」って言ったのか!?


「よーし、じゃあ、踊ろうね、あめ」

「あーい!」


 あめは元気よくうなずいて、将棋道場の床にちょこんと立って、ヘンテコででたらめな歌を歌いながら、ピコピコもいもいと踊り始めた。


「ま~けちゃった~、まけちゃった~♪ あ~め~は、ま~けちゃったよぅ♪」

「なっ、ななな、なんですかこの辱め!? こ、こ、これってなんていうかその、も、物凄く屈辱的なことなんじゃないですか!?」

「うわー、陸翔君は、難しい言葉をよく知っているねえ」


 と、瑪瑙が感心したような声を上げた。


「あめは、別に、そんなこと全然思ってないと思うよ?」


 あめがチッテチッテと踊る姿をサラサラとスケッチしながら、翡翠さんがおっとりと言った。


「え? え? え!? っていうか、なんで負けたら踊るっていうことになってるんですか!?」

「えーっと、あのね、実はあめは、この将棋道場に来る人たちに物凄く可愛がられててね。それで、あめが将棋に勝つと皆さんお菓子を下さったりするんだよ。それで、なんというかその、あめはここで将棋に勝った人にはお菓子をあげなくちゃいけない、みたいに思っちゃったみたいでね。自分が負けたとき、勝った人にお菓子をあげようとしたんだけど、ちょうどそのときお菓子の持ちあわせがなかったんだよ。それで、こちゃにに――じゃなくて、兄さんにあめが、あめ、お菓子持ってないけどどうしよう、って聞いたんだよ。そうしたら兄さんがあめに、じゃあ、お菓子あげる代わりに踊ったら、きっとみんな喜んでくれるぞ、って教えたんだ。なんというかその、兄さんはああいう、いい加減な人だから」

「でも、実際みんな喜んでるよめのにぃ」


 と、翡翠さんがまたおっとりと言った。


「ああ、うん、確かにそれは僕も否定しないけど」

「ま~けちゃった~、まけちゃった~♪ だ~か~ら、おどいまちゅ♪」


 そんな、でたらめな歌を歌いながら、でたらめに踊るあめは、将棋に負けて、しかもそのせいで踊らされてるっていうのに、なんだかすごく楽しそうで、っていうか、あめはずっと、ニコニコニコニコ顔中で笑いながら、踊っていて。


 それを見た僕は、なんでだかものすごく、胸が、痛くなった。


「……冒涜だよ、こんなの」


 気がつくと、僕は思わずそんなことをつぶやいていた。


「それは、将棋に対する?」


 って、瑪瑙が落ち着いた声で言った。


「それにしても、君、本当にたくさん難しい言葉を知っているんだね。うん、やっぱり赤石君は、かなり頭がいいんだね」

「僕があなたより年下だからって、見くびらないでください」

「――なるほど。兄さんが言った通り、君は、僕達の父さんに割と似てるね」

「ああ、それは確かにそうかもねえ」


 瑪瑙と翡翠さんは、そんなことを言いながらクスクスと笑った。


「けどねえ、赤石君」


 瑪瑙は、フッと真顔になって僕を見つめた。


「君にとって大事なのはたぶん、あめの踊りじゃなくて、あめが指した将棋と、それに、たった今あめのことを将棋で負かしたその『相手』と、その人の『将棋』のほうなんじゃないかと思うんだけど、どうかな? 僕の考え、間違ってる?」

「……いえ。間違ってない――です」


 僕は、コックリとうなずきながら、あめを負かした相手の将棋を脳内で再生しながら、あめを負かした相手の顔を見つめた。

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