第5話

 初回ですごく嫌な思いをしたって言うのに、あめと初めて将棋(いや、実をいうとあの時の僕は、あめと指したあれが『将棋』だとは断じて認めるもんかとむきになっていたんだけど)を指した次の日すぐに、僕はまた、将棋道場へと足を向けてしまった。


 将棋道場に入った途端、琥珀がでっぷりした体を揺らして、僕が名前も知らない爺さんとゲラゲラ馬鹿話をしているのが見えて僕はちょっとウッとなった。昨日別れた時の琥珀は、僕に対してかなり怒ってたし、今日見つかったらまた、なにかいやなことを言われるんじゃないかな、と思った。


 でも、今思えば、琥珀に会うのがいやだ、っていくら言ったところで、あめと将棋を指すためにはどうしたって、琥珀にも会わなくちゃいけないんだ。だって、あめはあの時、まだたったの3歳だったんだ。だから、どうしたって琥珀――いや、まあ、琥珀に限らなくてもいいんだけど、とにかく誰か、おうちの人というか保護者というか、そういう人といっしょじゃなくちゃ、将棋道場までやってこられるはずがないんだ。で、あめといっしょに将棋道場までやってくるあめの家族、っていったら、琥珀が一番可能性が高かった。


 だから、琥珀に会わなくちゃいけないのはもう、どうしようもないことだった。これが、琥珀じゃなくて瑪瑙だったところで、あるいはほかの家族だったところで、僕がたどる道はあんまり変わらない。


 そんなことをグチャグチャ考えていたら、琥珀がヒョイと顔を動かして僕のほうを見た。


 そして。


 琥珀は、にっこり笑った。


「おー、なんだ、今日も来たのか陸翔。おまえ、案外根性あるな」

「……あめは?」


 僕はボソッとそうたずねた。あめがいない。それは、琥珀を発見した次の瞬間に確認していた。あめがいないんじゃ、僕がここに来た意味なんかなんにもない。


「ああ、あめは、熱出しちまって家で寝てる」


 琥珀はあっさりとそうこたえた。昨日瑪瑙が、あめは熱を出すかもしれない、と言っていたのを僕は聞いていたし、その後、それは僕のせいなのかとたずねた僕に、そうじゃない。強いて言うなら『将棋』のせいだ、と、琥珀がこたえてくれたのも、僕はちゃんと聞いていた。


 それでも僕は、なんだかすごく、胸がドキドキした。


「あめ、大丈夫なの?」


 僕は思わずそう聞いていた。


「大丈夫だ、心配すんな。もともとあめ、別に将棋とかやらなくったってしょっちゅう熱出したり腹壊したりして寝込んでるんだ。もともと体が弱いうえに、今はまだちっちゃいんだからしょうがねえよ。に、しても、おまえ俺の妹をいきなり呼び捨てなんだな」

「琥珀――さんだって、僕のこと呼び捨てにしてるじゃないか」

「おっ、俺にはちゃんと『さん』づけ出来たな。偉いぞ陸翔。だって、俺はおまえより年上なんだから、呼び捨てにしたって別にいいじゃん」

「それは――そう、かもしれないけど、だったら、僕はあめより年上なんだから、僕があめのことを呼び捨てにしたっていいでしょ?」

「ああ、そういう理屈もあるか」


 琥珀は、ちょっと口をとがらせながらうなずいた。


「琥珀さんに言ってもしょうがないけどさ」


 僕も口をとがらせながら琥珀に突っかかった。


「昨日のあれ、僕ずっと考えてたんだけどさ」

「ずっと考えてたのかよ。ひまなやつだな」

「うるさいな! あのさ、僕ずっと考えてたんだけどさ、あれってやっぱり、先手必勝なんじゃないかな? だって、歩がないから大駒をものすごく簡単に取れるし、それに、飛車2枚と角2枚っていうのは絶対に等価じゃないから、あの盤面だと飛車2枚を先に手に入れちゃったほうが絶対に有利だし、どちらかが大駒を3枚手に入れちゃったら、相手はもう手も足も出なくなるんじゃ――」

「第一手目の香車取りは考えたか? それやると、まずは純然たる駒得になるぜ? いきなり大駒を狙うんじゃなくて、第一手目に香車取り、っていうルートはシミュレートしてみたか?」

「琥珀さんも将棋が強いの!?」


 僕はびっくりしながらも、どこかで妙に納得もしていた。だって、琥珀はあめの兄さんなんだ。将棋が強くったってなんの不思議はない。っていうか、そのほうがむしろ自然なくらいだ。


「いや、俺は将棋はそれほどでもねえよ。まあ、そこそこ指せるけどそんだけだな。俺が天才的なのは、将棋じゃなくってラノベ書きの才能だ!」


 琥珀はそんなことを言って、大威張りでムン! と胸を張った。


「陸翔、今度ネットで『ダークシュバルツカイザー』って検索してみな。俺の作品やらなんやらがヒットすると思うから。っていうかぜってーヒットする。俺、ネットでけっこう作品発表してるんだけど、閲覧数けっこういいんだぜ? ただ、まあ、最近気晴らしに書いた俺とあめとの日常エッセイ『あめと俺』の評価が異常に高いのは、ぶっちゃけちょっと、うーん、って思ってる。ったく、なーんで俺が気合入れまくって書いた作品より、サラサラサラー、って書き飛ばした『あめと俺』のほうが評価がいいのかな? やっぱあれだな、俺のレベルがあまりにも高すぎるから、俺が本気を出しちまうと一般人にはついてこられない地平に到達しちまうんだな! うんうん」

「誰もそんなこと聞いてないよ……」


 僕はボソボソとそうツッコんだ。今の僕だったら、「『ダーク』は英語で、『シュバルツ』と『カイザー』はドイツ語だろ!? なんでそれをごちゃまぜにするんだよ!? だいたい、『ダーク』は『暗い』で、『シュバルツ』は『黒』で、『カイザー』は『皇帝』だろ!? 『暗くて黒い皇帝』って、どんだけ真っ暗な皇帝なんだよ!?」くらいのツッコミは即座に入れてやるところなんだけど、あの時の僕にはそこまでの余裕も知識もなかった。


「そんなことより! さっきの第一手目で香車取りっていうのは、琥珀さんが――」

「別に、俺が考えたんじゃねえよ」


 琥珀はあっさりとそんなことを言った。


「俺は、あめと指した連中が、指した後感想やらなんやら言いあってるのを横で聞いてただけだよ。まあ、俺だって将棋は指せるから、いろいろ言われりゃ、ふーん、って思うし、なるほどなあって思ったらちゃんと覚えてもいるよ。そんだけ」

「……ふーん……」


 琥珀の将棋の腕がそれほどでもないって言われて、僕は、ホッとしていいんだかがっかりしていいんだか、なんだか微妙な気分で鼻を鳴らした。


「あめがいなくて残念だったな」


 琥珀はニヤニヤしながらそんなことを言った。それは確かにその通りだったんだけど、琥珀みたいなデブデカ饅頭からニヤニヤしながらそんなことを言われて、僕は正直、かなりムッとした。


「別に、あめがいなかったら他の人と将棋を指せばいいんだし」

「でも、おまえ、あめにリベンジしたかったんだろ」

「……普通の将棋だったら、僕が勝ったのに」

「だから、俺だってそれは否定しねえってずっと言ってやってるじゃん。おまえ、俺の親父の半分くらい、ねちっこいやつだなー」


 琥珀はあきれたようにそう言った。


「じゃあ、今度は普通の将棋で、あめと戦わせてくれますか?」

「俺は別にかまわねえけど。ただ、あめは体力ねえから、普通の将棋だと途中でエネルギー切れして、終盤グダグダになるか、最悪その場で眠っちまったりするかもしれねえけど、それでもいいなら」

「あめが泣かないんなら、僕は別にいいですよ、それで」

「よく言うぜ。昨日あめのこと泣かせたくせに」


 琥珀は、フン、と鼻を鳴らした。


「けど、まあ、おまえがお行儀よくあめと将棋指してくれるっていうんなら、俺は別に反対したりなんかしねえよ」

「それじゃ、約束ですよ」

「って、俺と約束してどうするんだよ。俺は、あめをここに連れてくることは出来るし、あめとおまえが将棋を指す邪魔をしたりもしないけど、あめのことをあんなふうに怖がらせて泣かせちまったおまえと、あめがまた将棋を指したいと思うかどうか、俺は知らねえからな。あめが、おまえのこと怖いって言って将棋を指すの嫌がったら、俺はもちろん、あめの味方するから」

「う……そ、それは……」


 僕はグッと詰まった。そんな僕を見て、琥珀はちょっとため息をついた。


「まあ、あめの熱が下がったら、俺またあめをここに連れてきてやるから。それでいいよな、陸翔」

「……はい。……よろしくお願いします」


 いろいろと、言いたいことはあったけど。


 それでも僕は、大人しく琥珀に頭を下げた。


 琥珀に脅かされたから、僕は二度目にあめに会う時まで、あめと会った時、あめが僕のことを、怖い怖いって言ってビービー泣き出しちゃったりしたらどうしよう、ってずっと心配してた。


 でも。


 僕と二度目に会ったあめは、ビービー泣き出すどころか、僕のことを見てりくにぃりくにぃって言ってニコニコ笑って短い手をパタパタ振って喜んだから、僕はホッとすると同時に、なぜだか妙に、ムッと、した。

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