第4話

「い――インチキだ、こんなの!」


 そう叫ぶ僕を、琥珀はニヤニヤしながら、瑪瑙はなんだか気の毒そうに、そして、あめは――。

 あめは、ただひたすらきょとんと、不思議そうに、細い目をパチクリさせてポカンと僕を見つめていた。


「おいおい、なーにがインチキだよ。自分が勝てなかったからってそりゃねえだろチビ?」


 琥珀はニヤニヤしながらそう言った。

 僕は、そう叫ぶ5秒前に、あめののほほんとした舌っ足らずな宣言を聞いていた。


「あーい! おうしゃま、ちゅかまえたー!」


 僕だったら――いや、普通の将棋指しだったら、きっとこう宣言しただろう。


「詰みです」――と。


「おー、詰んだなー、あめー」


 琥珀がそう言いながらあめの頭をワシャワシャ撫でた。瑪瑙があめに、にっこり笑いかけた。


 そして――そして――。

 僕は、叫んでしまった。

 インチキだ、こんなの! ――と。


「だって――だ、だって、歩のない将棋なんて、本当の将棋じゃないじゃないか!」

「まあ、そりゃそうかもしんねえけど」


 琥珀はニヤニヤしたままあっさりそう言った。


「でもよー、飛車角落ちとか、香落ちとか、五枚落ちとか六枚落ちとか、とにかくまあ、駒の全部を使わない将棋なんかいっくらでもあるじゃん。なのになんで、歩なしの将棋だけはそんなふうに、インチキだのなんだの言うんだよ? しかもよぉ、おまえのほうだけが歩なしでやったんだったら、そりゃインチキって言ってもいいかもしんねえけどよ、あめのほうだって歩はなしだったんだぜ? 条件おんなじじゃん。なのに、なーんでインチキって言われなきゃいけねえわけ?」

「だ、だって――だって、歩なしの将棋、僕は初めてだけど、そいつはそれに慣れてるんだろ!? ずるいよそんなの! ちゃんとした将棋でやったら絶対に僕が勝つのに!!」

「ああ、そりゃそうだろうな」


 琥珀は、またもやあっさりうなずいた。


「あめ、体力ねえからな。普通の将棋だと、勝負がつく前にエネルギー切れしちまって、終盤がグダグダになっちまうんだ。だから、普通の将棋でやったらおまえが勝つだろうな。――でも」


 琥珀はヒョコッと首をかしげて、なんだか嫌味ったらしく僕のことをジロジロ見た。


「今は、歩なしの将棋の勝ち負けが問題なんだろーが。俺、ちゃんとおまえに、普通の将棋でやってやってもいいって言っといたよな? でも、おまえは歩なしでいいって言ったじゃん。そんで負けたじゃん。それのどこがインチキなんだよ? あーあ、ったく、ガキは負けると超ダダこねるからいやだよなー」

「こちゃにに、それくらいにしておきなよ」

「……こちゃにに?」


 琥珀の言い草に物凄く腹は立てていたけど、不意に、瑪瑙が何だか変なことを言うもんだから、僕はついつい疑問を口に出してしまった。


「おい、めの、いい加減『こちゃにに』はやめろよ。兄貴――玻璃にぃは、もう家を出たんだから、今うちにいるめのの兄貴って俺だけだろぉ? だから、もう俺のこと『こちゃにに』って呼ぶ必要ねえだろーが!」


 琥珀が初めて、なんだかいやそうな顔をして瑪瑙のことを叱りつけた。


「ああ、うん、ごめん。つい癖でさー」

「あの……『こちゃにに』ってなに?」

「『こうちゃんにぃに』の略」


 琥珀は仏頂面でそう言った。


「俺の上にもう一人、『玻璃(はり)』っていう兄貴がいるんだよ。だから、兄貴が家にいる時――っていうか、俺の下のやつらがちっちゃい時は、俺のこと『こうちゃんにぃに』って呼んでたんだよ。俺の名前が琥珀だから、おやじやおふくろが、俺のこと『こうちゃん』って呼んでたんだよ、俺がガキのころ。だから、『こうちゃんにぃに』。それが縮まって『こちゃにに』。ったくよぉ、いい加減、そういうガキっぽい呼びかたやめろよなあ、めの」

「ああ、うん、だからそれはごめんってば」

「…………」


 琥珀と瑪瑙のどうでもいい話をボーッと聞いていた僕は、僕のことを、ポカーンとした顔で見つめているあめの視線にハッと気づいて、またもや頭にカッと血が上った。


「とにかく、僕は負けてない!!」

「……りくにぃ」


 ああ――思い出す。

 あの時、あめは、ただひたすらきょとんと、ただひたすら不思議そうに、細い目をポカンと見開いて、首をかしげて僕のほうを見ていた。

 琥珀みたいにニヤニヤ笑っていやがるんなら、瑪瑙みたいに気の毒そうな顔をしていやがるんなら、僕だってわかるんだ。別に、許すとかそういうんじゃ全然ないけど、それでも、わからないわけじゃないんだ。


 でも。


 あめはただ――あめは、ただ――。


 ああ、そうだ。


 あめはただ、ひたすら不思議そうにしていた。そして、ちょっと困ってもいたんだろう、と思う。あの時のあめは、僕がどうして怒っているのか、本当に全然、まるっきりわかってなかったんだ。


 ……もしかしたら、あめにとってはこの先一生、それが本当の意味で『わかる』時は決して来ることはないんじゃないか、って、今の僕は少し思っているけど。


 あの時の僕は、そんなことを思うどころじゃなかった。


「りくにぃ、なんで、おこるー?」


 あめは心底不思議そうに、首をかしげて僕にそう問いかけた。


「はぁ!? ば、馬鹿にしてんのか!?」

「うぅ~」


 あめが、べそをかきながら琥珀にしがみついた。


「りくにぃ、こわいー……」

「おい、陸翔、いい加減にしろ」


 琥珀が、細い目をギロリと動かして僕のことをにらみつけた。


「あめは本当に、おまえがなんで怒ってるのか全然わかんねえんだよ。ったく、こんなチビ相手にそんなおっかねえ顔しやがって。恥を知れ、恥を!!」

「……あめ、赤石君――りくにぃは、あめに将棋で負けたから怒っているんだよ」


 琥珀は眉間にしわを寄せてそう言った。琥珀の横では瑪瑙が、僕のことをジッとにらみつけながら、声だけは優しくあめにそう教えた。


「……う?」


 あめが、また、不思議そうな顔で僕のことを見つめた。


「まけると、なんで、おこるのー?」

「う――うるさいうるさいうるさいッ!!」

「うぅ~……」


 あめが、またべそをかきながら琥珀にギュッとしがみついた。


「りくにぃ、こわいよぅ……」

「よしよし、あめー、兄ちゃんが守ってやるから大丈夫だぞー」


 琥珀は、僕がちょっと泣きたくなったくらいに優しい声でそう言いながら、あめを抱っこして、よしよし、とあやした。


「――おまえ、今度あめのこと泣かせやがったらブッ飛ばすぞ」


 琥珀は、低い声でそうすごんだ。


「下手な証拠は残さないでよね、兄ちゃん」


 瑪瑙は、僕をにらみつけながら、冷たい声でそう言った。


「…………」


 僕のほうが悪いってことは、わかってた。

 謝らなくちゃいけない、ってことも、わかってた。

 でも、僕はどうしても、そうすることが出来なくて、ただ歯を食いしばって、両目から涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死の思いで食い止めていた。


「……あ」


 琥珀が、ふと、優しい顔で笑った。


「あめ、寝ちまったよ」

「え? ――ああ、ほんとだ。ああ……これじゃ、あめ、また熱出しちゃうかもね」

「え!?」


 あめの顔をのぞきこみながらの瑪瑙の言葉に、僕はギョッとした。琥珀に抱っこされて、本当に、ほとんど一瞬で、コテン、って感じで眠ってしまったあめの顔は、ほっぺたが真っ赤で、なのに、それ以外のところはなんだか青白いくらいに真っ白で、それを見た僕は、瑪瑙の言葉を疑うことが出来なくなった。


「ぼ……僕の、せい、ですか……?」

「いや、それに関してはおまえのせいじゃねえよ。強いて言うなら『将棋』のせいかな」


 琥珀はそう言いながら、あめを抱っこしてゆっくり立ち上がった。


「おーい、めの、抱っこひも装着するの手伝ってくれ」

「はーい、了解」

「そんじゃあ、まあ、俺らは帰るわ。あめと将棋指してくれてありがとな。最後は最悪だったけど」


 琥珀はそんな小憎たらしいことを言いながら、瑪瑙といっしょに抱っこひもであめのことを自分の体にくくりつけた。


 そう言われて当然のことをしたんだ、って、今の僕にはわかるけど。


 でも、その時の僕は、泣き出しそうなのを必死でこらえながら、琥珀と瑪瑙と、それからあめをにらみつけるのでもう、いっぱいいっぱいで、自分が悪かった、なんてこと――ほんとはわかってたんだけど、そう認めることも、きちんと謝ることも出来なかった。


「じゃあな、陸翔。お行儀よくするって約束するんなら、また、あめと将棋指させてやってもいいぞ」

「運がよかったね、赤石君。ここにいたのが僕らじゃなくて僕らの父さんだったら、君、絶対にただじゃすまなかったよ」


 そんなことを言いながら、琥珀と瑪瑙はあめを連れて帰っていった。




 二度とあんなやつと指すもんか、と、僕は思った。


 けれども、同時に。


 あめに負けたその瞬間から、僕はもう、次の将棋をあめと指したくて指したくてたまらなかった。

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