第3話

 違和感があった。


 なんともいえない、違和感があった。


 僕は本気を出した。いや、実は最初から本気でやっていたんだけど、その本気の上にさらに怒りのエネルギーがドカーンと乗っかった。


 だから、こんなチビ饅頭は、僕に叩き潰されるのが当然なんだ。現に、ほら、今は完全に、僕のほうが優勢じゃないか。


 ――と、その時の僕は思っていたし、それはある意味間違いじゃなかった。


 それなら僕は、いったいなにに違和感を感じていたのか?


「……うぅ~……」


 あめは、ポヤポヤした眉をひそめて、一所懸命考え込んでいた。それは別にいい。だって、僕が優勢なんだ。いくらでも考えろ。どうせ無駄になるだろうけど。


 ……でも。


 僕はその時、違和感の正体に気がついた。


 あめは、僕が見ているところとは、全然違うところを見て、困ったようにうなっていた。


 どこを見てるんだ? と、僕は思った。そんなところ、今は関係ないぞ。今は別に、そこは見なくてもいいところだぞ、と、僕は思った。


 思ったのになぜだか、僕は、口に出してそれを言うことが出来なかった。


「……ににー」


 あめが、困ったような顔をして琥珀を見上げた。


「どうした、あめ?」

「あめのおうしゃま、ちゅかまっちゃうよぅ!」

「あ? そりゃしょうがない。だって、将棋っていうのはそういうゲームだからな」

「うう~……あめ、おうしゃましゅきなのに……」

「だったら、取られないように頑張んないとな」

「う~……むじゅかちい……」

「そっかー、頑張れー。兄ちゃん応援してるぞー」


 なんてことを琥珀が言うから、僕は、こいつもしかしたら次の手を教えるつもりか!? ってギョッとしたけど、琥珀は別にそんなことをしたりはせず、ただ優しくあめの頭を撫でてやっただけだった。


 と。


 そこに、唐突に。


「おい! スマホの電源切るんじゃねーよ馬鹿兄貴! 父さんが心配するだろ!? 兄貴が一人で出かけたんだったら誰も心配なんかしねーけど、あめ連れて出かけた時には絶対にスマホの電源入れとけっていつも言われてるだろ!?」


 という声が響いたのと同時に、つかつかとやってきた詰襟学生服の中学――いや、たぶん高校の男子学生が、琥珀の頭を丸めたパンフレット(将棋道場の受付にいつもおいてあるやつだ)でスッパーンとぶん殴った。


「いってえな!? なにすんだよめの!? いちいち殴るなよ、口で言えばわかるっつーの!」

「兄貴は口で言っても全然わかりゃしねえから俺もこうするしかねえんだろぉ!? とにかくスマホの電源入れて、父さんに返信してやれよ!」

「わ、わかったわかった。……うげ、いつもながら、親父のヤンデレっプリマジパねえ……普通にキモいわこの異常な受信件数……ったく、これだから俺、スマホの電源切ってたのによぉ……」

「兄貴がそんなことするせいで、俺がこうやってわざわざ派遣されちまったんだろぉ!?」

「わかったって、うるせえな。あんまり騒ぐな、あめがびっくりするだろ」

「あ、うん、そこは謝る。ごめん。あめ、びっくりしちゃった? お兄ちゃん達、別にあめのこと怒ってるわけじゃないからねー」


 いきなりやってきた『めの』とかいう詰襟男子学生は、そう言いながらびっくり顔をしているあめの頭を優しく撫でた。


「……めの?」

「あれ? 君、初めて見る子だね。こんにちは、はじめまして。僕は、安藤瑪瑙(あんどう・めのう)。ここにいる琥珀の弟で、あめの兄だよ。よろしくね」


 そう言ってにっこり笑う、めのこと瑪瑙は、サラッサラの綺麗な黒髪で、目は黒目がちでパッチリしてて、色白で鼻筋がスッととおってて、はっきり言って琥珀やあめにはあんまり似てなかったし、それに、正直言って琥珀なんかよりもずっとイケメンだった。


「……赤石陸翔です。よろしくお願いします」


 僕は素直に大人しく、そう言いながら頭を下げた。僕は別に、礼儀知らずな人間ってわけじゃないんだ。相手がそうやってきちんと挨拶をしてくれたら、僕だってきちんと挨拶してやるさ。


「うぅ~……」

「あれ? あめが困ってる。へえ、あめを困らせるとは、赤石君ってかなり強いんだね」


 と、盤をのぞきこみながら瑪瑙が言った。僕は一瞬ちょっとだけ喜びかけて、次の瞬間、瑪瑙は実は、僕をほめたように見せかけて、ほんとはあめのほうをほめたんだってことに気がついてムッとした。


「めのにぃ」


 あめが、困り顔で瑪瑙を見上げた。


「あめのおうしゃま、ちゅかまっちゃうよぅ!」


 ああ、そうだ。


 あの時、僕はそこで、また違和感を感じた。


 だって。


 あの時は、僕が優勢だった。それは、確かにそうだったと思う。


 ――でも。


 でも――ああ、そうだ。僕は、僕自身は、僕が優勢なことはわかってたけど、でも。


 でも、僕自身はあの時、あめがあんなに困り果てた顔をするほどに、僕があめを追いつめているとは全然思ってなかったんだ。言い換えれば、あの時の僕にはまだ、『詰み』までの道筋が――僕自身の『詰み』までの道筋が――。


 あめに見えるほどはっきりとは見ていなかったんだ。今の僕ならそれがわかる。でも、あの時の僕にそれはわからなかった。僕はただ、なんだかひどい違和感と、そして不安とを感じていた。


「えぇ~? あめ、お兄ちゃんは将棋のことはよくわからないよ?」


 瑪瑙はそう言いながら、ヒョイと盤をのぞきこんで、5秒――いや、1秒もしないうちに首をかしげてこう言った。


「あめ、僕は、将棋のことはよくわからないけど、でも、あめはもしかして、忘れてることがあるんじゃないかな?」

「ええ~? わしゅれてりゅこと~?」

「そうだよ、あめ。あのね、あめ、将棋はね、自分の王様が捕まえられちゃう前に、あめが、相手の王様を捕まえちゃったら、そこであめの勝ちになるんだよ?」


 うわ、なに言ってるんだこいつ、と、僕は思った。そんなこと、当然中の当然じゃないか。そんなこともわからずに将棋を指す馬鹿がどこにいるっていうんだ。


 と、僕は思った。


 だけど。


「……ああ~! そっかあ!!」


 どうやらあめは、そんなこともわからずに将棋を指してたアンポンタンだったらしい。


「あめ、わかったあ! ねえ、めのにぃ、あめが、りくにぃのおうしゃまさきにちゅかまえちゃったら、あめのおうしゃま、ちゅかまらない?」

「うん、そうだよ、あめ」

「わかったあ!!」


 あめは、本当にうれしそうにニコニコと笑った。僕はその瞬間、なぜだかひどくゾッとした。


「あめ、りくにぃのおうしゃまちゅかまえりゅー!」


 あめは、その短い両手を元気よく万歳の形にして楽しそうにそう宣言した。


「なんだ、あめ、おまえまーた忘れん坊さんしちゃったのか。ったく、あめはドジっ子だなー」

「……うぅ~……」


 そんなすっとぼけたことを言う琥珀のことなんか無視して、あめは将棋盤をジィッと見つめた。


 いや――今の僕ならわかる。琥珀の言うことは、ほんとはちっとも『すっとぼけたこと』なんかじゃなかった。


 だって、琥珀は。


「あめ、おまえまーた忘れん坊さんしちゃったのか」って言ったんだ。と、いうことは、つまり――。


 つまり、あめにとってそれは、別に初めてのことでもなんでもなかったんだ。さらに恐ろしいのは――。


 そう、さらに恐ろしいのはそこから先だ。


「……あめ、わかったよ」


 あめは突然、プックリした唇をちょこんととんがらせるようにして、こっくりこっくりうなずきながらそう言った。


 そして、そこから。


 あめにとっては快進撃が、だけど、僕にとってはこの上ない悪夢が盤の上で展開された。

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