第2話
ガキンチョのでたらめなお遊びにつきあわされるんだろうな、と、正直思っていた。
そう思う僕自身、その時はたった小学校4年生の、立派なガキンチョだったんだけど。
でも。
制限時間も決めずに将棋を指しはじめてからたった5分で僕はゾッとした。
目の前のチビ饅頭、あめは、兄貴のデカ饅頭、琥珀の言うことを信じるなら、たった3歳でしかない(そして実際3歳にしか見えない、というか、下手をしたらそれよりちっちゃいようにしか見えない)チビ助なのに、誰にも教わらずに、きちんと将棋を指している。しかも、ほんの10秒かそこら考えただけで、パチパチパチパチ元気に指していく。いや、そうはいっても、でたらめに駒を動かしてたっていうんなら僕だって別に驚いたりなんかしない。ただうんざりするだけだ。だけど――ああ、僕、もうとっくに言ってたっけ。
あめは、きちんと将棋を指していた。駒の動かしかたを一度も間違えなかったし、僕が見る限りでは明らかな悪手――ルールには従っているけど、勝利にはつながらないような手を指したことも一度もなかった。あめは、細くて眠たそうな目をパチクリさせながら、プクプクした指の短い手(ついでにいうなら腕自体ものすごく短い)で、パチパチパチパチ楽しそうに盤の上の駒を動かして、僕の王将を追いつめていた。あめの腕が短すぎて、盤の上の駒に手が届かなくなったとき、あめの兄貴の琥珀が、ヒョイッと雨を抱き上げて、あめの手が盤の上の駒に届くようにしてやったのを見て、僕はなんでだかわからないんだけど、なんだかものすごくむかついた。
「教えちゃ駄目だよ」
僕は、今にして思えばいかにも子供っぽい言いがかりをつけた。
「教えてねえよ」
琥珀はあっさりとそう反論した。
「俺は、あめの手が届かねえから、あめを抱っこして駒に手が届くようにしてやっただけだよ。俺があめに、ひとこともアドバイスなんかしてねえの、おまえだってよくわかってんだろ? それともあれか? 俺とあめは実はエスパーで、テレパシーとか使って駒の動かしかたを相談したりしてるってかあ?」
「べ、別に、そんなこと言ってないけど」
「認めろよチビ。あめはただ単に、本当に将棋が強いだけなんだよ」
「ふ、歩のない将棋なんて正式な将棋じゃないじゃないか!」
「ああ、まあ、そりゃそうだけどさ」
琥珀はあっさりとうなずいた。
「でも、しょうがねえじゃん。だって、歩って邪魔なんだもん。別にさあ、歩なんかなくても王手をかけることも相手を詰ますこともできるぜ?」
「そ、そりゃ――そう、だけど――」
「んだよ、俺ちゃんと、おまえがどうしてもって言うなら歩を使ってやってもいいって言ったじゃん? おまえ、別に歩がなくってもいいって言ったじゃん。なのに、今さら何ガタガタぬかしてんだよ。ったく、ほんとに器のちっちぇえやつだなー」
「う、うるさい!!」
「……ににー」
琥珀にだっこされたあめが、なんだか悲しそうな顔で琥珀を見上げた。
「にに、りくにぃと、けんかー?」
「違うぞー、あめ。喧嘩じゃなくて、ディスカッションだ。ん? それとも、ディベートっていったほうがいいのかこういう場合?」
「う? でぃーでぃー?」
「あー、あめにはまだ、ちょーっと難しかったなー」
琥珀はニコニコ笑いながら、自分の膝に乗せたあめを揺さぶってしばらくあやした。
「あはっ、あはっ、あはっ!」
「ほーら、あめはおひざでピョンピョンが好きだなー。――で?」
「え?」
「おまえ、どうすんの?」
「なにが?」
「おいおい、ボケんなよ。で? おまえ、続き指すの、陸翔?」
「……指すよ、もちろん」
僕が盤の上の駒をパチリと動かした途端、あめがパチパチと拍手をした。
「りくにぃ、パチパチ、おじょうずねえ」
「そっかー? あめー、兄ちゃんも、パチパチ上手だろー?」
「うん! ににも、パチパチ、おじょうずねー」
そう言いながらあめは、またパチパチと手を叩いた。どうやら「にに」というのが「お兄ちゃん」っていう意味らしい。
「……僕はもう指したよ。そっちも、早く指せば?」
「せっかちなやつだなー。そんなんじゃ女にもてねえぞ?」
「別に、女にもてたくなんかないし」
「ガキだな、おまえ」
「……うるさいよ」
「――ににー」
僕と琥珀とのやり取りを無視して――いや、無視してて当然なんだ、この場合は。
だって、あめは、盤上の駒に全神経を集中させていたんだから。
「とどかなーいよぅ!」
「よーし、あめ、どれ動かしたいか兄ちゃんに教えてくれー」
「あんねえ――ひしゃー」
「よしよし、飛車なー。ほーら、これで届くだろー?」
「うん! にに、あいがとーねー」
「どういたしまして、っと」
琥珀に抱き上げられたあめは、盤の上に身を乗り出して、自分の手で飛車をつかんで、自分の手で動かして、自分の手で盤の上に置いた。琥珀は何も、ひとことも言ってない。どこに置けとか、どう動かせとか、そんなことひとことも言ってない。もちろん、琥珀とあめが、言葉以外の方法で情報をやり取りしている可能性だってなくはないけど、でも、たった3歳のガキにそんな暗号みたいなことを教え込むのと、たった3歳のガキに将棋のルールを教え込むのとじゃ、いったいどっちのほうが大変で、どっちのほうが難しいんだろう? その時の僕にはよくわからなかったし、今の僕にだってそんなのよくわからない。
「――なめんなよ」
僕は思わずそうつぶやいた。
「あめ、なめてないよー?」
「俺だって別に、なめてなんかねえぞ? ただ単に、あめはおまえより将棋が強くて、俺はおまえよりはるかに器がでかいっていうだけだぞ?」
「まだ負けてない!」
「おお、俺がおまえよりはるかに器がでかいっていうのは認めるんだな!」
「それも認めてない!」
「なんだよ、強情なやつだなあ。認めちまえよ、楽になるぜ?」
琥珀はそう言って、ニヤニヤと楽しそうに笑った。
「――ブッつぶす!」
僕は、そう宣言した。
「まあ、将棋でだったらいくらブッつぶしてもかまわねえけどな。あめだって、ここにいるじっちゃんばっちゃん達に、もうけっこう負けてるし」
琥珀はあっさりとそんなことを言い放った。
「けど――将棋以外のことであめをブッつぶそうなんてことしやがったら――」
琥珀の細い両目がギラリと光った。
「俺が――いや、俺だけじゃねえ。俺ら、家族全員で、てめえのことをギッタンギッタンにしてやる」
「そんなことするもんか。将棋で勝たなきゃ、意味がない」
「その誇りは大事にしろよ」
琥珀は真顔でそう言った。
「……うー?」
不意に。
あめが、不思議そうな顔で僕を見て首をひねった。
「りくにぃ、パチパチ、もうおわりー?」
「終わりなもんか!」
僕は、その叫びと共に盤上に僕の思いを叩きつけた。
その時僕は、なんでだかすごく腹を立てていた。なんで自分がそんなに腹を立てているんだか、その時の僕には全然わかっていなかった。
今の僕には、もう、あの時の僕がなんであんなに腹を立てていたんだか、なんとなく――いや、はっきりとわかっている。
あの時、僕は。
あめがうらやましくて、ものすごくうらやましくて、あんまりうらやましすぎて、それで腹を立てていたんだ。
今の僕には、それがわかる。
でも、あの時の僕には。自分がちょっと将棋が強いってことを鼻にかけてた、小生意気なクソガキだった僕には。
それが全然わからなくて、わからないからよけいに腹が立って。
だからきっと、あめにとって、僕の第一印象はかなり最悪だったと思う。
ああ、でも。
あめは、僕がいい手を指すたびに、ちっちゃな両手でパチパチ拍手をして、ニコニコ笑いながら、
「りくにぃ、パチパチ、おじょうずねえ」
ってほめてくれてたから、だから――もしかしたら。
もしかしたら、あめにとっては僕の第一印象は、実はそんなに、悪いものじゃあなかったのかもしれない。
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