Gから始まる夏物語

青山みゆう

第1話 オッサンと乙女

 うだる様な真夏の夜。酒癖の悪い同僚から解放され、ギリギリ終電に飛び乗ってようやく家に辿りついた。

 おかえりの返って来ない101号室のドアを開けると、籠った熱気が部屋に入らせまいと立ち塞がる。何とも言い難い臭気のおまけ付きで、だ。そういえば朝捨てようと思って纏めた燃えるゴミを出し忘れたんだっけ。

 足元に散乱しているサンダルを蹴っ飛ばして隅に避け、暗い部屋を手探りに照明のスイッチを付ける――そして目が合った。

 蛍光灯に照らされた正面の白い壁紙。その中心に映る黒斑点。不規則にカサコソと動くソレは紛れもなく奴だった。


「死ねっ!」


 新聞紙など用意している暇はない。明るい場所でのゴキブリの速さは異常だ。求められるのは見敵必殺と一撃必倒の心構え。

 瞬時にそう判断して土足で一歩踏み込み、手にしたサンダルを壁に叩きつける。

 しかし奴は見事なドライブインで攻撃を潜り抜け、先読みによる踏み潰しにもストップアンドゴーで対応された。


「糞っ!」


 中々やる完全体のようだ。そして華麗な回避運動を披露した黒い閃光はドアの向こう側へと姿を消してしまった。

 もう奴を仕留めるのは不可能だ。脱力感に浸っても仕方ない。

 靴を脱いで部屋に上がろうと指を踵にひっかける。ふと手の甲にお腹を膨らませた蚊が止まっていることに気付いた。

 躊躇うことなく次の獲物を仕留めにかかる。手を開くと一円玉の半分ほどの血痕が残っていた。仕留めたのにも関わらずイライラが残る。

 シャワー浴びるか。溜息と共に廊下にスーツを脱ぎ棄ててバスルームに向かった。






「ぷはぁっ。やっぱこれだよ、これ!」


 シャワーの後にキンキンに冷やした缶ビールをグイッと呷る。ちょっと値は張るが、発泡酒ではなく本物のビールだ。

 就職と共に上京してもう5年。特に趣味のない独り身なのだからこの程度の出費は苦にならない。クーラだって年中ガンガン。節約に五月蠅い実家暮らしの頃と違って全て自分で裁量できるのは素晴らしい。ビバ、独身貴族!

 何時まで起きていようが、部屋が酒臭かろうが、ティッシュが散乱していようが全部自由。だからゴキブリなんて出てくるんだけど。

 缶を手にしたまま万年床の布団に寝そべって、テレビのチャンネルを一巡させる。こんな時間だ。対して興味を惹く番組は何もなかった。しょうがないのでニュースを見ながら、肴もなしでビールをぐびぐび。


『……の住宅街の路上で六十代の女性を刃物を持った青年が突然切りつけ――』

「物騒だなぁ。二駅隣じゃん」


 自転車ですぐ行けるぐらいの距離で何だか大変なことが起きたらしい。他人事のように言いながら残り僅かな滴を喉へ流し込む。空っぽの缶を枕元に放置して、もう一本取りに行こうと冷蔵庫に向かう。


「どれにしようかなぁ?」


 ずらりと並んだ酒の列。もういっちょビールを行っておくか、それとも冷酒にしておくか悩みどころだ。うん。そうだ、アテで決めよう。

 下の棚を見るとプロセスチーズが目に付いた。四個入りの包と一緒にビールをもう一つ取り出す。景気良い音と共にプルタブを抉じ開け、第二ラウンド開始――――その矢先だった。


「きゃぁあああああああ!」


 こんな夜更けに微かに聞こえた悲鳴。どこからだ? 隣は空き部屋だし、上は確か男の一人暮らし。その隣も空き部屋だから、このハイツじゃないな。だって四部屋しかないし。前は空き地、後ろは老夫婦の家だから違う。これは路上の方だろうか? 

 汗の滴が背中を伝う嫌な感覚。あんなニュースもあったし、まさか、ね?


「いやぁあああ! 来ないでぇえええ!」


 もう一度届いた悲鳴と、天井から響き渡る足音。間違いない。上の部屋だ。

 自分はこんなときにどうするべきだろうか――――正直怖い。でももっと怖い思いをしている人がいるのに何もしないなんて絶対に嫌だ! 

 答えを出すのにきっと一秒も要らなかった。手近にあったコンビニ傘を手にし、階段を駆け上る。

 役に立たない可能性も高いし勘違いかもしれないけれど、ここで動かないのは性じゃない。左手でスマホのロックを解除して万が一に備え、二階の廊下へ出るとともに大きな声を発した。


「大丈夫ですかー!!」


 先程の声の主らしい人が廊下の手すりを背にして倒れ込んでいる。水色のラインが入ったセーラー服の彼女はどうやら普通の女子高生……ではなさそうだった。

 あの男、一体どんなことを強要していたんだ。俗にいう猫耳のヘアバンドを着用していた小柄な少女を見て、一気に緊張感が抜け落ちる。

 良く見れば皺も色落ちも全くないセーラー服の生地は、普段着用しているものではなさそうだった。


「あ、あのっ」

「大丈夫か? 彼氏に変なことされたの?」

「い、いえっ」


 ふるふると首を横に振って彼女は否定する。くそっ、可愛いな。

 彼氏が羨ましいというかちょっと憎い。全然合わないから顔もイマイチ覚えていないけど、コスプレを強要する変態野郎にこの子は勿体ない気がする。てか、彼女さんが怯えているというのにどこに居るんだ、全く。


「あ、あの、アレがっ」


 そう言って指差す先に居たのは、またしても奴だった。

 ゴメン、これはきっと自分のせいだ。ある種の確信と罪悪感が肩に重く圧し掛かる。


「あー、ゴキブリね。ちょっとジッとしてて。絶対仕留めるから」


 傘じゃ駄目だな。奴を相手にするには面積が必要だ。スリッパで叩くか角に追い詰めて紙でくるみ込むかがベストというのが自論。ちょうどいいやと、サンダルをそっと脱いで右手に装備した。

迅速に、確実に、今度こそ殺すと意気込んで腰を低く構える。

 ドアの敷居の上で奴は這いずりまわっている。まだだ、落ち着け。敷居の微妙な段差が奴に逃げるスペースを与えてしまう。ここは落ち着いて、平らな所に出るのを待つべきだ。


 勝負は一瞬、少しでも奴が―――――――動き出したそのとき。


「うらぁああ!」


 気合いを吐き出すと共にサンダルを振り降ろす。我ながら良い仕事をした。奴が廊下に出たところで見事に標的を捉えた。後は確実に死んでいるかどうか。生死を確認するなんて悠長なことはしない。

 確実に止めを差すべくサンダルをそのままの状態で履きなおし、床にねじ付ける様に体重を思いっきりかける。小さな命が潰れた感覚が確かに伝わった。南無。


「チラシかなんか、コイツを包める紙を持ってきてくれない?」

「ありがとうございます。えっと、その。もう、大丈夫なんですか?」


 立ち上がった彼女は恐る恐る近づいてくる。


「ばっちり潰したはずだけど、何なら確かめてみる?」

「遠慮しておきます。何か取って来ますね」


 裸足のまま飛び出していた彼女は玄関マットで足をきちんと拭いてから、可愛らしく中へ上がって行った。中を覗けば随分と片付いているし、自分の部屋と大違いだ。うん、明日は掃除をしよう。


「これでいいですか?」


 そう言って手渡されたのは二枚分のキッチンペーパー。そしてバケツ型のごみ箱もしっかり持って来てくれた。何気ない所で女子力高いな。


「サンキュ。あ、苦手なら見ない方がいいよ。グロイから」


 サンダルを上げてみれば、奴の残骸。付着した内臓ごと包んでポイ。これで一件落着だ。


「もう大丈夫だよ。大変だったね」

「いえ、こちらこそこんな夜にすみませんでした。女性なのに強いんですね」

「ん~? 大したことないよ。見ての通り私ってこんな性格だしね。ゴキブリなんて慣れっこ慣れっこ」


 見た目はともかく、中身だけで判断したらそこらのオッサンと変わらないからな、私。思わず苦笑いすると彼女も引きつった笑みを返してくれた。ちょっと気まずそうだ。話題を変えよう。


「ねぇ、彼氏さんはどこ行ったの?」

「うん、今日は出掛けちゃってて留守を預かってるんで……」


 気まずそうに口ごもる彼女。目が完全に泳いでるし、地雷だった?


「もしかして彼氏と喧嘩した?」

「ま、まぁそんな所です」

「じゃあ、お姉さんが相談に乗ってるあげる。せっかくなんかの縁で出会ったんだし、朝まで飲もう! そんな服来てるけど、もう二十歳越えてるでしょ?」

「もうすぐ二十四ですけど……って、えっ? ちょっと勝手に上がらないで。ええぇっ!?」


 焦る彼女も可愛いなぁ。ウチの後輩たちもこんな子だったら良いのに。


「良いじゃん、良いじゃん。ゴキブリやっつけてあげたんだし、お姉さんの愚痴に付き合ってもくれても良いと思うけどなぁ」

「え、でも、自分の部屋じゃないですし……」


 こうも拒まれると何故か無性に入りたくなるものだ。両手の人差し指をツンツンと合わせる彼女の仕草が目に留まる。もう、本当に可愛いなぁ。そんな乙女心は私どっかに置いてきたよ。

 弄りがいのありそうだな、この子。と、エロ親父の感覚な私はもう女としてダメなのかもしれない。


「あ、もしかして彼氏の洗濯物を嗅いでオナニーしてたとか? それとも彼氏のオカズ発見して読みふけってたとか?」

「そんなことしませんって!」


 唾が飛んでくるぐらいの剣幕で、ちょいとキレ気味で返された。加減を間違ったかもしれない。


「ゴメンゴメン、冗談だって」


 平謝りしながらも彼女の頭をグルグルと力強く撫で回す。


「ちょ、ちょっと、止めて下さい」

「あー、もう仕草がいちいち可愛いな。お姉さん襲っちゃおうかな? 干からび過ぎてもう私、女相手でも良いかもしんない」


 襲うなんて冗談だけど、この子の恋愛事情を肴にするのは凄く良さそうだ。胸に押し付けるぐらいの勢いで、両手で更に力強く撫でまわそうと試みる。が、ずりっと手が思わず滑り落ちる感覚。え?


「―――――ずりっ?」

「あ、あのう」


 はらり、と何かが床に落ちた後、蒸し暑いはずの玄関の空気が一気に冷え込んだような気がした。


「ヅラ、だよね?」


 床に落ちたソレを目の前に掲げて問い詰めると、無言で「彼」は頷いた。


「ねぇ、君って男だよね? 何で、こんな、格好を、してるのかなぁ?」


 何で私も二階の住民の顔を覚えていなかったのだろうか、不覚だ。そういえばハスキーな声だし、女物の靴が一足もないし、気付く余地はあったはずなのに。


「いや、その僕は」

「オカマ?」

「いえっ、違います。いつも女装生主やっててそれで……」

「なまむし?」

「いぇっ、だからその……なんというか……」


 聞き慣れない言葉だが、オカマではないらしい。ふむ。


「まぁいいや。ちょっとお姉さんとお話ししよっか?」


 勝手の分からない部屋に上がり込んで「カモン」と貧弱な彼を呼び寄せた。別に怒っている訳ではない。この珍妙な生き物のおかげで今晩は退屈せずにすむかもしれないと、微かに期待を抱かざるにはいられなかった。

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