高価な魔法
ランに続いて車の後部座席に乗り込む。運転手が、開いてくれていたドアを静かに閉める。
たまにランが乗ってるトコを見掛ける黒くてピカピカしてる高そうな外車だ。ハンドルは右側に付いてるが、やたらデカいしシートも広いし雰囲気からして多分外車に違いない。
ついさっき呼んだにしてはやたらと来るのが早いが、ランの家のことだからラン専用の車が授業の間中ずっと待機してるとかなんだろな。
オレたちが乗り込んでも車は発進しない。
「ユキトさんの仰るその喫茶店に二人がいる可能性は低いと思います。行けば何らかの手掛かりはつかめるかも知れませんが」
「だけど他にアテがないぜ」
「複数の魔法が発動されている所を探してみようと思います」
思います、と言いながらランの中では決定事項なんだろう。
普段はあんまり主張もしないし控えめなんだけど、バグハントの時なんかじゃ重要なポイントではキッパリとしたリーダーシップをとる。たぶん本人は自覚ないんだろうけど、こういう所が女王様気質なんだよな。
って、
「そんなことできるのか?」
もちろんできるからこそランは言ってるんだろうけど、つい訊き返しちまう。
さっき魔法を使うとか言ってたけど、あったっけ? そんな魔法。
「『魔女の水晶』、通信費は少し高額なのですけど、自分の張った結界内だけではなく広い範囲の魔力を感知することができます」
なんとなくそんな魔法もあったような気がする。
だけどランが高額って言うぐらいだからそうとう高いんだろうな。たぶんオレには無縁な値段のヤツだから、最初から記憶に引っ掛かりもしてないんだ。
「便利そうな魔法だな」
「カンパニーでも使われている魔法ですわ。ただ……」
ランの顔が曇る。
こんな事態だというのに、間近で見る人形のように綺麗な憂い顔に思わず引き込まれる。
「何か問題があるのか?」
「さすがにこの規模の魔法を使うとなれば、カンパニーからお父様の方に連絡が入ると思いますの」
「高いから父ちゃんに怒られてしまうって?」
「いえ、叱られはしませんし、金額も問題はありません。けれどもこの魔法を使う経緯をお父様が知れば、わたくしはもう魔術士としての活動は許してもらえなくなるかも知れません」
そりゃそうか。
マッチングが考慮されるバグハントとは違い、相手は何をしてくるかも分からない人間。これはランの身にも危険が及ぶかもしれない事態なんだ。
羽戸グループの総帥ともあろうものが、自分の娘がそんなことに首を突っ込んでいるのをこれ以上許し続けるはずはないよな。まあランがバグと戦ってる時点ですでにアレなんだけど。
「もちろん、ウメノさんの身に換えられるようなことではありませんけど」
ランはオレが口を開く前に慌ててそう付け足した。
浮かべた微かな笑みになんとなく諦めと寂しさのようなものが見えた……ような気がする。
「なあ、一度訊いてみたかったんたけど、ランはなんでバグハントなんてやってるんだ? お金のためじゃないよな」
幾ら異界と交信する能力に目覚めたからといっても、バグ退治は別に義務じゃない。
ランのような身分にある者が、好き好んで危険な戦いに身を投じる理由が、オレなんかには皆目見当がつかない。
少し首を傾げてからランは答える。
「それはユキトさんにしても同じことではありません? いつも必要以上に強力な魔法を使うから、バグを退治してもたいてい収支トントンでしょう? ユキトさんもやっぱりお金を稼ぐためには見えませんわ」
収支トントン……何となくそんな気がしていたけど、あらためて人から言われると中々ショックがでかいな。
魔法はついつい自分の好きなヤツを使ってしまうだけなんだけど、それは置いといて、じゃあお金のためにバグハントをやってるのかと言われると、成る程、それも違う気がするよな。
……いや、改めて考えるとなんでだろ?
「オレは……」
魔術士活動をやってる理由……。
うーむ、簡単なような気がするんだけど、言葉にしようとすると難しい。
「もしかすると黒ずくめの方たちも私たちと同じなのかも知れませんわね」
「え?」
意味が分からず訊き返しても返事はない。
ランの呟きはオレに向けられたものと言うよりは、ラン自身に向かって言っているように見えた。
「出して」
どこへ、とも言わずランは運転手にそれだけを告げる。
五分ほど走った所で車は一見マンションのような外観の立体駐車場に入った。
入場ゲートを過ぎて幾らも行かないあたりの、駐車スペースでもないような所で車は止まる。
後部座席のドアを開けるために車を降りようとする運転手を待たずに、自分でドアを開けてランは外に出た。慌ててオレも続く。
広い場内に人気はなく、車の数も数えるほど。
「少しスペースが必要なのですわ」
ランは奥へと進んでいく。コツコツとパンプスの音が響く。
「ここはウチのグループの経営している駐車場で、その車もいつもここで待機してもらってますの」
言うとランは確認するようにふと目線を運転手に向ける。
運転手は「はい」とだけ答えて深々と頭を下げる。
「この時間ですから入ってくる車もほとんどないとは思いますけども、念のためにメンテナンス中ということで入場禁止にしてありますわ」
いやいや、手際良すぎるだろ。その高級車を呼んだ時にそんなことまで手配していたのか。
「では」
「もうやるのか」
「少しでも時間が惜しいですわ――」
ランは更に三歩進んで足を止めると天を仰ぐ。
その目は、梁とかパイプの走るあんまり高くはない天井に向けられているが、見ているのはそこじゃない。
異界の神の存在を感じ取り、その感じ取ったモノに胸の奥からの糸を繋ぐかのように意識を集中しているんだ。それからその糸に言葉を載せて、送る。
『その身腐り堕ちし魔女よ マナ見し水晶の眼を我に貸し与えん――
ウイッチ・アイ・ビュー』
ランの言葉が終わると同時に行われる魔式のダウンロード――
細い文字列が幾筋もこちらの世界に流れ込んでくる。この魔法、文字列が一つじゃないのか。
それにしても一つ一つは細くて短いのにやたらと数が多いな。
しかも文字式の、この空間での落ち着き方も何となく気味が悪い。まるで張り巡らされた血管のような感じだ。
異文字からなる血管は真珠のような鈍い輝きを放ちながら、ランの発動のワードを待ってる。
ランの唇が静かに言葉を作る。
「エンター」
ランの声の、陶器を弾いたような響きの余韻とともに蒼く発光して消える魔式。
入れ違いに現れるのは赤、青、紫の本物のぶっとい血管。
って、血管だと!? ダメだ、オレ、グロイの無理……。
血管たちがものすごい勢いでひとところに集まり始めた。
そしてランの少し前方の空中で縒り合い、絡まり合い、糸玉のような塊を造り出す。
そしてその塊の中から血管を押し別けながら――ぎょろりとした眼球が現れた。
つか、コレ完全にホラーだ、カテ違いだ。
目ん玉はまるで下界を観察するかのようにぎょとぎょとと動く。
と、突然大粒の泪を一滴落とす。
続いてもう一滴。
さらに一滴。
眼球が溶け出したかのような雫がぼとぼとと地面に落ち、落ちた場所でそれぞれが赤や青や白の発光体として留まる。
落ちる雫は止まらず、薄暗い駐車場の床に無数の光が散らばる。なんか夜景みたいだ。
「これはこの皆星市の地図になっています」
「魔力を感知するって言ってたけど……」
「この光点の一つ一つが魔術士の使う魔法、ダウンロードされている魔式、異界に呼び掛けている声、こちらに出現しているバグや出現する前の魔力の偏りを表しています」
「やっぱこのそれぞれの色に意味があるん――」
言いながら何気なくランの顔を見て、言葉が止まる。
「って、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
ランの顔は真っ白だった。さらに心もち眉根を寄せて、辛いのをガマンしているように見える。
もしやコレ、魔術士に極度の負担が掛かる魔法とかなんじゃないのか。
ランから途切れ途切れの言葉が返ってくる。
「いえ。大丈夫……ではありませんけど……頑張ります、わ。わたくしグロテスクなのが苦手で……」
って、そっちかい!
いや、それはそれでしんどいだろうけどさ。一瞬めちゃくちゃ心配になったから、何か損した気分だ。
「この魔法は任意で範囲の指定ができます。最大なら世界全部を視ることができるのですが、今はこの皆星市だけカバーすれば十分だと思います」
目玉は相変わらずギョトギョトと動き、時折雫を滴らせている。
床の上では徐々に、あるいは突然に消えていく光点もある。さすがにカンパニーが使用するだけあって、これは映画なんかで見る司令本部のレーダーモニターを見てるような気になってくるな。
んで肝心の敵のアジトだが、オレの素人目からも見ても一目瞭然でそれっぽい所がある。
「なあ、もしかしてそこの光の集まっているところが……?」
一箇所だけ、やたらと蒼と翠の光が集まっているところがある。
眼球からの泪が落ちたかとおもうと、先に光っていた光がパッと消えたりして、そこだけにやたらと目まぐるしい変化が見て取れる。
「わたくしの考えていたとおりですわ。おそらくあの方たちは魔法を使うことそれ自体を目的としています。ですからバグと戦っているわけでなくても、人数も多いですし常に誰かが魔式をダウンロードしているんじゃないかと思いましたの」
常に魔法か。えらく景気のいい話だな。
「でも、魔法を使うこと自体が目的ってどういうことだ?」
「あら、ユキトさんは憶えがありませんの? 魔法が使えるようになった当初、とにかく使ってみたくて色々な魔法を試したりしませんでした?」
いや、ウチみたいな庶民にはそんなことできねえって。
ん? じゃあ黒ずくめたちの魔式ダウンロードの通信費はどうなんだ?
やつらみんながみんな金持ちってワケでもないだろうし。それどころかオレを襲ったB系のヤツラなんて金なさそうな感じだったしな。ま、今気にすることじゃないけどな。
「とにかく、そこにヤツラがいるんだな」
と言っても、それが実際の場所だとどこになるのかオレには皆目分からないけど。
「おそらく」
ランには分かってるらしく、魔力地図を指さしながら運転手に何やら説明を始める。
短く簡潔な説明のようだったが運転手にはその場所が分かったらしい。
「かしこまりました」
と頭を下げると、車の後部座席のドアを開ける。
乗り込む前にランは一度足を止めた。そしてこっちを向かないまま消え入りそうな声で言う。
「ユキトさん、ごめんなさい。最初からこの魔法を使っていれば、こんなことにはならなかったのに……」
いや、そんなことはないぞ――そう言いかけるが、思い直してオレは口を噤む。
ランはきっと、自分の魔術士活動と、みんなの敵を見つけ出すことを天秤にかけ、そして結局この魔法を使わずにいることに、ずっと引け目を感じていたんだ。だからこそ率先して対策を講じていたんだろう。
そしてとうとうウメノが姿を消すに至ってはかなりのショックを感じたんじゃないだろうか。
そんなランに対して軽々しい慰めの言葉なんて、掛けられるもんじゃない。
いや……でも、やっぱり……。
「そんなことないぞ」
オレはランの背中に向かって言う。
理屈はつけらんないけど、やっぱり、どう考えても、そんなことない、としか思えねえよな。
「せっかくランの魔法のお蔭でヤツラの居所が掴めたんだ。ホラ、とっとと行ってブッ飛ばしてやろうぜ」
「ユキトさん……」
一瞬のためらい。それから振り返ると、
「ありがとう」
ランは見たことのない顔でにっこりと笑った。
それはまるで子供みたいに無防備で。
オレは、これまでとは全く違うところでドキンとしてしまった。
「い、いや」
思わず口籠もって目を逸らしちまう。そもそも礼を言われるようなことをしたワケでもねえし。
「――で す け ど」
で す け ど ?
「どうやってブッ飛ばすおつもりなのかしら?」
笑顔一転、冷ややかな眼差し。
「う」
……すみません、雰囲気で言いました。
何も考えてませんでした。
――くすっ
「え?」
小さくなるオレを数秒氷の視線で見つめた後、ランは吹き出した。
これまた、これまでには見たことのなかった悪戯っぽい笑い。おかしそうに口元に手を当ててる。
……って、一体なんなんだよ?
「すみません。わたくしに考えがあります。とにかく車に乗りましょう」
駐車場を出た車は街中を走る。
道は空いていて信号にもあまり引っ掛からない。こうやって窓ガラス越しに平日の昼間の街並みを見るのは何だか変な感じだ。
「まず、今日のところはブッ飛ばしません」
ブッ飛ばすという言葉でさっきのやり取りを思い出したのか、ランの声には微かに(笑)が含まれてる……ように感じる。
「え、だけど……」
「相手は二十人ほどで、こちらは二人。単純に人数でも十倍、その上にユキトさんはまだ魔法を使えませんわね?」
いや、改めて言われると、とても勝ち目なんてなさそうだ。
「この前の戦いではわたくしたちは準備をして相手をおびき寄せました。だから良いところまでいったんですわ。張った罠にうまく掛かってくれたようなものですから。ですけど今は何の準備もしておりませんし、これから行くのは向こうの本拠地。逆に罠を張られている可能性もあるぐらいです」
状況は厳しいがそれを口にするランは、表情こそ張り詰めた弓みたいに真剣だが、何だか生き生きとしている。
「ですから、今日のところはウメノさんの救出だけを考えます」
よろしいですわね? と念を押すようにオレの目を見つめた。
半ば勢いに圧されてオレは頷く。
ウメノの救出――もちろんそれが最優先なのは分かってる。でも、それにしたって難しさに違いはないんじゃないのかな。
オレの疑問が顔に出てたのか、ランは間を置かずに言葉を継ぐ。
「これにも魔法を使います」
「なんの?」
「『妖精王の鱗粉』ですわ。ご存知かしら?」
「よっ!?」
妖精王の鱗粉……。
オレは一瞬、返答に詰まる。その理由は、知ってると答えたら、要らない疑いを招きそうな気がしたからだ。
そう。ご存知も何も、それはオレが憧れ続けている魔法――
さっきランが使ったほどじゃないかも知れないけど、なかなかに高価な魔法――
透明人間になる魔法じゃまいか!!
はっきりとした返事をしないオレに、ランが細めた目を向ける。いや、あからさまな疑念と侮蔑が込められた視線だな。カリン先生に迫る冷たさじゃないか。
って、オレは慌てて返事する。
「いや、知ってる、知ってるよ。使ったことはないけどな!!」
「知ってるなら話しは早いですわ。この魔法であの方たちに見つからないようにウメノさんを捜します」
うん、ランの声は冷たいままだ。きっと使ったことないって言葉は信じてないな……。
五分も走ったあたりで行き交う車がトラックばかりになり、なんだか見たことのあるような街並みが窓の外を流れ始める。
工場や重機や資材などが置かれてある砂地剥き出しの広場。幾つか向こうの筋に覗く高架道路。
「ラン、この辺りって……」
「ええ、皆星市の東区域です。前にあの方たちと一戦交えた辺りからそう遠くはないですわね」
やっぱりそうか。煙突から雲のような真っ白い煙があがってたりして、夜とはちょっと印象は違うけど、見憶えあると思ったんだ。
「もう近いのか?」
オレが訊くとランはスマホの地図アプリと周りの建物を見比べる。
「もう少しですわね。この辺りは大小の工場が立ち並ぶ工業地域ですけど、倒産した零細企業の工場などは解体されることなくそのままになってるものも多いそうです。おそらくはそういった所を潜伏場所として利用しているのではないでしょうか」
確かに、二十人からの人間が入れ替わり立ち替わりするには街中では目立ち過ぎるもんな。その点、こういうトコなら夜はほとんど人気もなくなるし、アジトにはもってこいってわけか。
「この辺り……たぶんあの建物ですわ」
ランがフロントガラスの向こう、右斜め前方あたりを指さす。
三角屋根の二階建て、トタン造りの全体的に錆びついた工場だ。
「このまま行き過ぎて」
目的の建物に近付いたところでランが言う。
「はい」
車は三区画行き過ぎてから右に折れて停まる。
周囲に車の通りはなく人の気配もない。
「ここで魔法を使います」
「え、ちょっと待って。心の準備が」
「待てません。こんな所に車が停まってるのを発見されれば警戒されてしまいます。
『隠れし者の王よ 彩絶えなき者の王よ 汝の分け与えし加護は 見えず聴こえず知られず 我にただ触れることのみを許す
――ハイド アンド フェアリー 』
――エンター」
ヘケケケという笑い声が聞こえたような気がした。
車の天井からキラキラとした白い輝きが降ってくる。
魔式自体は車の上の空中でダウンロードされて、そのエフェクトが天井を通り抜けて降りてきたんだろう。
銀粉のような煌めきが体に纏わりつく。
触れた所はその向こうが透けて見えるようになり、隣を見るとランも身体のいたる所が消えている。
これが……これが憧れの透明人間!!
工場に向かって歩きながらオレは何度も自分の腕や足を確認する。自分の感覚としても触った感触としてもそこにあるのに、やっぱりしっかりと消えている。
「この魔法は姿が見えないだけではなく私たちが立てる音も消し去ってくれますの。ですが消えている者同士だけは会話が可能ですわ。まあご存知だとは思いますけど」
そう話すランの消えっぷりも完璧だ。
何もない空間が話し掛けてくるような感じがする。
「いや、ぜんっぜん知らなかったよ! 何しろこんな高い魔法使うの初めてだからなあ」
「あら、お値段はご存知なんですのね」
ぐ。何だか喋れば喋るだけ事態が悪化してくような気がする……。
いっそ、この魔法でお互いの音も聞こえなくなってくれりゃ良かったのに。
「お、音を消すってどのぐらいの範囲で?」
「話し声や、足音のような私たちが直接触れることで出る音は消してくれます。ですが投げるなどして手から離れた物が何かにぶつかったりする音は消せませんのでご注意を」
よし、上手く話しの流れを変えれたぜ。つか、ホントに必要な話なんだけどな。
とりあえず音に関しちゃ、間違えて何かを蹴っ飛ばしたりさえしなけりゃ大丈夫、ってトコかな。
あ、そだ
これは訊いとかないと。
「制限時間は?」
かなり重要なことだ。
敵のまん前でいきなり効果が切れたりとかはシャレにならんからな。
「特にありません。わたくしが魔法を解除するまでは効果は持続します。ただ一つやっかいなのが、妖精王は他の神の力の気配を嫌います。ですので『妖精王の鱗粉』を使っている間は他の魔法は使えませんし魔法による肉体強化も治癒もできませんの。まあ消えている限りは敢えて他の魔法を使う必要もないとは思いますが」
ランはそこで一旦言葉を区切ると、一呼吸おいてからこう続けた。
「まあご存知かも知れませんが」
なんだよ! 全然逸らせてねぇしっ! つか、冤罪だって!!
とにかく、魔法のは重ね掛けはできねぇってことだな。まあ、どのみちオレは魔法使うお金ないけど。
実際には完全に無一文というわけじゃないんだけど魔式ダウンロードするには心許なさすぎるんだよな。
たしか口座には三千円ぐらいは残ってたはず。三千円もあれば、普段の生活ならお菓子にも困らないし、ドーナツ屋とかハンバーガー屋なら何度か行ける。
だけど、これで魔法を使うとなるとギリで『空気砲』一発ってとこなんだよな。
空気の弾を飛ばす魔法だけど威力はせいぜいがオレの全力パンチと一緒ぐらいってところ。これだったら普通に殴った方がマシだ。タダだし。
門の隙間を抜ける。
工場は二階建て。
と、言っても一階部分がやたらと高く、それに比べると二階はおまけっぽい感じの造りだ。正面には、トラックがそのまま入っていけるぐらいの大きなシャッターがでんと構えている。開けれるかどうかは試してみないと分からないけど、もちろんそんなことはできない。見たところ他に入り口はなさそうだが、横か裏には勝手口ぐらいはあるだろう。
オレたちは建物右手に回る。
横面の壁にはオレが手を伸ばせば届くかどうかという高さで窓が並んでいる。明かりとり用の窓なんだろう。
扉はなかったが、階段があった。外付けの金属階段は途中で一度折れながら二階に続き、登り切った所に扉がある。
「行ってみましょう」
ランが言う。
声の位置からしてすでに階段の方へと向かっているっぽい。
足音も立てずにオレたちは階段を登る。
いやこの魔法って、ホントに侵入とかそういうのに向いてるよな。どうしても悪用しか使い道が思い浮かばねえ。まあ善行に使えそうな魔法ってのも少ないかも知れないけど。
階段の途中、ちょうど折れている所で窓の中を覗くことができたが、砂埃で曇ったガラスはそのすぐ向こうに物が積まれているみたいで、幾ら目を凝らしても中の様子は見えない。まあここから覗くよりも、とりあえず入ってしまえれば、その方が早いよな。
――ガチャン
上の扉の開く音だ。建て付けの悪い扉を半ば力ずくで開くような。
なんだやっぱり鍵掛かってなかったんだ。
それにしてもランもけっこう強引だな。あの音はヤツラに聞こえちまうんじゃないのか?
と、階段の先を見上げると、ドアから男が出てくるところだった。ランが開けたんじゃなかったのか。
「ちょうど良いですわね」
ランの声はオレのすぐ上の辺りからしていた。
まだそんなには上がってなかったんだな。
「あ、うん、そうだな」
他の人間には聴こえないと頭で分かってはいても、距離も近いし返事はついつい小声になっちまう。
「あのドア、鍵は掛けてなさそうですけど、今のうちに入れ違いに入ってしまいましょう」
「わ、分かった」
オレは一応そうは答える。改めて降りてくる男を見上げてみる。昨日オレが撃退したヤツラと同じようなB系のダボッとした服装。
だけどデカいのはジーンズやトレーナーだけじゃなくてそれが包んでる体も特大だ。縦もそこそこありそうだけど、何より横幅がすげえ。ほとんど階段いっぱいを占拠している。
これをどうやって躱したらいいんだ?
「この方にはわたくしたちの姿は見えませんし、音も届きません。ですが触ることはできますので、接触はしないよう気を付けてください」
ランの声はすでにドア近くあたりから聴こえてきた。
とっとと階段を上まであがって、ドア前の僅かなスペースで男を躱したんだろう。
「分かってるけど」
こりゃあ思いっきり身を縮めても絶対に当たる。
一度下まで降りて戻るか。
「ユキトさん早く」
ドアが閉まっていかない。たぶんランがドアが閉まらないように体で止めているんだ。
無駄に何度も開け閉めをしたくないからだろうが、いつまでも開いたままになってても誰かが閉めにくるかも知れない。
仕方ない。オレも慌てて階段を駆け上がる。デカ男の直前で横の柵を跨ぐ。階段の淵ぎりぎりの所に爪先で立ち、手すりをしっかり握って空中に身をさらす。いや、これ意外と怖ぇえ!
デカ男が階段を下りるドスドスという振動で鉄骨階段全体が揺れてるし。
オレのまん前を鼻歌混じりに過ぎていくデカ男を見てたら、もしも気紛れで腕でも振られたらオレ落ちるよな、なんて考えが浮かんでくる。
いや、ダメだ。そんなこと考えてる方がホントになっちまう。もしも落ちたらただ事じゃ済まない高さだし。
と、そこで、
「ふわぁ」
――ブン
「ひゃっ! う、うわ、ちょっ」
オレは慌てて柵にしがみつく。全身から冷や汗が噴き出す。
「び、ビビった……」
デカ男が突然伸びなんてしやがるから、びっくりして手が滑りそうになったじゃないか! 本当に死ぬかと思ったぜ。
そんなオレの死闘には気付くことなくデカ男は階段を下りて行った。
「おまたせ」
再び柵の内側に戻って階段を駆け上がるとオレはランに声を掛ける。
「早く入りましょう」
死線を潜り抜けたオレにねぎらいの言葉の一つや二つあってもいいんじゃないか、とは思うが、いかんせん見えてないのだから仕方がないか。
ドアをくぐると壁に沿ったキャットウォークに出た。
今にも抜けそうな床とボロボロに錆びついた手摺が、なかなか不気味さを演出してるじゃないか。
すぐに崩れてしまいそうな手摺には触らないように気を付けながら下を見る。
吹き抜けの工場内部は所々残された資材なんかが積まれたままになっているけど、工作機械なんかは全て撤去されているらしく全体的にはガランとしている。
もちろん黒ずくめどもの姿もある。その数は、ひいふうみい……死角になってる場所もあるけど、見えてるのは八人か。
いや、今は誰も黒ずくめの恰好はしていないんだけど、建築資材に向けて炎をぶっ放したりしてヤツもいるから間違いないだろう。
ウメノと長井の姿は――ない。
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