桃の花

ちぷり

桃の花

そろそろ行かなくちゃ。

公園を吹き抜ける風に、春の温かさは微塵もない。心に吹く風のように。

最後の希望はお昼前に潰えた。

才能がないことはわかってる。夢にすがってきただけだ。だからそろそろ目を覚まさなきゃ。


故郷に帰ろう。


決心が揺るがないように、切符を求めて出版社から駅への最短ルートを歩いた。城址公園を横切るコースだ。

石垣沿いの道は、夏なら日差しを柔らかい緑色の光に変えて降らせてくれるけれど、今は灰色の枝が空を格子状に仕切るだけ。兵どもが夢の跡。隆盛を誇ったお城も、こんな寒い日に散歩する人影は殆どない。

足早に歩いていくと、開けた公園に出る。

芝は枯れ、私の部屋の畳みたいだ。


風が冷たく、足取りは次第に重くなる。体中の潤滑油が澱んだみたい。出来の悪いロボットのように歩く度に頭が揺れ、色彩の無い景色もそれに合わせて左右にブレる。

灰色の世界。空も、雲も、木も、心も。

と、視界の端にこれまでにない色が入ってきた。

ピンク。

灰色の枝に桃の花が咲いていた。


そうしてこの花と向き合ってベンチに座ること約半日。ピンクの花は、空を飛ぶように風に揺れている。

私が最も嫌いなあんただけが灰色の世界に色彩を放っているなんて。

私はあんたが大嫌い。

事の発端は生まれた時。

いや、正しく言えば、小学生のころに名前というものが自分に一生ついて回ると自覚した時からだ。


桃子。それが私の名前である。


どうしてこんな前時代の名前を付けたのか母につめよった。キラネームも困るけど、もう少し洒落た名前候補はあったはずだ。

「だってお前、ここで3月3日に生まれたらこの名前しかないじゃない。」

3月3日に岡山で生まれたら「桃子」以外に名前はないのか。大体、3月3日を「桃の節句」なんていう人はあんたたち世代しかいないよ。おかげで私のあだ名は「まる子」だよ。

泣きながら不満を訴える私に母は「でもあんた、桃が好きな人って沢山いるじゃない。それに、桃には大きな希望があるんだから。」と、よくわからない言い訳で逃げられてしまった。


私の人生はこれで決まったと言っていい。友達に名前を言うのが何だか恥ずかしくて、私の友達は本になった。本に出てくるヒロインの、なんて素敵な名前たち。ああ、私もこんな名前で呼ばれたい。

いつしか自分についていて欲しかった名前を主人公につけて小説を書くようになった。

素人相手の小説コンテストで賞をもらって舞い上がり、故郷を出て3年。色々書いて、投稿して、持ち込んで。けれど一向に芽は出なかった。母は「桃栗3年って言うじゃない。あんた桃子なんだから3年はがんばりなさいよ。」って。自分でつけたペンネームならまだしも、勝手に名づけた挙句に諺を持ち出して決めつけられてもいい迷惑だ。

それでも自分に言い聞かせて3年。3年目の3月3日に桃の花の目の前で私の作家人生は終わろうとしている。桃の節句は桃子の節目。


私の人生に付きまとう桃。

大体、あんた中途半端よ。

もう少し強く色づけば、寒風に凛と咲く梅になれただろうし、もう少し淡い色だったら、風に舞って春を謳歌する桜になれるのに。そりゃ、梅子や桜子と名付けられても戸惑っただろうけど。


毒づきながら、桃の花をにらみ続ける。目を離したらベンチを立って駅に行かないといけないから。


悔しいからか、悲しいからか、それとも目を見開き続けているからか、視界がぼやけてきた。


「あ、先客ありか~。」

突然横からの声に私は飛び上がった。

「あ、すみません。あの、隣に座ってもいいですか。」

中年男が一人、すまなそうな顔をして頭を下げた。

「どうぞ。私、そろそろ行きますので。」

私が腰を浮かしかけると、オジさんは慌てて手を振り、一層すまなそうな顔をした。

「あ、や。や、や、や。すみません。桃の花がようやく咲いたんで、少し見ていきたいと思ったんですけど。隣で嫌なら出直してきますから。」

「いえ、そんなんじゃないですから。」

「そうですか。でも、なんだかあの桃の花とお話されていたような気がしたもんだから。」

「え。」

意外な言葉に立ちかけた動きが止まる。

年の頃、40半ば。オジさんというのはちょっと可哀そうか。背はそこそこ高く、やや細身。黒いベンチコートにブラックジーンズ。明るい茶色の革ブーツ。二枚目じゃないけど、縁の厚いメガネが人当たりの良さそうな雰囲気を出している。

よっこらせ、と言いながらオジさんは私から一人分のスペースを空けてベンチに腰かけ、視線で私に席を促す。私は再び腰を下ろした。

「先週、蕾ができてたんで、そろそろ咲くかな、って思ってて。桃は食べるのも好きなんだけど、花もいいなって。」

オジさんは足を投げ出してお尻を前のほうにずらすと、ポケットに手を入れて桃の花を見た。

「あ、大丈夫ですか?」

何が?

「すみませんね。オジさんが隣だと警戒するか、不快になりませんか。」

ああ、そういことか。

「あ、いえ、別に大丈夫ですから。」

「そう?すみませんね。ほら、今日は桃の節句でしょ、今日桃の花を見るのは縁起がいいじゃないですか。」

ね、お母さん。桃の節句なんてあんたたち世代しか言わないんだから。

「あ、桃の節句なんて今の人は知らないか。子供の日だって端午の節句って言わないしな~。」

少しおどけた話しぶりに思わず答えてしまう。

「いえ、大丈夫です。知ってますよ。」

「そう?あ、ごめんね。もしかしたら桃の花とお話してたんじゃなかったですか?それなら少し黙ってるから。」

オジさんはぺこりと頭を下げた。

「あの、どうして私が桃の花と話していると思ったんですか?」

「だって。」オジさんは話しかけても良いことがわかって嬉しかったのか、ちょっと笑顔になったが、すぐに真面目な顔になった。

「だってすごく真剣に見てたもんだから。」

私はオジさんから視線を外す。そしてゆっくりと息を吐いた。

「私、この花を見たら故郷に帰ろうって決めてたところなんです。」

抱えた原稿を両手で前に出す。

「私、作家になろうと思ってこの街に来たんですけど、どうも才能がないみたいで。それでもう店じまいしようって歩いてたらこの花を見つけて。」

「そうですか。」オジさんは桃の花を見た。その視線に釣られるように私も桃の花を見る。

桃の花は風に揺れている。

「桃の花って中途半端ですよね。梅も桜も、国民から開花を待たれてニュースで騒がれるのに、桃の開花なんて、誰も待ってなんかいないもの。」

私の視線は原稿に落ちる。そう、桃の花のように、私の作品も誰も待ってはいないんだ。

「ねえ、良かったらその原稿、見せてもらえないですか。」

オジさんは興味深そうに私の手の中の原稿を見ている。

「いえ、でも、ボツですから。」

「こう見えても私、本が好きなんですよ。ボツなら、読者にとっては幻の作品でしょ?それは興味あるなぁ。」

「いえ、でも。」

「あ、そうだ。じゃあちょっとここで待ってて。」

オジさんは小走りに去ると、缶ジュースを2つ持って帰ってきた。

「ボツといっても立派な作品。これで手を打ちませんか。」


ホットのミルクティーで私のボツ原稿はオジさんの手に渡った。

オジさんは足を組んでぶらぶらさせながら、時折ミルクティーをすすりつつ私の作品を読んでいる。

風は止み、桃の花は青白い空に浮かんでいる。

「ありがとう。」

オジさんは原稿を丁寧に袋に戻すと、私に返した。

「あの、どうでしょうか。」

編集者を前にした時よりも緊張する。見ず知らずのオジさん。でも読者代表だ。


オジさんは顔を上げて空を見つめ、口をへの字口に曲げた。そして大きく息を吸うと頬を膨らませてふ~っと息を吐きながら桃の花を見つめた。

「うん、僕はいいと思うけどなあ。」

「細かいことでもいいんです。気になったところはないですか。」

やめると決めたのに。何かにすがろうとしている自分がいる。ここで何も見つけられなかったら、私は何に納得して故郷に帰ればいいのか。

「やっぱり…才能ないんでしょうか。」

「う~ん、僕は素人だから才能とかはわからないけど。」オジさんの声が小さくなる。

「ただ、気になったことと言えば…。」

よし。さあ来い、バッサリ来い。私はその言葉に斬られて故郷に帰るんだ。

「このヒロインの名前に何かこだわりがあるの?」

「え?」

「だってさ、すごくこだわってるっていうか。『私の名前のように』って何度か出てくるし。」

「いえ、それほどこだわったわけじゃないですけど、いい名前だと思いませんか。」

私がこの名前だったなら、それだけで幸せになれる。

「そりゃまあ、ね。でもおかげで次に女の子が生まれたらこの名前にしなくちゃって思っちゃうくらい洗脳されそうになった・・・っていうのは言いすぎだけど。」

「そんなにひどかったですか。」

「いや、ちょっとオーバーに言ったんだけどね。でも、主役級の登場人物なら名前は早々に覚えるし、これだけこだわってるときっと最後に何か仕掛けがあるのかなって思いながら読んじゃったから、肝心の物語に入りきれなかったかな。だから折角面白かったのにちょっと勿体ないなって思ったよ。」

「それ直したら少しはマシになるでしょうか。」

「面白い話だと思うよ。そうだなぁ。」

オジさんはう~ん、とか、そうだなぁ、とかしばらく独り言を言っていたが、その内魅入られるように桃の花を見ている。

私も桃の花を見る。

「そうだ。」突然オジさんは大声を出した。

「えっ。」

私はびっくりして息を吸い忘れた。

「ごめん、ごめん。でも、いいことを思いついた。でも・・・。」

オジさんは照れるように頭を掻いた。

「あ、でもオヤジギャグとか言われちゃうかな・・・。」

私の作品はオヤジギャグで評価されるのか。

「あの、いいです。そのオヤジギャグを教えて下さい。」

「そお?じゃああんまりセンスないかもしれないけど、率直な意見として言いますね。」

オジさんは口にこぶしを当ててコホンと軽く咳をした。

「え~。あなたの作品と掛けまして~。」

はい?それってオヤジギャグじゃなくて大喜利でしょ。

きょとんとする私にオジさんが不満顔で言う。

「ほら、ここであなたが繰り返さないと。」

「え、私が繰り返すんですか。」

「そうだよ、合いの手が入らないと気分出ないじゃない。景気よく頼むよ。」

景気よくなんてできるわけないでしょ。多分、私はこれからあなたの大喜利で大斬りされちゃうんだから・・・ってこれはオヤジギャグか。

そんな気持ちを知ってか知らずか、オジさんは真剣な顔をして確認する。

「いい?もう一回行くよ。え~。あなたの作品と掛けまして~。」さっきより声が大きい。

「え~、私の作品と掛けましてぇ。」ええい、こうなりゃヤケだ。どうせ誰もいやしない。バッサリ斬ってもらおうじゃない。

「『桃』と解く。」

「え?」

桃?よりによって私の作家人生は私の大嫌いな桃で締めくくられるの?

「ちょっと、頼むよ。こっちも言うの恥ずかしいんだからさ。」

オジさんは眉を寄せる

「すみません。でも、桃なんですか。」

「そう、桃。桃なの。」

「他の解はないんですか。」

「ない。桃しかない。だってこうして目の前で咲いてるわけだし、丁度いいじゃない。」

「わかりました・・・。」やっぱりこの花はどこまでも私にまとわりつくんだ。

「では仕切り直しまして。え~、あなたの作品と掛けまして。」

「はい、私の作品と掛けまして。」

「『桃』と解きます。」

「『桃』と解きます・・・。その心は・・・。」

さあ来い、判決。桃もあなたも、ここで会ったが何かの縁だ。

「どちらも・・・『兆し』が木(気)になります。」

「え?」

私はオジさんを見る。

「いや、ほら、まあ。こういうのは慣れてないからさ。で、桃の字は木へんに兆でしょ。」

オジさんは再び頭を掻く。

「あなたの作品には次も読んでみたいって思うものがありました。それは兆しですよね。」

照れを隠そうとオジさんは饒舌だ。

「しかも小さい兆しじゃなくて。十より、千より、億よりも多くて、それでいて無限なんて無責任でもない、兆の兆しね。なんかちょっと具体性のある大きな期待っていうか。希望って言うか。」


お母さんの言葉がよみがえる。「それに、桃には大きな希望があるんだよ。」お母さん、そういう事?


オジさんの照れは収まっていないようだった。

「いや~。下手なオヤジギャグだったね。ごめん、ごめん。桃の花を見てたら思いついちゃって。でも、この作品には次に開花する兆しがある・・・と思う。ひとさまの人生をどうこう言えないけど、いち読者の感想として聞いておいて。」

オジさんは立ち上がって尻をはたく。

「よし。丁度息子の塾が終わる時間だ。ごめんね。折角桃の花と話していたところをお邪魔しちゃって。」

オジさんは自分と私の空き缶をひょいと取り上げると歩き出した。

「いえ、こちらこそ・・・あの。」

「はい?」オジさんが振り返る。

「私の作品、また読んでいただけないでしょうか。」

オジさんは空き缶を持つ手を挙げて左右に振る。

「大丈夫。もしあなたがこっちに来なければ、次はこんな缶紅茶じゃなくて、ちゃんとあなたの本を買って読むことになるだろうから。」

駅の方向に去っていくオジさんの背中を見送った後、私は桃の花を見た。

夕焼けに負けないピンクの花が春の兆しを告げていた。

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桃の花 ちぷり @chipri

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