09.あなたと同じ気持ちです

 翌日、大学内の食堂にて。

「……あ」

「やぁ」

 いつもは弁当を持ってきて友人と一緒に食べているのだが、たまには一人で食堂ででも食べるか、と突然思い立ち、くるみは食堂に来ていた。が、そこでタイミングよく――裏を返せばタイミング悪く、ともいえなくもないが――蓮と鉢合わせしたのである。

 焼きサバ定食を乗せたトレーを両手に持ったまま、くるみはしばし固まった。が、そんなくるみの様子を意に介することなく、蓮はいつも通りくるみに話しかけてきた。

「体調は、もう大丈夫?」

「うん、ゆっくり休んだから。……迷惑かけてごめん」

「別にいいよ。ところで、今日は一人なのかい」

「……たまには、こういうのもいいかなって思って」

 きちんと話すのは久しぶりなので(医務室で会ったときのことは、くるみの方が若干錯乱していたためノーカウントである)妙に緊張してしまい、自然とよそよそしい喋り方になってしまう。

 それに……。

『次に蓮先輩に会った時には、ちゃんと言うんだよ』

 昨日の深雪との約束を思い出してしまい、途端に気まずい気持ちになってしまった。

 そして、あの後いつもの喫茶店で話した時の、奈月の嬉しそうな声も同時によみがえってくる。

『それはきっと、そうしなさいっていう神様からのおぼしめしだよ。こんなチャンスめったにないんだから、早いうちに言わなくちゃ!』

 しかしこんな昨日の今日で鉢合わせしてしまうなんて、夢にも思わなかった。完全に計算外だ。心の準備など、これっぽっちもできているはずがないではないか。

 くるみは内心動揺し、混乱していた。

 ……が。その点、蓮はいつも通り気さくな奴だった。パニック状態になっているくるみに向かって、軽い調子で言う。

「じゃあ、一緒に食べようか。僕も今日は一人だしさ」

 ちょうど話したいこともあるしね、と続け、蓮は微笑んだ。

「……へ?」

「言っておくけど、君に拒否権はないからね」

 サラッとくるみの人権を無視するようなことを言ってのけた蓮は、途端に踵を返した。空いている席をもうすでに見つけたらしく、黙ったままそちらの方に迷いなくすたすたと歩いて行く。

 これは……問答無用でついて来い、ということか。

 仕方がない、とため息をつき、くるみは鉛のように重い足を無理やり動かし、蓮の後をついて行ったのだった。


 蓮が目ざとく見つけた誰もいないテーブルにたどり着くと、蓮と向かい合うようにして椅子を引き、座る。それから二人そろって「いただきます」と手を合わせ、食事を始めた。

 ぐるぐるとした思いを抱えながら焼きサバ定食をつっついていたくるみは、ちらちらと落ち着きなく、向かいに座る蓮を幾度も見ていた。

 当の蓮はというと、いつも通りの調子で月見うどんをずるずるとすすり、時折付け合わせの漬物に箸をつけたりしていた。さすがはイケメンと言われているだけあって、そんな何気ない様子すらも画になる。思わず箸を止め、見とれてしまいそうになるほどだ。

 しかしそれよりも気がかりなのは……ここに来て五分ほど経つが、蓮はずっと黙ったままだということだ。『話したいことがある』などと言っていたくせに、一向に話を振ってこようとしない。

 くるみがいい加減にしびれを切らし、口を開こうとしたところで、蓮が突然顔を上げてこちらを見た。突然のことだったので、口を開けたまま固まってしまう。

 漆黒の瞳をほんの少し揺らしながら、蓮が口を開いた。

「あのさ……」

 彼の声が妙に弱々しい響きを伴っていたので、くるみはたじろいでしまった。

「な、何よ」

「そろそろ、教えてくれないかな」

「教えるって……?」

 蓮ほどの優秀な人間に、頭の弱い自分が教えることなど何かあっただろうか……と思案していると、蓮がふぅ、とため息をついた。

「ここ最近、君が泣いていたのは……君が目に見えて衰弱していたのは、僕のせいなんだろう?」

 否定は、できなかった。

 本当のことを言えば、くるみが苦しんでいたのは必ずしも、全部が全部蓮のせいというわけではない。深雪のために奔走し、結果空回ってしまった、自分自身のせいなのだ。

 そう言いたいのだが、言葉が出てこない。

 どうしたものかと所在なく口をぱくぱくさせていると、蓮が儚げな微笑みを浮かべた。

「いったい僕の、何が悪かったのかな。君は僕の、どんな言動で傷ついて……ぼろぼろになってしまったのかな」

 そう語る蓮の目は、苦しげに細められていた。

 どうして今更彼は、そんなに……こちらの心まで揺らいでしまうような表情をするのだろう。蓮はそんなに、避けられていたことを気にしていたのだろうか。

 『伝えなきゃ』――。

 かつて奈月にも、深雪にも言われた言葉を、くるみは反芻していた。

 このまま、蓮を悩ませるぐらいなら……自分も、苦しむぐらいなら。この思いを今すぐに、口に出してしまうべきだろう。奈月が言っていた通り、こんなチャンスはめったにないのだ。

 覚悟を決めたくるみは、すぅ、と深く息を吸った。

 そしていまだに苦しそうに揺れる蓮の漆黒の瞳をじっと見据え、一言ずつ、心に溜まった思いを吐き出し始める。

「……蓮は、何も悪くない。蓮があたしに何かしたからとか、そんなんじゃない。確かに元をたどればそうなのかもしれないけれど……結局全部、あたしが一人で勝手にぐるぐる悩んで、悲しんで、空回って……結果、自分をむしばんでいっただけのことだよ。だから蓮、あんたが気に病むことなんて一つもない」

 全部、あたしの独りよがりな、わがまま。

 そう自嘲気味に笑うと、蓮がかすかに目を見開いた……ような気がした。

 蓮の目を見据えたまま、くるみは慎重に表情を崩すと、いつもの調子でにっこりと笑ってみせた。

「単刀直入に言えば、あたしは深雪に嫉妬してた。蓮とどんどん距離を縮めていくあの子を、間近で見ているのがつらかった。あの子の口から蓮の名前が出るたびに、耳をふさぎたくなった。だけど……あたしはあくまで、あの子のサポート役。あの子の恋を、応援しなければいけない立場。そうやって自分に言い聞かせて、心に沸き立つ思いを、見ないふりをしていたの」

 ……が、話しているうちに、くるみの顔に張り付いていた完璧な笑みが少しずつ崩れていく。最後の方には完全に泣きそうな表情になってしまい、蓮を見ていることもできなくなって、視線が自然と落ちていった。

 蓮が今、どんな表情で自分を見ているのか、くるみには分からなかった。驚いているだろうか。呆れているだろうか。それとも、いまだに哀しそうな表情で、自分を見ているだろうか。

 今すぐ椅子から立ち上がって、この場所から立ち去ってしまいたかった。

 それでも、伝えなくちゃいけない。逃げちゃいけないと、約束したのだから。奈月とも、深雪とも……そして、自分自身とも。

 再び顔を上げ、蓮を見据える。

 蓮は見守るように微笑みながら、くるみを見ていた。その笑顔からは、正確な彼の感情を読み取ることは難しい。ただ、驚いた様子もあきれた様子もなく、くるみの話を真摯に聞こうとしているのであろうことだけは分かった。

 一度目を閉じて、心の中で五秒数える。

 そしてカッと目を見開くと、くるみは再び蓮の目を見据え――はっきりとした声で、一番伝えなければならないことを、告げた。

「あたしね、蓮のことが好き、みたいなの。許されないことだとはわかっているけれど……できればあんたを縛り付けて、あたしだけのものにしてしまいたいって、そう思ってるの」

 言い終えたくるみの心臓は、暴れ馬のごとく荒れ狂っていた。はぁ、はぁ……と、乱れた息が自然と口からこぼれる。

 蓮は表情を変えなかった。ただ、かみしめるかのように一度目を閉じ……五秒ほど経ったところで、ゆっくりと開く。

 そして、静かな声でこう答えた。

「……ここで、告白かい。ムードないね」

「う、うるさい!」

 こちらの心情をすでに見透かしているからなのか、それともただ単に救いようがないほど鈍感なだけなのか。やたらと無神経なその物言いに、くるみはカッとして思わず怒鳴った。

「とにかく、あたしが言ったんだから早くあんたも答えなさいよ! 断るならはっきり、断りなさいよ!!」

 自然とこみあげてくるものがあって、怒鳴る声がだんだん震えてくる。目から零れ落ちそうな滴を蓮に悟られまいと、くるみは躍起になって冷めかけの焼きサバにかぶりついた。

 頭上から、蓮の噴き出す声が聞こえる。

「まるで僕が断ることを前提としているようだね」

「……」

 蓮の茶化す声にも答えることなく、くるみは黙々と食事を続ける。

 ふふ、と蓮は笑い、そしてサラッと言った。

「僕も好きだよ」

「ごはっ!?」

 刹那、ほおばっていた焼きサバがのどに引っかかったらしく、くるみは激しくむせた。

「ちょ、くるみ!?」

 蓮が慌てたように立ち上がり、駆け寄ってくる。涙目になってむせるくるみの背中を軽くたたいたり、さすったりしながら、苦笑気味に彼女の顔を覗き込んだ。

「危ないな、全く」

「うっ……ゲホッ」

 くるみは反論しようとしたようだが、再びむせてしまった。蓮は一つため息をつくと、テーブルに置かれていた水をくるみに差し出した。

「ほら、飲みな」

「うぅ……」

 涙目で蓮から水を受け取り、こくこくと飲み干すと、ようやくくるみは落ち着いたようだった。

「あー……骨がのどに刺さったかと思った。なんとか大丈夫だったけど」

「気をつけなよ。サバに限らず、魚ってのは小骨が多いんだから」

「……ごめん」

 涙目のまま素直に謝ったくるみを見て、蓮はまたフフッと笑った

 そんな蓮を見ながら、くるみが目をぱちくりとさせる。

「……ねぇ、蓮」

「何」

「さっきの言葉、本当なの?」

 自分の聞き違いでなければ、先ほど蓮は『僕も好きだ』と言ったような……。

 いまだ疑っている様子のくるみに、蓮はあっさりと答えた。

「本当だよ。僕も、くるみのことが好きだ」

 恥じらいなど一切ない、清々しいほどの即答に、くるみは顔を真っ赤にさせながら大きく目を見開く。

「う……何で。だって、深雪は」

「深雪ちゃんは、確かに今までの女の子たちとは違う。僕に媚びたりとかすることなく、自然な態度で接してくれて……そういうのが、好意的に映ったのは本当だよ。話しやすいし、一緒にいて楽しいし。本当にいい子だと思った。でも……」

 蓮がすっと目を細める。憐れんでいるような、慈しんでいるような、そんな表情だった。

「でも僕が深雪ちゃんに抱いていたそれらの感情は、例えるならば親友に対するようなものだった。恋愛感情とは、決定的に違ったんだ。本人にも言ったけれど……僕はこれからも、彼女とは友人でいたいと思っている」

 深雪の口から聞いたものと、全く一緒。深雪にとって何よりも残酷な言葉だと、くるみは思った。

「ひどい男ね……あんたは」

 弱々しくかすれたくるみの批判めいた言葉に、蓮は自嘲気味に笑った。

「そうだね。本当にそう思うよ。でも……」

 でも、と言った瞬間、蓮の漆黒の瞳に夢見るような――心から何かを愛おしく思うような、柔らかく優しい光が宿った。

「ずっと昔から抱いていた思いは、そう簡単に裏切れるものではなかったんだ」

 予想外のセリフに、くるみはさらに目を見開いた。

「昔から、って……」

「そう」

 あっさりと蓮はうなずいてみせる。あまりの清々しさに、くるみは言葉を失った。

「僕は昔から、くるみのことだけを見てきた。他人のためにいつも一生懸命な君は、いつだって僕の瞳にまぶしく映っていた。今まで告白を断り続けてまで隣に女の子を置かなかったのは、そういう理由があったからなんだよ」

 そうだったのか、とくるみはぼんやり思った。

 結局どんな理由であれ、自分の今までの努力は、徒労にすぎなかったのか。道理で蓮が相手の時はことごとく玉砕するわけだ。

 長年の疑問とモヤモヤが一気に解決し、腑に落ちてすっきりとしたくるみをよそに、蓮が続ける。

「深雪ちゃんをはじめとした、今まで告白を無下にしてきた女の子たちには、本当に申し訳ないと思っているよ」

 いつも協力してくれてた君にも、ね。

 そう続けられた蓮の言葉に、くるみはびっくりして蓮の方を見た。周りに人がいるのにも構わず、思わず大声を上げてしまう。

「え、何!? 知ってたの!?」

 特に動じる様子もなく、蓮はあっさりとうなずいた。

「知ってたさ。いつも僕が告白されるところを、物陰から見ていたろう」

 顔から火を噴くかと、くるみは本気で思った。先ほどより熱くなってしまった頬を両手で押さえる。

 そんなくるみを、蓮はフッと表情を和らげ見つめた。その漆黒の瞳は、今までに見たことがないほどの何か――獲物を狙う獣のような獰猛さのようにも、妖艶な色気のようにも見える何か――を孕んでいた……ようにくるみには見えた。

 その瞳のまま、蓮はさらに続ける。

「とにかく、ずっと君が欲しくてたまらなかった。僕もまた、君を僕だけのものにしたいと思っていた。だけど僕らは幼馴染。この思いを告げてしまえば、今までの関係が一瞬にして崩れ去るんじゃないかと思うと、怖くて……だから、今まで隠してきたんだ」

 でも、と言いながら、蓮がくるみの頭に手を伸ばす。明るめの髪を優しい手つきでふわりと撫でられて、身体が強張る。

「君が僕を好きだと言ってくれたから、僕もやっと、ちゃんと言うことができる」

 嬉しくてたまらない、というような、明るく弾んだ声だった。頭に触れた手はそのままに、すっと顔を近づけてくる。

 くるみの身体全体が発火装置のように、一気に温度を上げていった。

 蓮をまともに見ることができず、真っ赤な顔でうつむいてしまったくるみの耳元に、蓮が口を寄せた。そのまま、熱っぽく掠れた声でそっとささやく。

「ねぇ……くるみ。僕のものになってくれる?」

 感動なのか、それとも喜びなのか。蓮が紡いだその言葉に、くるみの胸はどうしようもなく打ち震えた。何か答えようと口を開くが、うまく声にならない。胸が高鳴りすぎて、呼吸の仕方すらも忘れてしまったような気さえする。

 くるみは成す術もなく、真っ赤な顔でうつむいたまま、ただ黙ってこくりとうなずいたのだった。

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