08.幸せはあなたのもの

 週明けの朝、キャンパスにて。

「おはよ、奈月!」

 くるみはちょうど前を歩いていた奈月に明るく声をかけ、バシッと――彼女的にはポンッと、のつもりだったらしい――自分より少々小柄な背中を叩いた。

「痛っ!?」

 不意を突かれて驚いたらしく、奈月が珍しく大声を上げる。

 そんな奈月の正面にぐるりと回り、くるみは得意げに笑った。奈月がくるみを見て、苦笑を浮かべる。

「くるみちゃん……元気だね。もう大丈夫なの?」

「うんっ、すっかり回復だよ!」

 こないだは保健室で一日休んだし、土日もゆっくり休んだしね!

 ガッツポーズをしながらくるみが笑う。その姿は、どこか吹っ切れたようにも感じられるものだった。休息を取ったおかげで、それまでぐちゃぐちゃだった心の整理をきちんとつけることができたのだろう。

「よかった」

 奈月はそんなくるみを見て呟くと、ほんの少しだけ目を細めた。

「けど……もう、無理しないでね?」

 その声と瞳には、まだ心配の色がにじんでいた。そんな彼女の表情を見て、くるみの胸はズキリと痛んだ。

 今までの自分は、それだけ奈月に心配をかけていたのだろう。自分はそれだけ彼女を悲しませ、苦しめていたのだろう。

 もう……これ以上、大切な友人を悲しませるのは嫌だ。

 自分が奈月に対してそう思っているように、奈月もまた、自分に対してそう思ってくれているのだ。

「……大丈夫だよ。今度から、何かあったら奈月にちゃんと言う」

 ちゃんと、頼るから。

 屈託のない笑みを浮かべてそう言い切ると、奈月は今度こそ、安堵したように微笑んだ。

「うん。絶対だからね、くるみちゃん」


 ――その日は、例のゼミナールの日だった。

 くるみの想像が正しければ――きっとそれは、百パーセント正しいとみて間違いないだろう――、すでに深雪は蓮に答えをもらっているはずだ。そして深雪は今日、それをくるみに報告するのだろう。

 きっと心から嬉しそうな、幸せそうな表情で。

 そんなことを考えていると、少しだけ足がすくんだ。今すぐ引き返して、家へ帰ってしまいたい気分になる。

 だけど……ここで逃げたら、負ける気がした。誰でもない、自分自身に。

 だから、最後まで聞き届けなければ。

 それが、ここまで手を尽くしてきた自分の、唯一の義務だから。


 ――教室へたどり着き、自分のグループへ足を運ぶ。

 グループのメンバーはすでに何人か来ていて、顔見知りの人もいたので、少し話をした。ここ最近のくるみの体調を心配するようなことも言われたが、いつも通り笑顔でやり過ごす。

 その合間に、くるみは辺りを落ち着きなく見渡していた。いつもくるみより先に来ているはずの深雪の姿が、今日は何故か見えないのだ。

 たまたま自分の方が早く来たのだろうか……と最初は思ったが、授業が始まる時間になっても、深雪は現れなかった。

 結局くるみのグループはその日、一人欠けた形で話を進めることとなった。

「何だ。今日は芹澤君がいないではないか」

 各グループを見て回っていた教授のひいらぎが、世間話をするかのようにくるみに話しかけてきた。

「風邪でも引いたのだろうか。東雲君、何か聞いていないかね」

「さぁ……あたしは何も」

「そうかそうか、ふーん。……ふむ、珍しいこともあるものだな」

 柊は独り言のようにつぶやいた。

 柊が『珍しい』と言った通り、深雪がこのゼミナールに限らず、自分が取った講義を休んだり、途中で体調を崩したりするようなことはめったになかった。見た目とその性格から、周りに儚げで弱々しげな印象を与える深雪だが、身体は案外丈夫なのだ。

 だからそれを知っていたくるみも、訝しく思ったのだった。

「何か、連絡はなかったんですか。柊教授」

 くるみが尋ねると、柊は首を横に振った。頭を掻きながら、やれやれ、といったようにため息交じりに呟く。

「私も、何も聞いとらんよ。まったく……無断欠席か? まぁ、別に構わないが」

 構わないのかよ。

 教授である柊に向かって、思わずタメ口で突っ込みを入れそうになるのをぐっとこらえ、くるみは曖昧に笑って見せた。

「けど、今日話し合ったことは芹澤君にもちゃんと伝えておいてくれたまえよ。次の授業でも関連してくるんだからね」

 柊が去り際、まるでどうでもいいことのようにサラッと言い置いた言葉に、くるみはしっかりとうなずいた。

「わかってますよ」

 とりあえず、今日の講義が全部終わったら深雪の家に行ってみよう。

 くるみは心の中で、そう決めていた。


    ◆◆◆


 前に一度訪れた際の記憶を頼りに、街中から少々外れた道を抜けると、閑散とした田舎町のような住宅街に出る。そこからまっすぐ五分ほど歩いたところに、芹澤家はあった。

 まるで彼女の趣味をそのまま具現化したような――むろん、彼女の家族が全員同じ趣味なのかどうかは知らないが――まるでお菓子でできた家のようにメルヘンチックな風体の、カラフルな色遣いが特徴のそれは、閑散とした住宅街の中でひときわ目立っていた。決して大豪邸とは言えないが、その辺の一軒家にしては十分立派で、彼女の暮らし向きの良さがうかがえる。

 建物を囲む目にも鮮やかなビビッドピンクの柵に取り付けられたインターホンを、一度、深く押してみる。オルゴールのような音が鳴って、しばらくするとパタパタとかすかな音がした。間もなく、『はい、どちら様でしょう』という、少し焦ったような声がインターホン越しに聞こえてくる。

 その声の主に向かって、くるみは声をかけた。

「深雪? あたし、くるみだよ」

 声の主は返事をしなかった。その代わり、柵向こうに位置するチョコレート色のドアがガチャリと開き、そこから人の姿が出てくる。白いネグリジェに身を包んだ、色素の薄い長髪の儚げな少女――くるみが今まさに声をかけた相手、もとい芹澤深雪だった。

 彼女はくるみの姿に気付くと、ちょいちょいと手招きをした。同時に何か操作をしたらしく、柵がギィィィィ……と音を立てて開く。

 少しためらいはしたものの、意を決したくるみは招き入れられるままに、芹澤家へと足を進めた。


「ありがとね、わざわざ来てくれて」

 勧められるまま濃い山吹色のソファに腰を下ろしていたくるみに、二人分のカップを乗せたシルバーを運んできた深雪が微笑みながら言った。

「うちには紅茶しかないから紅茶を淹れたんだけど、いいかな?」

「大丈夫よ、ありがとう」

 普段はもっぱらコーヒー党であるくるみだが、紅茶もたまに飲む。ほっとしたい時にちょうど良いのだ。

 ストレートのまま口をつけると、どことなく懐かしい香りがした。

「大学……休んじゃった」

 くるみの正面にあるソファに腰を下ろしながら、深雪はえへへ、と照れたように笑った。心なしかあまり顔色がよくないように見える。よく見るとその両まぶたは昨日のくるみと同じように、赤く腫れていた。

 心配になったくるみは、ほんの少し眉をひそめて尋ねた。

「どうかしたの?」

「うん……」

 一つうなずくと、自分の分の紅茶にミルクをたっぷりと入れ、かき混ぜながら深雪は答えた。

「私ね……昨日、振られたんだ」

 くるみは絶句した。カップに口をつけたままの状態で、大きく目を見開き、しばらくフリーズしてしまう。そんなくるみの姿がよほど滑稽に映ったのか、深雪はプッと噴き出した。

「なぁに、その反応」

 その言葉で我に返ったらしいくるみは、自分でも不思議なほどに冷静な動きでカップをテーブルに置く。しかしやはりまだ頭の中は混乱に満ちているようで、くるみはわけもわからずただこう言った。

「……いや、だって……え?」

 今、なんて言った?

 深雪は何でもない事のように、もう一度言った。

「だから、振られたんだって」

 深雪が発した言葉を、くるみはにわかには信じることができなかった。

 深雪と対峙しているこの現在は、もしかして自分の夢なのではないか。それで、潜在的に自分に都合のいい言葉を深雪に紡がせているのではないか……そんなことを、くるみはほぼ働かない頭で考えていた。

 頬を思い切りつねってみる。……痛い。

 夢ではないことを確かめると、容赦なくつねったせいで真っ赤になってしまった自分の頬をさすりながら、くるみは確認するように口を開いた。

「振られたって……蓮に?」

「そうだよ」

 彼以外に誰がいるっていうの、と茶化すように笑いながら、深雪が答えた。すでにミルクがたっぷり入った紅茶に、今度は蜂蜜をたっぷりと垂らしている。どうやら彼女は相当な甘党らしい。

 そんな深雪をまじまじと見つめながら、くるみはまだ信じられないというような表情をしていた。

「う、そ……何で……」

 何故蓮は、深雪にまでそんな答えを突きつけたのか。

 深雪と一緒にいるとき、彼はあんなにも優しい目をしていたのに。二人はいずれ、結ばれるはずだと思っていたのに。

「どうして……?」

 その問いは、表面上は深雪に対するものだった。けれど本当は、そんな結果を生み出した蓮に対するものでもあった。

 完成したとてつもなくまろやかで甘い紅茶を口にしながら、深雪が寂しそうに笑う。

「『君とは恋人同士としてじゃなく、いい友人同士として一緒にいたい』だって」

 蓮がそんな風に女の子を振るのは、初めてだとくるみは思った。蓮にとって確かに、深雪は大切な存在だったのだろう。

 だけどそれは、恋愛対象としてではない……。

 深雪にとってはあまりに残酷な答えだと、くるみは思った。

「まぁ、わかってたことなんだけどね」

 胸中の痛みや苦しみを払拭するかのように、深雪は明るくにこっと笑った。しかし彼女の色素の薄い瞳は、少々かげりを帯びていた。

「蓮先輩には好きな人がいるって、私……知ってたから」

 初耳だった。どうしようもない悲しみに満ちていたくるみの表情が、再び驚愕の色に染まっていく。

「蓮が、そう言ったの……?」

 自分でも笑ってしまいそうなほどに、間抜けな声だった。

 深雪が静かに首を振る。

「ううん。でも……その子の話をしているときの蓮先輩、とっても優しい……心から愛おしそうな、そんな目をしていたから。だから、すぐに分かった」

 本当に、見ているこっちがうらやましくなっちゃうくらい。

 羨望するような声で、そう深雪がささやく。

「そっか……」

 答えながら、くるみは胸に締め付けられるような痛みを覚えた。

 蓮には、好きな人がいるのだ。他の女の子を傷つけてまで、一途に思う――今までに見たことがないほどの優しい目を、愛おしそうな目を彼にさせる……それほどまでに大切な、誰かが。

 深雪も感じているのであろう感情が――蓮に思われる誰かをうらやましいと思う、そんなどうしようもない感情が、くるみの心に芽生えた。

 何だ、それならば……今までいろいろ思い悩んだけれど、結局意味がなかったということではないか。初めから、失恋が確定しているのだから。

 深雪が悲しんでいるのに、自分まで悲しむわけにはいかないと思い、こみあげそうになる思いをぐっとこらえる。耐えるようにうつむくくるみを見て、深雪はじれったそうに声を上げた。

「あーもう。何でわかんないかなぁ」

「へ?」

 くるみは思わず顔を上げる。

 深雪は立ち上がると腕を組み、仁王立ちといういつもの彼女なら絶対にしないであろう格好でくるみを見下ろした。

「私みたいに、はっきり言葉にして伝えてみなきゃ、結果なんてわかんないじゃん」

 その声には、何らかの強い意志が込められていた……ような気がした。

「くるみちゃんも蓮先輩のこと、好きなんでしょう?」

 予想外の言葉に、くるみが再び目を見開く。

「どうして、それを……」

「見てたらわかるよ」

 さも当然というように放たれたその言葉に、くるみは狼狽した。それなりにうまく隠してきたつもりだったのに、ばれていたなんて。

 くるみが知らなかった蓮の本心をあっさり見抜いていたことといい……深雪はおっとりしているようで案外鋭いのかもしれない、とくるみは思った。

「……ごめんね」

 伏し目がちにしながら、くるみがポツリと言った。

「でも、あたしは」

「でもじゃないよ」

 くるみが言おうとしていたことをまるで最初からわかっていたかのように、深雪はくるみの言葉をぴしゃりと遮った。ハッとして顔を上げるくるみに、晴れやかな笑みを向ける。

「伝えなきゃ。たまにはさ、くるみちゃんも自分のために行動した方がいいんじゃない?」

 それはかつて、奈月にも言われたことだった。くるみが深雪のために日々身を削っていく様子を見て、彼女もまた、奈月と同じように心を痛めていたのかもしれない。

 『伝える』。それは、至極単純なことだ。

 それでも今のくるみには、その言葉がやけに重い響きを伴って聞こえた。

「私はもう、大丈夫だから」

 弱々しげに瞳を揺らすくるみに、にっこりと笑って首をかしげながら、冗談めいたように深雪が言う。

「むしろそうしてくれなきゃ、逆に私、つらくなっちゃうからさ」

 深雪から発されたその言葉は、強がりでもなんでもなく、本当に心からのものであるようだった。

 それまでがんじがらめに縛られていたものから一気に解放されたような気がして、くるみは自然と笑みをこぼす。

「わかった」

 くるみもまた、心から、そう答えることができていた。


「――今日は本当にごめんね。明日は、ちゃんと行くから」

「大丈夫よ。講義で分からないところあったら、何でも聞いて」

「ありがとう」

 芹澤家の妙に明るい玄関先で、見送りに来た深雪とそんな会話を交わす。

「じゃあ……次に蓮先輩に会ったときは、絶対言うんだよ。約束だからね」

「……うん、わかった。約束、ね」

 くるみが無邪気に笑いながら差し出してきた小指に、くるみもまた、自分の小指を絡める。

 ゆーびきーりげーんまん、とまるで子供のようにそらんじながら、二人は絡めあった小指を上下に軽く振った。

 ゆーびきった、の合図で互いに指をほどくと、軽く別れの挨拶を交わし、くるみは芹澤家を後にした。

 結果なんてまだわからない。もしかしたら、傷つくことになるかもしれない。

 それでも、いろいろ思い悩んでいた昨日までよりも、くるみの心は幾分か軽くなっていた。

「……よしっ」

 閑静な住宅街の真ん中を歩きながら、くるみは気合を入れるために大きく声を上げた。そして目の前に広がる道を、決意を込めた双眼でじっと見つめ、自分に言い聞かせるように一言、つぶやいた。

「あたしも頑張らなくちゃ、だよね」

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