07.恋する胸の痛み
翌日は、見事なまでに体調が悪かった。
結局昨夜は一睡もできず、夜通し泣いていたからだ。寝ようとして目を閉じるたびに、仲良さそうに歩く蓮と深雪の姿が浮かんでしまい、そのたびに涙がこぼれて仕方なかった。
おかげで今朝は鏡を見るのも嫌になるくらい、ひどいありさまだった。腫れぼったくなった目にはくっきりとクマができていたし、顔もむくんでいたし、肌もガサガサ。化粧のノリも最悪だった。
それでも大学は休めないので、荒れ放題の肌を隠すため、いつもより丹念にメイクを施して出かけることにした。おしろいをたっぷり塗っていたという平安時代の姫様の気持ちが、今日だけは嫌というほど理解できてしまった。
寝不足と体調不良でフラフラになる身体に喝を入れながら、どうにかキャンパスまでたどり着く。数々の友人たちからの「おはよー」という声に逐一精一杯の笑顔で対応しながら、くるみは少々おぼつかない足取りで、教室を目指して歩いていた。
そして、大学構内へ入ろうとした、まさにその時。
いきなり、くるみの視界がぐにゃりと回転した。まるで鍋に入ったスープのように、目の前の景色がぐるぐるとかき混ぜられていくような錯覚を覚える。
あまりの気持ち悪さに吐き気を覚え、くるみは思わず口元を抑えた。同時に立っていられなくなり、身体の力が抜け、ふらりと傾く。
びたん、と音がしたと同時に、身体がどこかにぶつかる衝撃と、ひんやりした固い感触を覚えた。
「――くるみ!?」
焦ったような誰かの声が、倒れたくるみの耳に届く。それを最後に、くるみの意識はぷっつりと途切れた。
◆◆◆
「ん……」
目を覚ますと、最初に白っぽい天井のようなものが目に入った。視線を少しさまよわせ、くるみは自分が今おかれている状況を冷静に確認する。
ここはおそらく、大学の医務室だ。おそらく――というのは、普段から健康体なくるみは医務室に世話になることがめったにないため、ここに来るのはほぼ初めてに近いからだ。
さらに自分は今、きちんと整備されたベッドの上に寝かされている。清潔そうな白い枕と白い布団が、なんだか新鮮に思えた。
くるみはそれからゆっくりと首を動かし、横を向いた。そして目の前に広がった信じられない光景に、思わず大きく目を見開いた。震える青紫色の唇から、かすれた声がこぼれる。
「蓮……」
そこには、くるみの苦悩の元凶が――蓮が、手近な椅子に腰を下ろし、優しい目でこちらを見つめていた。
くるみの表情が、みるみる痛みと苦しみに歪んでいく。
「っ……何であんたが、ここにいるの」
くるみの心情を知ってか知らずか、蓮はおかしそうにクスッと笑った。
「何でって……君がタイミングよく僕の目の前で倒れたから、ここまで連れてきたんじゃないか」
意識を手放す寸前に聞こえたのは蓮の声だったのか、と、くるみはそこでようやく理解した。
しかしどうやら偶然とはいえ、彼に多大なる迷惑をかけてしまったらしい。離れようと決めたばかりだというのに、このザマはいったい……。
くるみは自分のあまりの間抜けさに、頭を抱えたくなった。
「それは、迷惑かけたわね……ありがとう」
目をそらしながら、せめて強がるように、くるみは口を開いた。
「でも……だったら、あたしをここまで連れて来たら、すぐにあたしを放って戻ればよかったのに。何でまだ、ここにいるのよ」
こみあげてくる感情に耐えるように、くるみは唇を噛んだ。そんな彼女の様子に呆れたのか、ふぅ、というため息の音が聞こえてきた。盗み見るようにそちらを見ると、蓮は哀しそうに微笑んでいた。
「君を放ったまま、戻れるわけないだろう?」
「何で」
「心配なんだよ」
彼らしくもない、やけに直球な言葉だった。
おそらく、前までなら素直に嬉しい言葉だったのだろう。しかし今のくるみにとっては、心を無残にえぐる凶器でしかなかった。
苦しそうに顔をしかめ、くるみは呟く。
「馬鹿……何で、そんな思わせぶりなこと言うのよ」
蓮は、優しすぎる。
幼いころからその優しさには、幾度も助けられてきた。けれど……今の自分にとっては、残酷なものでしかない。
「あたしのことなんて、どうでもいいから。だから……こんなところにいないで、あたしなんかに構ってないで、さっさと深雪のところへ行けばいいじゃない!!」
思わせぶりな優しさを見せるぐらいなら、さっさと傷つけて。
現実を、突きつけて。
「……っ、く」
抑えていたはずの涙が、腫れてひりひりする目から次々と落ちる。
最近自分は毎日泣いているような気がする。いったいどれだけ泣けば気が済むのだろう。どれだけ涙を流せば、蓮への気持ちは消えてくれるのだろう。
言いたいことはまだたくさんあるはずなのに、それ以上の言葉は嗚咽に邪魔されて出てこない。涙をぬぐうこともせず、くるみはただ子供のように泣き続ける。
蓮はついに笑顔を消した。何か言葉をかけることもせず、ただ哀しそうに、苦しそうに眉をひそめてくるみを見ていた。
何故、蓮までそんなにつらそうな表情をするのだろう。
この状況になっても、くるみには蓮の本心がわからなかった。
やがて息を吸うような音が聞こえたかと思うと、蓮が重々しく口を開いた。
「……どうやら僕は、いない方がいいみたいだね。最近避けられているのも、わかっていたんだ」
蓮らしくない、覇気のない声だった。いつものはっきりとした物言いはどこにも見られない。声が、どことなく震えている。
「僕が君を、こんなにも弱らせてしまったんだね。本当にごめんね」
君が望むなら、僕は……潔く、君の傍から離れるよ。
端正な顔に、儚げな笑みが浮かぶ。無理をしているような、哀しそうな笑みだった。
長い指が、くるみの髪を一本一本慈しむように梳いていく。その丁寧な手つきが気持ちよくて、くるみは一瞬目を閉じた。
少しの間蓮はそうしていたが、やがて温かみを孕んだ手は名残惜しげに離れていく。間もなく、蓮は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、お大事にね」
出口近くで一度立ち止まり、振り返ると、背中を向けたくるみに声をかける。それから蓮は、静かに医務室を出て行った。
「ふ、うぅ……」
一人になった医務室で、くるみはさらに声を上げて泣き続けた。
――どうやらそのまま、眠ってしまっていたらしい。
次にくるみが目を開けると、隣には心配そうに瞳を揺らす奈月がいた。目を覚ましたくるみに気が付き、小さく微笑む。
「くるみちゃん。……気が付いた?」
「奈月……」
くるみが重い身体をどうにか起こそうと身を乗り出すのを、奈月は冷静な表情で制した。
「駄目だよ、寝てないと。……全く、だから言ったのに」
まるで悪戯をしたわが子をやんわりとたしなめる母親のように、その声は優しさと、同時に手厳しさをも孕んでいた――ようにくるみには聞こえた。
止まっていたはずの涙がまたせり上げてきて、くるみは声を震わせた。
「奈月、あたし……」
「大丈夫」
わかっているから、と囁くと、奈月は瞳を潤ませているくるみに向かって、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、くるみちゃん」
「……なに」
嗚咽を抑えながら、くるみが一言答える。奈月は切なげに眼を細めながら、鈴がリンと鳴るような、いつもの澄んだ綺麗な声で語り始めた。
「わたしね……くるみちゃんはいつも、人のために必要以上に頑張りすぎなんじゃないかな、って思うの。もちろんそんなくるみちゃんのこと、わたしは好きだよ。いつも助けてもらって、本当に感謝してもし尽くせないぐらい」
だけどね……。
そう苦しそうな声で呟いて、奈月は言葉を切った。
不審に思って視線を滑らせると、彼女は今にも泣きそうに表情を歪ませていた。自分がもとから持っていた感情に、奈月から伝わってくる新たな感情が上乗せされて、くるみの胸はさらに悲しみの色に染まっていく。
落ち着くためか、ふぅぅ……と小刻みに震える息を吐き出した後、奈月は言葉を続けた。
「だけど、そのために……くるみちゃん自身が苦しむのは見たくないな。わたしや周りの人たちの幸せのために、くるみちゃんの幸せが犠牲になっちゃうのは、嫌なの。耐えられないよ、わたし」
他のみんなも、同じ気持ちなんじゃないかな。きっと。
溢れそうな涙をこらえながら、一言一言かみしめるようにして話す奈月は、心の底からくるみのことを案じているようだった。
「奈月……」
「だから……だからね」
くるみがベッドの上から伸ばした手を、両手で包み込むように握ると、奈月が優しい声色で続ける。
「くるみちゃんは、もっと自分のために行動していいと思う。自由になって、いいと思う。わたしもね、くるみちゃんを助けてあげたいんだ。くるみちゃんのためにできることは何でもしてあげたいの。だから……もっと、わたしのこと頼って。困ったことがあったら、して欲しいことがあったら、何でも言って」
お願い……と、まるで祈るようにそう言った奈月を見ながら、くるみは初めて表情を和らげた。そのまま目から枯れることを知らない涙をぼろぼろと流しながら、彼女の言葉に甘えて、今現在の望みを口にする。
「じゃあ……あたしの気が済むまで、傍にいてくれる?」
奈月は顔を上げると、濡れた漆黒の瞳を細めて柔らかに微笑み……ただ、黙って深くうなずいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます