06.打ち明けられない恋

 とっぷりと夜が更けたころにようやく帰宅したくるみは、二階の自室へ入るなり自分のベッドの上へとダイブした。ボフン、とベッドが無機質な音を立てる。『うるさい』とか『静かにしなさい』などと一階にいる家族から苦情が出たが、そんなこと今はどうでもよかった。

 手元にあったふかふかの枕をぎゅっと抱きしめながら、さっきまで手にしていた携帯電話を見る。

 くるみが自分の中にある感情の正体に気付いた時。そのことを伝えると、電話していた相手――奈月は少し笑ったようだった。

『やっと、気づくことができたんだね』

 くるみは困惑し、彼女らしくもない弱々しい声で奈月に尋ねた。

『じゃあ……あたしは、どうすればいい?』

『伝えたら、いいんじゃないかな。ありのままに』

 静かな声だった。

『かつてくるみちゃんも、わたしにそう言ったでしょう?』

 確かに高校時代、今のくるみと同じように迷っていた奈月に対し、くるみは言った。『伝えなきゃ』と。

 結局その後、くるみの言葉通りに素直な気持ちを相手へ伝えたことが功を奏して、彼女の恋は幸せな結末を迎えた。

 だったら……自分も同じようになりたいなら、やはり伝えるべきだろう。少しでも、可能性があるとするならば。

 けれど……。

「無理だよ……」

 枕に顔を埋め、くるみは泣きそうな気持ちで呟いた。

 この気持ちは、絶対に伝えてはいけない。口にすることは、許されない。伝えれば最後、大切な人たちを傷つけることになる。

 自分は深雪にとって恋の相談相手。一番の、理解者のはず。その理解者を裏切ってしまうことは、絶対にできない。そうなれば深雪は自分を一生許さないだろうし、くるみ自身もそんな自分を絶対に許せないだろう。

 それに……蓮にとって自分は、単なる幼馴染。それ以上の関係など求めてはならないし、蓮も求めていないだろう。

 そんな自分に、蓮を縛り付ける権利などない。あるはずが、ないのだ。

「駄目。あたしは、」

 自覚したこの気持ちは、これ以上外へ漏らしてはいけない。自分の中だけに留めておかなくては。そうすることが深雪のためであり、蓮のためだ。

 そして何より、くるみ自身のためにもなる。

「この気持ちは……封印するの」

 胸の奥にしまって、風化させて。しまいには全部消して、なかったことにする。時間はかかるかもしれないけれど、頑張るから。

 だから、今だけは……。

「ごめんね、蓮……好きだよ」

 誰の耳にも届くことのない告白は、部屋の中でただむなしく響いた。


    ◆◆◆


 次の日から、くるみは今まで以上に徹底的に蓮を避けるようになった。

 大学内では、極力蓮と顔を合わせないように行動した。蓮の行動パターンを大体分かっているからこそできる芸当だ。この点だけは幼馴染という関係性に感謝したい、とくるみは思った。

 運悪く会ってしまった場合においては、無視を貫くことにした。すれ違っても見ないふり、話しかけられても聞こえないふり。

 蓮からの連絡も、すべて無視をした。メールも、電話も、全部。

 いっそ携帯電話の電話帳から、蓮の名前を消してしまおうとも考えた。けれど、それだけはどうしてもできなかった。蓮という存在がくるみの中から完全に消えてしまうような気がして、嫌だったのだ。

 せめて幼馴染という肩書だけでも、彼の存在を残しておきたかった。

 ひどいことをしているという自覚はある。だがそうでもしないと、くるみの精神が持たないのも事実だった。

 もし自分が関わらなくなったとしても、蓮には深雪がいる。蓮が深雪を選べば、彼は自然とくるみから離れていくだろう。そうなる前に、自分から離れようと思ったのだ。

 自分が、傷つかないように。

 ……なんて、どうにも自分勝手な結論だ。離れたいのに忘れたくないだなんて、矛盾している。自分はなんて最低で、穢れた人間なのだろう。

 泣きそうな気持ちになるのを抑えながら、くるみは今日も周りに笑顔を振りまいていた。


 ――それから、一週間ほどが経った。

 蓮とは一度も会っていない。しかし定期的にあるゼミナールのたびに、くるみは深雪から彼の状況を間接的に聞いていた。幸せそうな彼女の口から語られる蓮の姿は、今までと何も変わらない。

 会わなければ、自然にこの気持ちは消えると思っていたのに……深雪から彼の名を聞くたびに、くるみの胸は切なく締め付けられる。彼に会いたい、彼と話したい、というどうしようもない欲望がむくむくと沸き立ってくる。

 前よりも……余計に、苦しい。

 胸に溜まる混沌としたものを吐き出すように、くるみは深いため息をついた。


 その日はゼミナールがある日だった。

 今日も深雪の話を、笑顔で聞かなければ。内心の痛み、苦しみ、いらつきなどを、彼女の前では一瞬でも見せてはならない。彼女を悲しませるくらいなら、こちらが我慢するぐらい朝飯前だ。

 自分に言い聞かせながら、くるみはいつもの教室へ向かった。

 既に集まっていた多くの人をかき分け、自らの所属するグループの机へと向かうと、先に来ていた深雪が、いつもと同じようにこちらへ手を振っていた。くるみも笑顔を貼り付けて、元気よく手を振り返す。

 深雪のもとへたどり着くなり、くるみはいきなり深雪に腕をひかれた。びっくりして深雪の方を見ると、彼女はほんの少し頬を紅潮させていた。何故かいつもより緊張しているような面持ちだ。

 このあと深雪が何を言うのか、くるみはなんとなく悟ってしまった。同時にくるみは生まれて初めて、自分の勘の良さを恨んだ。

「あのね……」

「どうしたの?」

 弱々しげな声を上げる深雪へ、くるみは何も知らないふりをして首をかしげる。

 深雪はさらに顔を赤らめて、視線をさまよわせながら迷うように幾度か口を開閉させていた。くるみはそんな彼女を見守るように、優しい目を向けてやる。

 少し間があって、ようやく意を決したように深雪が口を開いた。

「私……そろそろ、蓮先輩に告白しようと思ってるの」

 予想していた通りの言葉だったため、くるみはさして驚きはしなかった。その代わり、今までにないほどの胸の痛みを覚えた。あまりに耐えがたく、思わず顔をしかめそうになってしまう。

「……どうしたの?」

 さすがにくるみの異変に気付いたのか、深雪が心配そうな目になった。

「今日……っていうか最近ちょっと、顔色悪いよ?」

 ハッとしたくるみは、急いで首を横に振った。数秒ほどうつむきながら両手で顔を覆った後、いつも通りの笑みを深雪に向ける。

「大丈夫だよ。ただちょっと寝不足なだけで」

「そう……?」

「あたしのことは気にしないでいいの。……そんなことより」

 いまだ心配そうな深雪に、くるみはわざと話をそらすように言った。

「告白、したいんでしょ」

「あ、そう……そうなの」

 我に返った深雪は、自分に言い聞かせるように幾度もうなずく。

「私……蓮先輩に、この想いをちゃんと伝えたいの」

 こんなにも好きだってこと、蓮先輩にわかってほしいの。

 くるみは、ちゃんと分かっている、というように深くうなずいた。

「私……大丈夫かな」

 弱々しげにつぶやくと、深雪はみるみる不安げな表情になっていく。そんな彼女を励ますように、くるみは優しく肩を抱いた。

「大丈夫。深雪のことなら、きっと蓮も受け入れてくれるはず」

 普段女の子と素で話すことなどほとんどない蓮が、深雪とはあれだけ仲良さげにしていたのだから。あれだけ、楽しそうだったのだから。

 くるみの中に芽生えたその妙な確信は、深雪を励ますものであると同時に、くるみ自身の首を絞めるものでもあった。

 苦しみに耐えるように、一度ぎゅっと強く目を瞑る。そして再び見開くと、くるみは深呼吸をした。そして底抜けに華やかな笑みを作り、努めて明るい声で、深雪を励ますように声をかけた。

「自信を持って。きっとうまくいくから」

 あたしはずっと、応援しているよ。

 応援なんて、できればしたくないと思っているくせに。よくそんなことが言えたものだ……と内心自分に呆れながらも、くるみはにっこりと笑った。

「うん!」

 深雪も励まされたようで、明るい表情になってうなずいた。

「私、頑張る……頑張るよ、くるみちゃん」

 幾度もそう繰り返す深雪に、くるみはただ優しい表情でうなずいた。


    ◆◆◆


「これで、よかったんだよね……?」

 帰宅後。

 自室のベッドにもぐりこみながら、くるみは一人呟いた。

 自分の想像が正しければ――きっとそれは、十中八九正しいことなのだろうが――明日にでも、深雪は蓮に告白するだろう。深雪は一度こうと決めたら、その後の行動は速い方なのだ。

 そして、蓮は――……。

 夕日が差し込むキャンパスで、二人が仲良さげに歩いている姿がフラッシュバックして、くるみは一瞬息ができなくなった。

「どうして……?」

 こみあげてくるものを必死で飲み込みながら、くるみは喘いだ。

 仲のいい友人と、今まで彼女を作らなかった幼馴染が、とうとう結ばれる時が来る。それは今まで応援してきた自分にとって、喜ばしいことのはずではないか。二人のために、自分は蓮への想いを封印したはずではないか。

 なのに……どうして自分はまだ、こんなにも張り裂けそうな胸の痛みを感じているのだろう。

 どうして自分はまだ、蓮のことがこんなにも好きなのだろう。

「……っ、く……」

 こみあげてくる涙は、どれだけ流したって足りはしない。どれだけ泣いても、この苦しみからは逃れられない。

 わかってはいても、勝手に目から溢れ出す涙は、どう頑張っても抑えることができなかった。

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