05.信じられない恋

 翌日から、くるみはそれとなく蓮のことを避けるようになった。

 すれ違っても自分から声をかけたりはしないし、逆に向こうから声をかけてきても、早めに話を切り上げるようにした。また、今までは時間が合うと一緒に大学へ向かったり、一緒に食堂へ行ったりしていたけれど、そういったことも「今日は用事があるから」などと理由をつけて避けた。

 とにかく、蓮と二人きりにはなりたくなかった。

 深雪に余計な誤解を与えてはならないから、というのももちろんあったけれど、一番の理由はくるみ自身が、蓮と一緒にいると何となく気まずい気持ちになるからだった。


 そんな日々が続いていた、ある日のこと。

「あぁ……もう。遅くなっちゃったよ。今日は早く帰るつもりだったのに」

 くるみはその日、教授に呼び出されたせいで帰りが遅くなっていた。何せここ数日いろいろあったせいで、レポートを提出することを失念していたのだ。蓮にチェックしてもらったところをすでに直してはいたので、いつでも出せる状態にあったはずなのだが……。

 レポートを忘れていた理由については、口から出まかせを言って教授に許しを乞うたおかげもあって、どうにか許してもらえた。昔から口だけはうまいくるみなので、その点では本当に助かったと思う。

 ちなみに数日遅れで提出したレポートは、上々の反応をもらうことができた。もし蓮に直してもらっていなければ、きっと書き直しをくらっていたことだろう。今は彼を避けているけれど、お世話になった手前、感謝のメールくらいは送っておかないと失礼だよな……と思いながら、くるみは日が落ち始めたキャンパスを一人で歩いていた。

 出口に向かってすたすたと歩いていると、向かいから一組の男女が歩いてくるのが見えた。はじめは、どこのカップルだろう……という程度にしか思っていなかったが、距離が近づくにつれて二人の姿がだんだんはっきりとしてくると、その見覚えのある顔にくるみはハッとした。向こうに気付かれないうちに、急いで校舎裏に身を隠す。

 向こうはくるみの存在には気が付いていないようで、どんどんとこちらの方へ近づいてくる。二人の顔が間近にはっきりと見えて、くるみは息をのんだ。

 彼らは、くるみが今一番見たくなかった二人――深雪と、蓮だった。

 深雪は蓮の方を向き、とても幸せそうに笑いながら何かを話していた。あんなに生き生きとした彼女を見るのは初めてだ……と、くるみは思った。蓮のことが好きでたまらない、という思いが、見ているこちらにもありありと伝わってくる。

 一方蓮は、そんな彼女の話に一つ一つ丁寧に相槌を打っているようだった。その顔は優しさと慈しみに満ち溢れている。くるみの前ではあまり見せてくれたことのない表情だ。

 それだけでも十分ショックを受けるのに値するのだが……くるみがさらに衝撃を受けたのは、深雪に合わせて歩く蓮の足取りだった。

 深雪はおっとりしたところがあるので、普段から歩くスピードは人よりも遅い。そんな彼女を気遣うかのようにゆっくりと合わせられた蓮の足取りからは、深雪に対する慈しみが感じられた。

 二人が仲良く笑いあいながら歩く姿はまるで、模範的なお似合いカップルのようで……そこに存在していることが自然なことであり、さも当然のことであるというように、くるみの目には見えた。

 くるみが固まっている間に、二人はこちらに一瞥もくれることなく――くるみは陰に身を隠すようにしていたのだから、当然と言えば当然なのだが――仲良く話しながら、くるみの目の前をゆっくりと通り過ぎて行った。

 二人が見えなくなると、くるみはその場に座り込んだ。両足の力が一気に抜けて、立っていられなくなったのだ。

 目の前がくらくらする。苦しくて、呼吸ができない。くるみは浅い呼吸を繰り返しながら胸のあたりに手をやると、心臓をわしづかみにするように、ぐっ、と力を込めて握りしめた。

 こみあげてくるものを抑えようと、唇を強く噛む。しかしその意に反するように、くるみの目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ、次々と頬を伝っていった。

「……っ、やだ。化粧、落ちちゃうじゃんか……」

 くるみの口から発された言葉は、人気のない校舎にむなしく響いた。

 やはり一度出てしまった涙は、そう簡単に止まってはくれない。止めようと思っても、堰を切ったように次々とあふれ出てくる。

「ひっ……く、ふぅぅ……」

 嗚咽が漏れるのをみっともないとは思いながらも、くるみはその場で動くこともできないまま、ずっと泣いていた。


 ――どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 外はすっかり日が落ち、暗くなっていた。気温も少しずつ下がり始めている。

「……ぐずっ」

 押し寄せる悲しみの波はようやく一段落ついたようで、くるみは鼻を鳴らしながらもなんとか落ち着きを取り戻していた。

 校舎の壁にもたれかかり、ふぅ……と長い溜息をつく。時計を見て時間を確かめると、ようやくその場から立ち上がった。

「……帰ろ」

 もう外は暗いし、冷えてきた。長居をしても風邪をひいてしまうだけだ。それに、あまり遅くなると家族が心配するだろう。

 服に付いた土などをパンパンと軽く払い、くるみは帰路に就くことにした。


 すっかり暗くなったいつもの帰り道を歩きながら、くるみは考えていた。

 とりあえず、自分の心がもう限界を迎えていることだけは分かった。けれどこの胸を占める違和感の正体は、いまだにわからないままだ。

 奈月なら……教えてくれるだろうか。

 ふとそう思い立ち、携帯電話を取り出す。歩きながらも慣れた手つきで電話帳を開くと、彼女の電話番号を呼び出す。

 数回のコール音の後に、ブッ、という音がした。それから間もなく、『もしもし?』と声が聞こえてくる。鈴の音がころころと鳴るような、聞きなれた綺麗な声だ。

 何故かひどくほっとして、止まったはずの涙が再びくるみの目から零れ落ちた。

「うぅ……っ、奈月……」

 涙声で、受話器の向こうの友人に呼びかける。

『え、ちょ……どうしたの!?』

 くるみが泣いていることによほど驚いたのだろう。奈月はおろおろしたように呼びかけてきた。

『くるみちゃん……泣いてる?』

「……泣いてる」

 手短におうむ返しのごとく答えると、奈月は『えー? うそ……あー……』と困ったように唸っていたが、やがて一つ息をつくと、落ち着きを取り戻したような声でくるみに問いかけた。

『何か、あった? せっかく電話してくれたんだし、わたしでよければ話してくれないかな』

 最初からそのつもりだったわよ……という、いつもなら言えるような軽口も、今日は言うことができなかった。奈月の優しい声と独特の間に安堵を覚えながら、くるみは今までのことを少しずつ話し始める。そのうちに再び落ち着きを取り戻したのか、自然と涙も止まっていた。

 奈月はやはり、最後まで口をはさむことなく静かに聞いてくれていた。

「……前にも奈月に相談したけれど、今はそれ以上におかしくなってる。ホントにあたし、どうしちゃったのかな」

 深雪に対する妙ないらつき、蓮に対する滑稽なほどの胸の高鳴り、そして二人が仲良くなっていると知った時の、異常なまでの絶望感……。

 教えてほしい。暴いてほしい。

 このおかしな気持ちは、一体何なのか。

『…………』

 くるみが話し終えても、奈月はしばらく黙っていた。前に相談した時と同じように、何かを考えているようだ。

 くるみが口を開こうとすると、突然受話器の向こうからふぅぅぅぅ……という長い息の音が聞こえた。おそらく、奈月がため息をついた音だろう。もしかしたら、あまりにも滑稽な自分に呆れているのかもしれない。

 少々ネガティブになっていると、奈月が口を開いた。

『前にも言ったけれど、くるみちゃんって本当に……自分のことに対しては鈍感だよね』

 思いがけず彼女の口から再び、その言葉が出た。意味が分からなくて聞こうと思っていたのに、結局聞けなかった言葉だ。チャンスだ、と思い、くるみは尋ねた。

「ねぇ。前から思ってたんだけれど、その言葉ってどういう意味なの?」

『まだ、わからないかな』

 逆に問いかけられた。意図することが全く理解できず、くるみの口からは「え……」という困惑したような声だけが漏れる。

 奈月はまた一つため息をつくと、はっきりとした口調でくるみに告げた。

『くるみちゃんはね、蓮さんに恋をしているんだと思うよ』

 予想外の言葉に、くるみは大きく目を見開いた。

「恋……?」

『そう』

 聞き返すと、間髪入れずに肯定の言葉が戻ってくる。奈月には珍しいほどの即答だった。

『わたしは蓮さんのことあまりよく知らないから、断定的なことは言えないけれどね。……でも、話を聞いている限りは、そうだと思う』

 でもまぁ……まずはくるみちゃん自身が自覚しないと、だよね。

 小声で発された意味深な言葉に、くるみは目をぱちくりさせた。

「どういうこと?」

『今までのことを、思い返してみるんだよ。蓮さんを一番よく知っているのは……蓮さんを一番近くで見てきたのは、くるみちゃんでしょう?』

 諭すようなその声に導かれるかのように、くるみはその場に立ち止まった。

 目を閉じると、とたんに幼いころから今までの記憶が一気によみがえってきた。まるで映画の予告映像でも見ているかのように、その場面は次々と切り替わっていく。

 物心ついた時から、くるみの傍には必ず蓮がいた。隣に蓮がいて、自分を支えてくれる。それはくるみにとって至極当たり前のことで、日常といっても過言ではなかった。蓮が傍にいない毎日なんて、きっと考えられない。

 思えばいつも、蓮に頼りっぱなしだったような気がする。蓮が優しいから、いつも力になってくれるから、無意識に甘えていたのだろう。

 いきなり接近して胸が高鳴ってしまったのは、やっぱり図書館でのことがあったからだ。けれど、もしそれがなかったとしたら?

 もしかして……今まで女の子たちにたやすく協力ができたのは、きっと心のどこかで、今回もどうせ脈がないだろう、と高をくくっていたからじゃないのか?

 だけど今回は、いつもとは違う展開になった。こんなことになるのは、初めてだった。

 もし、図書館の一件がなかったとしても。蓮を男として意識するような出来事が、起こらなかったとしても。自分は本当に、蓮と深雪の間に生まれた恋を心から祝福することができる、と断言できるだろうか?

 ……多分、答えはNOだ。

 今までの関係でいられたとしてもきっと、蓮が他の女の子を好きになったとしたら、耐えられなかっただろう。今と同じように、その女の子に対して、醜いほどの嫉妬を覚えただろう。

 ずっと傍にいた蓮が自分から離れて、他の女の子と笑いあう。その事実を知ったらきっと、自分は正気ではいられない。

 それは……その気持ちは、例えるならば独占欲に近い。蓮を自分のものとして、ずっと縛り付けておきたいという、ひどく狂った欲望。

 その穢れきった感情がもし、恋と呼ばれるものであるとするならば。

 目を背けていたはずの自分の気持ちを、改めて真正面から見つめた今なら、ようやく認めることができる気がした。

 あたしは、蓮のことを……。

 閉じていた目を開いたくるみは、すぅ、と一つ息を吸った。そして、くるみが考えている間ずっと黙って待っていてくれた電話向こうの友人に、はっきりとした声で告げたのだった。

「認めるよ。あたしは確かに、蓮に恋をしている」

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