03.感じやすい心

 図書館から帰宅してから、くるみは自室で借りてきた本を没頭するように読み込んだ。それから夜になって、レポート用紙に拾い読みした要点を事細かに写しこんでいく。

 いつもは蓮に手伝ってもらうため、もう少しマシなものが完成するのだが、『一人で大丈夫だから』と言ってしまった手前、今更『やっぱり手伝って』なんて言えるはずもない。

 それに……今のこの状態では、蓮と顔を合わせることもままならない。

 今蓮と会ってしまえば、自分がどうなるのかわからない。いつも以上に粗相を起こして、自分がおかしくなっていくんじゃないか……そう思うと、どうにも怖かったのだ。

 幾度か蓮から心配するようなメールが来たけれど、あくまで『大丈夫だから』と返信をするだけで、それ以上のことは何も報告しなかった。


 そして翌日、どうにかレポートは完成した。その日の講義はいつもより少し遅い時間からだったため、時間に余裕があったというのが幸いだった。

 若干寝不足の頭をどうにか働かせ、街中の大学へと向かう。

 キャンパスへ着き、歩いていると、誰かにすれ違いざまに声をかけられた。

「やぁ、くるみ」

「……っ、蓮」

 今一番、会いたくない顔だった。みるみるうちに心臓が早鐘を打ち始める。

 蓮はくるみが抱く気持ちなど全く知らない様子で、いつも通りふんわりと微笑みながらくるみに話しかけた。

「結局、レポートは書けたの」

「う、うん。どうにか」

 変に意識しているせいか、若干声が上ずってしまう。

「提出期限、いつだったっけ」

「あ、明後日だけど……早くできたから、今日提出しちゃおうかなって思ってる」

「本当に大丈夫かい?」

 蓮が眉をひそめる。くるみがレポートを苦手としていることを知っているので、その出来を心配しているようだ。

「明後日提出ならまだ時間はあるし、僕が一度チェックしようか?」

「あ……」

 平気よ、ととっさに答えようと思ったものの、出来がよくないのは分かっているので言いよどむ。多分、今のままだと再提出を求められてしまうだろう。できれば蓮に見てもらい、悪いところを直してほしいというのが正直なところだ。

 口をつぐんでしまったくるみに、蓮は不思議そうに首をかしげた。

「どうしたの?」

「な、何でもない」

「そう? ……まぁいいや、とにかく見せて」

 蓮に手を差し出されてしまっては、今更断ることはできない。仕方なく、くるみは自分が書いた穴あきだらけのレポートを鞄から出した。

 蓮に差し出し、受け取ってもらう。それだけで心臓が荒れ狂うようにばくばくと音を立てた。血流がよくなって、顔も徐々に熱くなっていく。

「も、もし直すところがあったら直しといて!」

 赤くなった顔を見られないように蓮から顔をそらしながら、早口でまくしたてると、くるみは蓮から離れ、慌てて走り去っていってしまった。

「え、ちょ……くるみ?」

 後ろから蓮の困惑したような声が聞こえたけれど、無視をした。


    ◆◆◆


「も~……絶対おかしいよ、あたし……」

 講義が終わってから、くるみは大学から少し離れた喫茶店にいた。窓際の席に座るなり、頭を垂れながら唸る。

「くるみちゃん……大丈夫?」

 くるみの向かいの席に座っていた友人・藤野ふじの奈月なつきは、そんなくるみに何と声をかけていいか迷っているようだった。

 くるみは割とさばさばした性格なので、思い悩んだりするということはめったにない。中学校時代からくるみを知る奈月も、彼女があれこれ悩んでいるところは見たことがなかった。

 それゆえに、余計に心配になってしまうのである。

「……とりあえず、顔を上げて。まずは何か注文しようか」

 気遣うように言いながら、奈月はメニューを取り出した。くるみもゆっくりと顔を上げ、奈月が広げたメニューに目を通す。とにかく落ち着きを取り戻したかったので、甘いハニーラテを注文することにした。

 注文していた品が来ると、奈月はふぅ、ふぅと息を吹きかけながら、やけどしないようにおそるおそる自分の注文した飲み物を口にした。

 普段から大人びた性格である奈月は、普通にしていると実年齢より上に見られることが多い。しかしもともと小柄で子供っぽい顔立ちであるため、このような可愛らしい行動をすると、年相応かまたはそれ以下のように見えて、愛らしい。

 くるみもそんな奈月を見ていると、自然とほっこりとした気分になってしまう。

 くるみが頬杖を突きながら奈月を見て微笑んでいると、当の奈月は上目づかいでくるみの方を見て、心配そうに口を開いた。

「ところで、くるみちゃん。……本当に、何かあったの? わたしでよかったら、相談してくれないかな」

 今のくるみちゃん、らしくないよ。

 奈月の言葉に、くるみは狼狽した。そんな風に言われるのは初めてだったからだ。今の自分は、そんなに元気がないように見えるのだろうか……。

 自分はもう手遅れなのかもしれない、と思いながら、くるみはハニーラテを時折口にしつつ、ぽつりぽつりと昨日のことについて話し始めた。

 奈月は途中で口をはさむことなく、相槌を打ちながら、くるみのたどたどしい言葉を最後まで聞いてくれた。


 ――ひと通り話し終えると、奈月は少し考えるようなしぐさをした。その間、くるみはあぅぅ、と唸りながら、再び頭を抱えていた。

「もう、何なんだろう。ホントわけわかんないよ……あたし、どうしちゃったのかな」

 奈月はふぅ、とため息をつくと、呆れたようにくるみを見た。

「くるみちゃんってさ、昔からそうだよね。他人のことに関してはこっちまでびっくりしちゃうぐらい鋭いのに、自分のこととなると本当に鈍いっていうか」

「……え?」

 くるみは思わず顔を上げ、目を丸くした。

「それって、どういう……」

 どういうこと、と今まさに尋ねようとした時、唐突にどこからか音楽が鳴り始めた。奈月はびくり、と反応し、慌てて鞄から携帯電話を取り出す。そしてくるみの方を見ると、申し訳なさそうに「ちょっと、ごめんね」とささやいた。

「大丈夫。あたしのことは気にしなくていいから、早く出て」

 くるみが答えると、奈月は安心したように微笑み、電話に出た。

「もしもし」

 携帯電話を持っていない方の手で口元を軽く押さえながら、奈月が小声で話し始める。

「……はい。大学の方はもう終わりました」

 彼女が恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに顔を赤らめながらはにかんでいるところを見て、くるみは電話の相手が誰であるのかとっさに察した。

「……え、今からですか? あー……」

 そこで言い淀み、奈月は困ったようにくるみを一瞥する。くるみは気にしないで、というように、こくりとうなずいて見せた。奈月がほっとしたような表情になると、再び電話の相手に向かって、照れくさそうに話しかける。

「大丈夫です」

 くるみはそんな彼女を、微笑ましげに見つめていた。

 それから少し話して、奈月は電話を切った。心から申し訳ないというように、くるみに向かって両手を合わせる。

「ごめんね、くるみちゃん。用事ができちゃって」

「大丈夫。これから、デートなんでしょう」

 にっこり笑ってそう言ってやると、奈月はとたんに真っ赤になった。

「いや、その……で、デートっていうか」

「照れちゃって、可愛いなぁ。奈月ったら」

 くすくす、とくるみが笑う。奈月はさらに顔を赤くした。

「……じゃあごめんね。わたし、もう行くよ」

 早口で言い、財布を取り出しお金を出そうとした奈月を、くるみは止めた。

「あたしがおごるよ。誘ったのはあたしだし」

「え……でも、悪いよ」

「平気」

 それより、早くしないと彼、待っているんじゃないの?

 悪戯っぽく言ってやると、奈月は目を見開いた。慌てたように時計とくるみの顔を見比べながら、どうしようか悩んでいる様子だ。

「大丈夫だから。ほら、早く行きなさい。待たせちゃ悪いわよ」

 急かすように手をひらりと振ると、奈月はしぶしぶ立ち上がった。

「じゃあ……本当にごめんね。今度は、わたしがおごるから」

 そう言い残し、奈月は急いで店を出て行った。

 慌てるような、それでいてどこか嬉しそうな足取りで駆けていく奈月を、くるみは微笑みながらもどこか羨ましそうな目で見送っていた。

 が……。

 奈月の姿が見えなくなると、くるみは重々しくため息をついた。弱り果てたようにテーブルに突っ伏す。

「もう……ホント、わけわかんない」

 ――くるみちゃんって、自分のこととなると本当に鈍いよね。

 奈月が発した言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。結局あの言葉の真意を聞けずじまいのまま、彼女を送り出してしまった。急いでいる彼女を変に引き止めるのはよくないから、これでよかったといえばよかったのだが……。

「いったい、どういうことなのよ……」

 窓の外の景色を眺めながら、くるみは泣きそうな気持ちで呟いた。


    ◆◆◆


 翌日。

 くるみは朝一番に、早速蓮から手渡された――というより、差し出されたのを無理やり奪い取ってきた――レポートを見直した。

 書かれたくるみの字の上にはメモが張り付けてあり、見慣れた蓮の几帳面そうな丁寧な字がびっしりと並んでいる。案の定、大部分を加筆修正せよとの指示がなされていた。面倒くさいとは思ったものの、彼女の書いたものよりよほどレポートらしくなるであろうことは事実だ。内心で蓮に感謝しながら、家で直そうと鞄にそれをしまい、講義へ向かった。

 その日は週に二度行われる、ゼミナールの日だった。

 通称『演習』や『ゼミ』などと呼ばれるそれは、いつもより専門性の高い授業を行う。しかもただ座学の授業を行うわけではなく、少人数のグループで話し合いながら進むような授業形式だ。

 いつもの退屈な講義ではなく、いろいろなテーマについてあれこれ意見を述べることができる。喋ることが好きなくるみにとって、このゼミナールは割と楽しみな授業だった。

 いつもの通り指定されたグループの机へと向かう。そこには同じグループの女子・芹澤せりざわ深雪みゆきが既にいた。

「やっほ、深雪」

「あ、くるみちゃん」

 深雪はくるみに気付くと、親しげに微笑んだ。腰まで伸びる色素の薄い髪が、彼女の動きに合わせて、儚げにさらりと揺れる。

 もともと深雪は引っ込み思案で人見知りをしやすい性格なのだが、くるみに対しては心を許しているようで、授業の中でも別のところでも、自分から色々と喋りかけてくれる。

 その日も授業が始まるまで少し時間があったので、話をしようとくるみが深雪の隣に座った。

 くるみが隣に座るなり深雪は、相談事があるの、と少し真剣な表情で持ちかけてきた。

「相談事……?」

「うん」

 こんなこと、くるみちゃんにしか頼めなくて。

 そう言われてしまうと、もう相談に乗らざるを得ない。くるみはもともと頼られることが好きなので、『自分にしか頼めない』という状況になると、どれだけ自分が困ることになろうとも引き受けてしまうのだ。

「わかった、話してみて」

 くるみが了承すると、深雪は安堵したように表情を崩した。そして、小さな声でくるみに耳打ちするようにこう言った。

「私ね、好きな人がいるんだ」

 その話題か、とくるみは思う。くるみに持ちかけられる『相談事』の実に九割近くがそうなので、今更驚きもしない。

「好きな人って、誰? あたし、調べて来るよ」

 いつもの通り、そう答えた。

 しかし、何故か深雪は静かに首を横に振った。

「その必要は、ないと思う」

「どうして?」

「相手は……きっとくるみちゃん、よく知ってる人だから」

「え……」

 嫌な予感がした。背中に汗が伝うのを感じながら、くるみは恐る恐る深雪に尋ねる。

「もしかして、その好きな人っていうのは……」

 深雪は重々しく、しっかりとうなずいた。

「私、青柳先輩のことが好きなの」

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