02.恋の訪れ
大学というのは、日曜は基本的に講義をやっていない。もちろん街中の大学でも、それは例外ではなく……。
そんな中、くるみはレポートの提出期限に追われていた。近いうちに形にして提出しなければ、単位をもらうことができない。それはさすがに困る。しかしくるみはレポートが苦手なので、一人じゃどうすることもできない。
というわけで、いつも通り蓮に協力を要請することにした。蓮は「しょうがないなぁ」と苦笑しながら、いつも通り二つ返事で了承してくれた。
「とりあえず、まずは資料集めからだね。図書館でめぼしいものをいろいろ集めてこようか」
――というわけで、講義のない日曜日の昼下がり。くるみは蓮と一緒に、街中の図書館まで来ていた。
入口までに二、三段の段差があり、二人で話しながら上っていく。蓮の方を見ていたせいであまり下を見ていなかったくるみは、思わず段差の一つにつんのめってしまった。
「きゃ、」
「……っと」
転びそうになるくるみを、蓮が腕を引いて止める。
「大丈夫? 気をつけなよ」
「ん……ありがと」
またやってしまった……と内心思いながら、くるみは蓮に礼を言った。このようなことは昔からしょっちゅうあるので、今更異常なまでの照れはないし、蓮も必要以上には突っ込んでこない。
そのままそろそろと下を見つつ、階段を上っていく。今度は前を見ていなかったせいで、開く自動ドアに驚いてしまった。
「まったく、何やってんだか」
これにはさすがに蓮も少し笑ってしまう。くるみはむぅ、と頬を膨らませながら、そんな蓮を恨めし気に見つめた。
自動ドアが開くと、広い室内にはいくつもの本棚が並んでいた。
普段あまり本を読まないくるみは、図書館や図書室といった『図書』とつく場所に、自主的にはあまり行かない。行ったとしても今回のようなレポートの資料集めとか、テスト勉強とか、本好きな友人の付き添いとか、せいぜいその程度だ。
しかし……やはりいつ来ても、この光景には慣れない。天井近くから床近くにまでぎっしり詰められた膨大な量の本たちを眺め見るだけで、自然とめまいを覚えてしまう。
軽く辟易しつつ、くるみは何事もなくすたすたと前を進んでいく蓮――くるみと対照的に、この光景には慣れっこのようだ――の後を追った。
「さて……今回はこのあたりかな」
経済絡みの書物がたくさん並ぶ本棚の前で、蓮は立ち止まった。
「そうね、良さそうなのがいっぱいあるわ」
くるみも立ちくらみしつつ、本棚を見上げてうなずく。
今回提出しなければならないレポートは、主に経済的なことがテーマになっている。別に経済学部でもないのに何故……と教授に文句を言いたくなったが、やはり単位は欲しいのでぐっと我慢した。
上から並ぶ本のタイトルに目を通し、使えそうなものを探してみる。蓮も蓮でその辺を歩き回りながら、レポートのテーマについて詳しく書かれていそうな本を何冊か手に取っていた。
「くるみ、何か見つかった?」
しばらく熱心に探していると、蓮が声をかけてきた。
「んー、わかんないなぁ……」
言いながら、くるみは思案顔で蓮の方を振り返り……。
「……って、うわっ!?」
思わず驚きの声を上げてしまった。とっさにここが図書館であることに気付き、慌てて両手で口をふさぐ。
ん? と不思議そうに首をかしげる蓮の腕には、実に十冊以上もの本が積まれていた。見た目は少々細身であまり力はなさそうに見える蓮だが、別に重そうでもなく、軽々とそれらを片手に抱えている。
「よくそんなに見つけたわね」
「まぁ……本当に全て使えるかは疑問だけれど、とりあえず手に取ってみたって感じだから。割と無差別だよ」
蓮は自らの腕に抱えた本の山を一瞥すると、取るに足らないことというようにそう言った。
「さすがに、蓮は賢いよねぇ……」
ほぇぇ、と声を上げながら、くるみが蓮を見上げる。その純真無垢な様子に、蓮は苦笑した。
「何だいそれ、皮肉かい」
「違うわよ。あたしの正直な気持ち」
澄ましたようにくるみが答える。蓮はそんな彼女に、軽く疑いの目を向けた。
「本当かなぁ」
「あら、信用できないの」
「できない」
「もうっ! 失礼ね」
そんな風に言い合いながら、もう少し何かないかと本棚を探す。本棚を見上げながら歩くくるみに「下に気をつけなよ」と注意しながら、蓮はまるで歩き始めた子供を見守る母親のように、ゆっくりとした足取りでついて行く。
「んー……」
唸りながらめぼしいものを探していくと、少し向こうの方にちょうど良さそうな書物を見つけた。「あ!」と弾むような声を上げ、駆け寄っていく。
「ん、どうした?」
蓮もくるみが駆けていくのを、少し早足で追って行った。くるみは嬉々とした様子で立ち止まり、見つけたそれを指差す。
「ほら、あれ! ちょうどよくない!?」
無邪気に伸ばされたくるみの指の先を、蓮は目で追っていく。題名を確かめると、ふんわりと笑った。
「そうだね、あれは一番使えそうだ」
ちょうどいいものを見つけたじゃないか、と蓮に珍しく褒められ、くるみは得意げに笑った。
「へへん、でしょ? じゃあ早速取るね」
くるみはその書物を取ろうとした。しかしそれはくるみの背丈よりも高い所に位置していたので、手を伸ばしてもなかなか届かない。
「っ、く」
「まったく……無理しないで。僕が取るよ」
必死に取ろうとするくるみを見かねて、蓮が手を伸ばそうとした。蓮の背丈ならば、余裕で取ることができるのだ。しかしくるみは、その手をぺしり、と軽くたたいて止めた。驚いてくるみを見下ろす蓮に、くるみは拗ねた表情で言う。
「だめっ。あたしが見つけたんだから、あたしが取るの」
相変わらず変なところで子供みたいなこだわりを見せる奴だ、と思いながら、蓮はくす、と控えめに笑った。
「わかったよ」
おとなしく手を下ろす。一度負けず嫌いな性格を発動させてしまったくるみは、どう頑張っても止められない。止めたら最後、しばらく機嫌が直らないのだ。そういったことを蓮はちゃんとわかっていた。
蓮が手を下ろしたのを確認すると、くるみは引き続き目当ての本を取ろうと手を伸ばした。が、少ししてそれだけでは届かないと判断し、背伸びをして爪先立ちの体形になる。
「う……っく、もう少し」
極限まで爪先立ちになり、力んでいると、顔が熱くなっていくのがわかる。額に汗がにじんできたところで、ようやく手が届いた。今度は本棚から引き抜こうと、本の背表紙をつかむ。
「よしっ」
もう少しで引き抜ける、というところで、くるみの体が大きくよろけた。
「きゃっ!?」
「うわ……!?」
支えようとした蓮に勢いよくぶつかり、蓮もバランスを崩してしまう。そのまま二人は支えを失い、後ろへ倒れてしまった。くるみは次に来る痛みに耐えようと、反射的に目をつぶる。
……が。
どさり、とか、ばさばさっ、という音はしたものの、想定した衝撃と痛みはやってこない。実際に来たのは、まるでソファーに飛び込んだ時のように柔らかな衝撃と、暖かな温度だった。
「いたた……大丈夫?」
上から蓮の声が降ってきた。やけに近くから聞こえるような気がする。彼のかすかな吐息まで聞こえてくるほどだ。
「え……?」
恐る恐る目を開ける。目の前にはその場に居合わせた多くの人がいて、物珍しそうにこちらを見ていた。
不思議に思い、現在の自分の姿勢を見る。
床に座ったままのくるみのすぐ真後ろで蓮が尻餅をついていて、蓮の顔がすぐ間近にあった。周りには蓮がひっくり返してしまったのであろう本が散らばっている。空いた蓮の片手は突っ張るように床につき、もう片方の手はくるみを支えるように、腰のあたりへ軽く回されていた……というより、軽く添えられていた。くるみがすぐ振りほどけるように、という蓮の配慮だろう。
……つまり簡単に言うと、くるみは現在、蓮に後ろから抱きしめられているような体形になっているわけである。
「ご、ごめん!」
今の自分が置かれている状況にようやく気が付き、くるみは慌てて蓮の上からどいた。自分でも滑稽だと思うぐらいに、心臓が早鐘を打っている。
「怪我はない?」
くるみがどいたのを見計らい、蓮は床に手をついて立ち上がる。そして服を軽く払いながら、くるみの心情をまるで気にしていないような様子で言った。
「う……うん、ホントごめんね」
変に意識してしまうのを悟られないように、くるみは早口で答える。それから散らばった本を適当に拾っていった。
「僕は全然大丈夫だよ。君に怪我がないなら、それでいい」
蓮は言いながらその場にしゃがみ込み、くるみが本を拾うのをさりげなく手伝い始めた。妙に紳士的なその行動に、くるみは何故か急に胸が絞られるような気持ちを覚えた。
全て拾い終わると、くるみはその中から数冊選び、自分の腕に抱えた。その中には先ほどくるみが取ろうとしていた本も含まれていた。どうやらくるみたちが転んだのと同時に、本棚から落ちたらしい。
「あ、あたし……帰るね」
「ん、もういいのかい。手伝わなくて大丈夫?」
「いい、大丈夫! 資料さえあれば一人で大丈夫だから!」
蓮が首をかしげるのにも構わず、くるみは急いで受付へ向かう。後を追おうとする蓮に「ホント大丈夫だから」と言い含め、慌てて貸し出しを済ませる。
それから振り返りもせずに、くるみは走って図書館を出て行った。
言われたことを律儀に守ってくれたのか、蓮はそれ以上ついてこなかった。
家までの道を一人で走りながら、くるみは考えていた。
これまで幾度も蓮に触れられたことはあったけれど、あれだけ蓮と密着したのは初めてだった。そして、こんなに動揺したのも初めてだった。
蓮の体温や、耳元で聞こえる柔らかな声。そして、間近に聞こえたかすかな吐息……その全てがよみがえり、自然と顔が熱くなる。
あれほどの接近には慣れていなかったから、という言い訳もできるけれど、この胸の高鳴りの原因は、そういうのとはなんだか違うような気がした。
あぁ……そういえば蓮に聞きたいことがあったはずなのに、すっかり忘れていた。けれどそんなことはもう、どうだっていい。
蓮に対して抱いていたはずの疑問よりも、自分自身に対して生まれた疑問の方が、今は大きかった。
どうして自分は……こんなにドキドキしているのだろう。
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