互いに忘れないように
「あらぁ、龍次さん。いらっしゃい」
「
久しぶりに友人だった男――桜井葉一の家を訪ねてみると、昔訪ねた時と何ら変わらない家の中から、葉一の妻・芳菜さんが笑顔でパタパタと小走りに駆け寄ってきた。
芳菜さんはとても明るい女性だ。その場にいるだけで、まるで太陽のように周りを照らし出してくれる。それは彼女と知り合った昔から、ずっと変わらなくて……そのことが、いつだって私をホッとさせた。
「せっかくだからぁ、上がってお茶でもどうぞ~」
のんびりと語尾を伸ばす口調も、彼女が変わらないところの一つ。それは昔からの癖らしく、彼女の雰囲気によく似合った喋り方だった。
「ありがとう」
私は温かな気持ちで微笑むと、お言葉に甘えて靴を脱ぎ、芳菜さんに続いて家の中に入っていった。
「――どうぞ」
床の間のある和室に通され、促されるままに木製のテーブルに着くと、すぐさま私の横にやってきた若い女性が緑茶を出してくれた。
「ありがとう、
彼女――真白ちゃんに軽く微笑むと、真白ちゃんは芳菜さんによく似た無邪気な笑みを浮かべた。
彼女は、芳菜さんの娘だ。もうすでに結婚しており、本来ならば家を出ているはずの身なのだが、現在は家族ぐるみで芳菜さんと同居している。夫を亡くし一人っきりになってしまった母親を気遣ってのことだという。
もちろん他に頼るあてがないわけではないのだが、そこはやはり長女としての責任感があったのだろう。また、彼女が嫁いだ先のご家族がとてもいい人であり、母親と一緒に暮らすことについて快諾してくれたということも背景にはあるようだ。
「
ほんの世間話のつもりで軽く尋ねてみると、真白ちゃんは笑顔のまま「えぇ」とうなずいた。
「
「ふふ。何年経っても、仲睦まじいようで何よりだね」
「嫌だ、そんな」
少し顔を赤らめてみせる真白ちゃんは少女のようで、やはり大人になっても可愛らしい。昔から知っている身としては、その姿がまだまだ子供のようにも見える。
「お子さんたちはどうだね」
「えぇ、子供たちも食べ盛りで……家事がだんだん大変になってきているんですけど、母さんに手伝ってもらいながら、何とかこなしてます」
「そうかそうか。……二人とも、まだ学校かね?」
「もう少しで帰ってくる頃だと思います。せっかくだから、遊んでやってください。二人とも龍次おじさんのことが大好きなので、きっと喜びますよ」
「そうだね、久しぶりに成長した彼らに会いたいものだ」
ふふ、と笑う真白ちゃんからは、先程とは違った母親らしい落ち着きが見えた。さっきまでまだまだ子供だと思っていたけれど、彼女もやはりそれなりに年を重ねてきたのだなぁ……と、しみじみ思った。
それから真白ちゃんは、何かを思い出したかのように不意に眉をひそめた。
「……あ、そうそう。健人は、ちゃんと仕事してますか?」
昔から変わらないその声と表情に、私は思わず苦笑した。
健人というのは私が経営する塾で働く塾講師であり、真白ちゃんの弟にあたる。落ち着きのない弟を案じる姉の顔――健人のことを語る彼女は、いつもこんな表情をする――で、真白ちゃんは続けた。
「あいつ、昔から他人を巻き込むような節があるから……もし龍次おじさんにご迷惑をおかけしていたら、ホントすみません」
「いやいや、健人もすっかりいい先生として働いてくれているし、男としても磨きがかかってきているよ」
「本当ですか? だったらいいんですけど……龍次おじさんは優しいから、調子よく付け込んでやしないかとか、生徒であるお子さんたちに変なこと教えてないかとか、いろいろ心配で」
「大丈夫、仕事に関してはそれなりに厳しくやってるから」
そんな話をしていると、向こうで夕食の準備をしていたらしい芳菜さんがひょこっと出てきた。
「あらあら、盛り上がっているようでなによりねぇ」
「あぁ、楽しませてもらっているよ」
「良かったら~、お夕飯もどうぞぉ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
芳菜さんの勧めに快く応じると、芳菜さんと真白ちゃんはそろって微笑んだ。
「ぜひぜひ、甘えちゃってくださいな」
「ふふ。……あぁ、そうだ真白ちゃん。醤油が切れちゃってたから、ちょっと買ってきてほしいのだけど」
「分かったよ、母さん。……じゃあ、龍次おじさん。ごゆっくり」
そう言って財布を持ち、パタパタと玄関へ駆けていく真白ちゃんを、私は目を細めながら穏やかな気持ちで見送った。
「真白ちゃんも、立派になったね」
「えぇ。私も、安心しているんですよぉ」
たおやかに微笑む芳菜さんに、私もまた微笑みを返す。
それから一口だけ緑茶を口にすると、私は床の間の横に位置する仏壇に目をやった。
「もう、十年も前になるのねぇ」
私の視線に気づいたらしい芳菜さんが、私の横に膝をつき、切なそうな声で淡々と呟く。
「突然だった。あの人が……葉一さんが、いなくなってしまったのは」
私も、切ない気持ちになる。
私の友人だった彼――葉一は、十年前の秋、突然起こった交通事故に巻き込まれ、亡くなってしまった。
話によると、当時事故を起こしたという男性からは多額の賠償金を支払うことが約束され、この十年間『気持ち』としてそれなりの対価が支払われたらしいが……『それでも、彼は戻ってこないわ』と、いつになく真剣な声で芳菜さんが言っていたことを思い出す。
「今でも、毎月口座にはお金が振り込まれているの。……申し訳なく思ってくれるのは、葉一さんを忘れないでいてくれているのは、ありがたいと思う」
どこか遠い目で、芳菜さんが続ける。
「けど……」
そのまなざしに、痛みが過ぎる。私の心にも、同時に刃物で切り付けられたような痛みが走った。
「お願いだから、もうこれ以上……人を殺したという罪を、背負わないでほしいと思うの。毎月お金が振り込まれていることに気付くたびに……私は彼の心情を察して、とても辛い気持ちになってしまう」
その言葉や表情から、芳菜さんの優しさが伝わってきた。
本当なら、亭主の命を奪った人間のことを、一生憎みながら生きていてもおかしくない。こんな風に、加害者の心情を想って、辛い思いをすることなど……普通ならばきっと、ないはずなのに。
それなのに……。
「葉一さんが亡くなってしまったという事実は、もう変えようがないから。だからもう、葉一さんを引きずらなくていい。……彼にはちゃんと、彼自身の人生を生きてほしい。忘れてくれとは言わないけれど……願わくは、彼に葉一さんが生きられなかった分を、立派に生きていってほしい。それが、葉一さんに対する精一杯の償いではないかと思うの」
葉一さんは、不器用だけど優しい人だったから……きっと、同じことを願っているはずだわ。
目尻に涙を浮かべながらも、微笑みさえその口元に描き、強い瞳で、きっぱりとそう言い切った。
彼女はきっと、十年経った今でも、葉一を信じているのだ。彼を想う気持ちを変えることなく、偽らず、ずっと心に持ち続けているのだ。
「芳菜さんは、加害者である彼を、憎んではいないのだね」
そう尋ねてみると、芳菜さんはためらいもなくうなずいた。
「そりゃあ最初は許せなかったし、殺してしまいたいほどに憎んでた。けど……これまで、私はいろいろ考えたの。加害者の方は、どんな思いで私にお金を振り込んでくれるのか。どんな思いで、毎年葉一さんの命日に、うちに線香を上げに来てくれるのか。そして……当の葉一さんは、どんな思いで、そんな彼を見つめているのか。そう考えたら……私は、彼を許してあげなければならないと、そう思えるようになった」
人の気持ちを、落ち着いて考えること……。
時の経過と、よく知っていた葉一の性格が、彼女を落ち着かせ、普通ならば考えることなどなかった加害者の心情を思いやるに至ったのだろう。
さざ波のように穏やかな声で、芳菜さんは続けた。
「これは、別の人から聞いた話なのだけれど……彼には、養うべき家族がいるんですって。葉一さんと同じね。だからこそ、ちょっとしたミスを起こしてしまったせいであっても、一家の大黒柱である人の命を奪った自分が許せないのだって。一つの家族から大黒柱を奪い、悲しみを背負わせた……そんな自分が、許せないのだって。彼はご友人に、そう漏らしていたのだそうよ」
加害者となってしまった彼も、優しい人だったのだ。他人の気持ちを自分のことのように考えて、一緒に痛み、傷つくことができる……そんな人だったのだ。
だからこそ、自分がやってしまったことが、今でも許せずにいる……。
「来月また、葉一さんの命日がやってくる。その時また、彼がこの家に来たら……今度こそはちゃんと、解放してあげようと思っているの。彼と私、真白ちゃん。そして息子も……健ちゃんも呼んで、四人でしっかり話し合って」
健ちゃん――健人は昔から、父親である葉一とは折り合いが悪かった。しかしある年の命日に葉一の本心を知って、それ以来葉一を素直に父と呼び、慕う素振りを見せている。
もし彼が生きているうちにそうなってくれたなら、これ以上の幸福はなかっただろうが……それでも素直に自分を父と呼んでくれる健人の姿を見て、きっと葉一も喜んでいることだろうと思う。
その健人も呼んで、みんなで本心をぶつけあいながら一緒に話し合い、今度こそ和解したい……と、芳菜さんは考えているのだろう。
芳菜さんにも、真白ちゃんにも、健人にも。そして、彼自身にも……ちゃんと、
赦して、あげられるように。
私が考えていることを察したのか、芳菜さんは私の目を見て、深くうなずいてみせた。
「龍次さんにも……葉一さんをよく知る友人の一人として、一緒に来て欲しいの。彼を許してあげるために、協力してくれないかしら」
私も……葉一がどんな人間だったのかを、本心で伝えたい。それで、彼が少しでも、楽な気持ちになれるかもしれないというのなら。
私は何の迷いもなく、うなずいた。
「わかった。私も、できうる限りの協力をさせてもらおうではないか」
葉一をよく知る、一番の友人として。
彼女の目を見返しながら、力強い声でそう告げると、芳菜さんは先程よりもずっと柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
そのまま、音も立てず静かに立ち上がる。そんなしとやかな仕草とは裏腹に、その声は少女のごとく明るく弾んでいた。
「せっかくだから、葉一さんにお参りしてあげて~。私と真白ちゃんはしばらく台所にいることになると思うから、子供たちが帰ってきたら遊んであげてねぇ」
「いいとも」
私もまた同じように、明るくはきはきとした声で答える。
「梅垣君とも、久しぶりに酒を酌み交わしたいものだね」
「ふふ。なら今日は、日本酒を二人分燗しておかなくちゃねぇ」
言いながら、パタパタと台所に駆けていく彼女は、まるでこれからの未来へと恐れず向かって行くように見えて――……その背中を、私は口元をほころばせながら、温かな気持ちで見つめていた。
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