誠実なあなたでいて
「お帰りなさぁい、健ちゃん」
年末、実家へ顔を出した俺を出迎えた母親――桜井芳菜は、いつものように普段着の上から花柄のエプロンを掛けていた。童顔と言っても差し支えのないほど若々しい見た目はいつ見ても相変わらずで、とても孫のいるような年齢には見えない。
「久しぶりねぇ。元気だった?」
ひと月前に顔を合わせたばかりなので、それほど久しぶりというわけでもない。しかしそれでも、母親はニコニコしながら俺の肩を叩くのだった。少し前までは本当に、何年も帰っていなかったから、こうやって俺が毎年帰るようになったことが嬉しいのだろうか。
「元気だよ」
もう何度目になるか分からない、そんなありきたりな言葉を告げると、今度は母親がいる方ではないはずの側からバシッ、と背中を強めに叩かれた。
「っ……真白」
何すんだよ、と抗議の意味を込めてそちらを睨む。いつからいたのか、そこには白いエプロン姿の姉・真白が立っていた。
「健人、あんたちゃんと生活できてるの? たまには連絡入れなさいよ。母さんだって心配してるんだから。ねぇ?」
「そうよ~、健ちゃん」
俺が帰る度に何かと口うるさく説教してくる真白と、そんな様子をほのぼのと見守る母親。立場が逆ではないのか? と時々疑問に思うが、それを口にしようものなら即刻真白に睨まれることになるのは目に見えているから、自重しておくことにする。
「ちゃんと、こうやって実家に顔見せてるじゃん。それで十分だろう?」
「あのねぇ……」
俺の言葉に、真白はやたらオーバーに首を振る。
「お父さんだって、きっと呆れてるわよ」
ふ、と戸棚近くに飾られた仏壇を見る。遺影の中にいる父親の葉一は、相も変わらずぶっきらぼうな顔をしていた。
昔は、そんな父親が嫌いだったけれど……。
「どうかな」
口ではそんな強がりを言っているけれど、生前の頃は知らなかった彼の想いを知った今となっては、反抗していた頃さえも懐かしく思う。
意地を張るがあまり、彼の最期に立ち会いすらしなかったことは、今でも悔やんでいるけれど。
ひょっとしたら、俺は一生赦されないのではないかと、思っていたけれど。
「あの人はもう、自分を赦すことができたのかしら」
ポツリと独り言のように呟かれた母親の言葉に、真白も、おそらく俺も、ふっと顔を曇らせた。
何のことだかは――『あの人』が誰を指しているのかは、すぐに分かった。
先月、父親の命日にこの家へ戻った時、俺は父親の命を奪ったという男性に会った。その場には俺とその人の他に、母親と真白、そして父親の友人だった柳さんがいた。
話を聞いたところによると、どちらかの前方不注意だったか何か……とにかく特筆するまでもないような、ありふれた交通事故だったらしい。
毎年父親の命日に、彼は家へ来てくれていたのだという。俺は仕事があったりして――まぁ、実はこれは単なる言い訳に過ぎないのだけれど――帰れていなかったから、一度も会ったことはなかったのだけれど。
だから、彼があれから毎年欠かさず線香を上げに来てくれることも、毎月欠かさず賠償金を振り込んでくれることも……何一つ、俺は知らなかった。
彼は今でも、罪の意識に苦しんでいるという。
それなら俺は、何なのだろうと思った。
父親に対してくだらない意地を張り続けた挙句、最期すら看取らず……命日に墓へ行くことも、線香を上げることも、なく。
『僕は、一生赦されるべき人間ではありません……本来ならこうして、ご遺族の方々と、顔を合わせることさえも、してはいけない。それほどのことを、僕はしたのだから』
そう言って涙を流す彼に、俺は言った。
『いいえ。俺の方が、あなたよりひどいことをした。一生赦されるべきでない人間がいるというのなら、それはあなたじゃなくて……間違いなく、俺です』
真白に殴られたのは、その直後だった。
殴られて唖然とする俺と、何が起こったか分からないとでも言うようにぽかんとしている彼、そして何故かひどく悲しげな表情でその光景を見守る母親と、訳知り顔で真白の行動を見つめている柳さん。
真白は目に涙を浮かべながら、俺と、加害者である男性に対して、時折声を掠れさせながら怒鳴った。
『悔い改めようとしている人間に……一生赦されない人間なんて、いないわ。どうしてあなたも、健人も、そんなに悲しいことを言うの? 何のために今日、母さんが私たちを集めたのか、分からないの!?』
『真白ちゃん』
激昂する真白をなだめるように、母親が口を開いた。思わず立ち上がっていた真白は、鶴の一声ともいうべき彼女の声に、勢いを失いぺたりと座り込む。
『葉一さんは』
いつもののんびりした口調ではない、溢れ出る感情を押し殺したような声と表情で、母親は冷静に言った。
『葉一さんは、きっと赦しているはずよ。健ちゃんのことも……あなたのことも』
俺と、それから彼を順番に見て、母親はふわりと笑う。何もかもを悟ったような、落ち着き払った――これが本当の大人なのだと思わせるような、穏やかな笑みだった。
『だって、葉一さんは優しい人でしたもの』
ねぇ、龍次さん?
話を振られた『龍次さん』――柳さんは、にっこりとうなずいた。
『そうさ。葉一は私や芳菜さんが好んだように、とても優しくていい奴だったよ。ぶっきらぼうだったけど……本当は誰よりも他人を赦すことができたし、誰よりも他人の痛みを理解できる人間だった』
だからこそ――今も、君たちの痛みをまるで自分のことのように感じて、苦しんでいるかもしれないね?
俺と彼はハッとして、ほぼ同時に顔を見合わせた。縋るようにこちらを見る彼の目から、止まることを知らない涙がさらに溢れる。
『僕、は』
僕は、どうしたらいいのでしょう。
掠れきり、ほとんど吐息のようになった囁き声。
『もう、謝らないで』
うつむく彼に、母親は笑みを浮かべたまま答えた。
『どうか、葉一さんが生きられなかった分を、あなたに生きてほしい。葉一さんという存在に囚われなくてもいいから、ご自分の人生を、あなたらしく精一杯』
それこそが、葉一さんへの償いになるのではないかしら。
母親の言葉に、彼は両手で顔を覆い、震えながらうなずいた。何度も、何度も、頭を下げるように。
『もう、ここには来なくていい。お金を振り込んでもらわなくてもいい。これまで振り込んでもらった分は使っていないから、全てお返しするわ』
母親は最後に、こう言った。
『葉一さんのこと、忘れてとは言わない。そのことでこれ以上苦しんでほしくはないけど、あなたの中で彼のこと、一つの戒めにして……もう二度と、同じ過ちを犯さないように。これ以上、誰かを傷つけることのないように。優しいあなたになら、できるはずよ』
――もう二度と、同じ過ちを犯さないように。
――誰かを、傷つけることのないように。
彼に向けて放たれたはずの言葉は、俺の中にも重く響いた。
「私の言葉が、あの人にどんなものを与えたのかは分からない。これ以上苦しまないでって言ったのは、もしかしたら彼にとって酷だったかもしれない」
あの時と同じトーンでそう言うと、仏壇の遺影を振り返った母親は、不意に気弱な声で、問うように呟いた。
「ねぇ、葉一さん……」
反応したのは父親ではなく(当たり前だ)、真白だった。
「あれは全て、母さんの本心だったんでしょう? なら、私はそれでいいと思う。父さんだって、きっと言ってるわよ」
コホン、と咳払いをし、少し低めの声を作って、真白は続けた。
「『お前が良いなら、それでいいだろう』」
「……ぷっ」
父親の物真似と思しき声があまりに似ていなかったので、俺はつい吹き出してしまう。気付いた真白に、ぎろりと睨まれた。
「何よ、健人」
「いや……」
「ふふっ」
そんな俺たちを見て、母親は思わずと言ったように笑い声を漏らした。
「やぁだぁ、もう。真白ちゃんたらぁ。健ちゃんも笑っちゃってるじゃなぁい」
その声のトーンは、いつもののんびりしたものに戻っていて、そのことに俺は少しホッとした。
クスクスと笑いながら時計を見た母親が、「あらっ」と声を上げる。
「もうそろそろ、子供たちと萩介さんが帰って来る頃じゃない、真白ちゃん?」
「あっ、本当だ。うっかりしてた」
「真白ちゃんたらぁ。私、健ちゃんとお買い物行ってくるから、ちゃんと相手してあげてねぇ?」
「えっ、俺も行くの?」
「そうよぉ。健ちゃんいてくれて助かったわぁ。荷物持ち、お願いね~」
「えー……」
「文句言わないの、健人」
「何だよ、真白まで……まぁいいけど」
わざと大きな溜息を吐きつつ、鼻歌を歌いながらエプロンを外す母親の後を追う。
横を通り過ぎる時、真白が送ってきた意味ありげな目配せに、俺は何も言うことなく、ふわりとした笑みで答えておいた。
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