厳しい美しさ:後篇

 この道を通るのは、実に十数年ぶりでした。

 記憶はおぼろげだったものの、かつてほぼ毎日通っていた道でしたから、身体が自然と憶えていたようです。奈月の案内がなくても、いつの間にやらわたくしは自然と迷いもせず歩いていました。

 先ほどお墓に行った時よりも身軽な状態で、わたくしは奈月と並んで歩いていきます。

 その道中に、会話は一切ありませんでした。わたくしは様々な感情を抑えるのに必死で、話すことなどとてもできない状態でしたし、奈月も奈月で、何やら考え事をしているかのようにずっと黙りこくっていましたから。

 自動車や自転車、反対側を歩く人々が、まるで周りには無関心とでも言わんばかりにわたくしたちの側をすいすいと通り過ぎる中、歩道とも呼べない細い道の端っこをただ淡々と歩き続け……ふと気づけば、わたくしたちは目的地に辿り着いていました。奈月に続いて足を止め、目の前の建物を見上げます。

 築三十年ほどは経っていそうな、少々古めの大きな一軒家。それはかつて樹さんが亡き両親より受け取ったという、莫大な資産の一つでした。

 そう、ここは……あんなに行くまいと固く決意していたはずの、もう二度と近づきたくないとさえ思っていたはずの、いっそ忌々しいと言ってしまっても過言ではない場所。

 かつてわたくしが、奈月が……そして樹さんが暮らしていた、彼の実家でした。


『――あの家に、答えがあるはずです。知りたいですか、おかあさん』

 そう奈月に尋ねられたわたくしは、当然のごとく首を横に振り、さっさと帰ろうと思っていました。

 なのにわたくしの身体は、脳は、それを許してはくれませんでした。

 樹さんが書き残したという、わたくし宛の手紙の存在を知らされたわたくしは、その中身をぜひとも確かめたいと……彼が遺した想いを、知りたいと思ってしまったのです。

 どうして、そんなことを知る必要があるのでしょう。わたくしと樹さんは、もう他人のはず。わたくしたちの関係は、十数年前のあの日に、全て清算されたはず。

 もう彼には縛られまいと、決意したではありませんか。

 揺れ動く気持ちに、何も答えられぬまま、わたくしはただ黙ってうつむいてしまいました。

 そんなわたくしがだらりと下ろしていた手を、奈月は不意に掴みました。驚いて顔を上げたわたくしに、彼女は決意を秘めた目できっぱりと言いました。

『行きましょう。少しでも悩む余地があるなら……迷う余地が、あるというのなら』

 そのままわたくしは奈月に手を引かれ、墓地を後にしたのでした。


 家の中は、十数年前と何ら変わっていませんでした。

 それはわたくしがこの家を出た後も、樹さんと奈月は二人で普段通りの生活をしていたのだということを如実に表していました。

 やはり、わたくしはこの家にいなくても良かったのか……。

 そう落胆した気持ちになった自分に気付き、わたくしはハッとしました。

 この期に及んでまだ、わたくしはこの家に――樹さんに、必要とされたがっているというのだろうか。

 彼に対する気持ちが、まだ少しでも残っているというのだろうか。

 自分が何を考えているのかが全く分からなくなってしまい、わたくしはしばし混乱しながら家中に視線を彷徨わせました。

 奈月はわたくしから離れ、慣れたように――長年住んでいた家なのですから、無論慣れていて当然なのですが――移動を始めました。リビングから出たかと思うと、ある方向に向かってすたすたと歩いて行きます。

 あの方向にあるのは確か、樹さんの書斎だったはず……。

 そう思いながら、わたくしは奈月の方にフッと視線を戻しました。ガチャリ、バタン、とドアの開閉の音がしたかと思うと、しばらく静かになります。

 やがてもう一度ドアの開閉の音がして、奈月が姿を現しました。手には、奈月が先ほど墓地で見せてくれたものと同じ、茶封筒を持っています。

 それが彼の遺したわたくし宛の手紙だとすぐに気付き、わたくしの心臓はどきりと大きく跳ねました。奈月がこちらへ近づいてくるたびに、その音は早く、大きく、徐々に明確なものとなっていきます。

 心臓が壊れてしまいそうだと思いながら、わたくしは耐えがたくなり、ギュッと目を瞑りました。

 やがて奈月がわたくしの目の前で足を止めたのが、気配で分かりました。

 手を取られたかと思うと、紙の質感が伝わってきました。おそらく――というよりほぼ間違いなく、奈月がわたくしに手紙を持たせたのでしょう。

「読んでください」

 奈月の声がして、わたくしは恐る恐る瞑っていた目を開けました。

 向かいには、真剣な顔つきをした奈月の姿。自らの手元を見下ろせば、茶封筒。そこには遠い昔に幾度か見たことのある懐かしい字で、『西村咲葵子様』と書かれていました。

 あぁ、これは正真正銘、樹さんが書いたわたくし宛の手紙……。

 論より証拠とはよく言ったもので、奈月の口から聞いた時よりも実際に目にした現在の方が、より大きな衝撃を受けました。

 わたくしは落ち着くために、大きく息をつきました。その呼吸は、緊張のためかひどく乱れています。

 手にした封筒の封を切ると、中から折りたたまれた白い便箋が二枚ほど出てきました。裏に映る筆跡を見ると、さらに現実味が高まります。

 奈月が見守る前で、わたくしは震える手で便箋を開きました。


『咲葵子へ。

 今更ながら、こうして君に宛てて手紙を書いてしまっていることを、どうか許してほしいと思う。

 十年も前に別れたはずの君に対して僕が手紙を書こうと思ったのは、一体何故なのか。それは……自分の死を、覚悟しなければならない日が来たからなのだろうと思う。

 僕はもう、助からないらしいよ。若い頃の様々な所業が祟ったんだろうね。いうなれば自業自得だ。

 ……あぁ、同情なんてしてもらわなくてもいいよ。まぁ、こんな僕に誰も同情なんかしないだろうけどね。会社の人間も、奈月も……そして、君もきっと、僕がどうなろうと一向に構わないはずだ。そうだろう?

 だって僕はかつて伴侶だった君のことを深く傷つけ、一人娘の奈月のことも長年苦しめ続けてきたのだから。責められても恨まれても、仕方のない身だ。

 だから、本来なら僕は誰にも何も告げることなく、ひっそりと一人っきりで死んでいくのが正しいことなのだろう。

 けれどね、やはり死ぬ前に何かを残しておきたいという気持ちは、少なからずあったんだ。だから奈月にも感謝の気持ちや謝罪をつづった手紙を残したし、こうして君にも、思いの丈を告げるための手紙を書いている。

 ……いや、本当は読んでくれなくたっていいんだ。これだって、結局は僕の自己満足で書いているものなんだから。君が嫌だというなら、この手紙は破って捨ててくれてもいい。君のことだから、わざわざそう言わなくても読まずに捨ててしまうのだろうけれど。

 これからここに、あるがままに書いていく僕の気持ちのすべてが、君に伝わってくれるのかは分からない。むしろ十中八九、伝わりなどしないと思っている節さえある。

 それでも、書き残させてほしい。これが僕の、偽りのない気持ちだから。誰の目にも届かなくても……これが、僕の生きた証なんだ。

 これを書き終えられれば、僕はきっと、何一つ思い残すことなくこの世を去ることができるだろう。


 君も知っての通り、僕は早くに両親を亡くし、施設で育った。兄弟もいなくて、完全に身寄りがなかったから、そうするしかなかったんだ。いわゆる、天涯孤独というやつだね。

 僕は高校まで施設で育ち、その後は誰にも引き取られることなく一人暮らしを始めた。もちろん里親に引き取られるという選択肢だってあったし、実際そういう話も何度か持ち上がってはいた。けれどあえてそうしなかったのは、僕自身が誰かに育てられ、守られることを是としなかったから。

 その時から僕には、自立しなければならないという使命にも似た想いが心に植え付けられていた。誰にも頼らず、一人きりで生きていくことが、僕の生まれてきた理由なのだと信じて疑わなかった。

 そのためには……誰とのつながりも断たなくてはならないと思った。

 だから僕は感情を殺して、人とも最低限のつながりしか持たないようにした。そうしたら僕は、笑顔をなくした、つまらないマニュアル人間になった。自然と誰も、僕の中に入ってこようとはしなくなった。

 僕はそれでいいと思った。孤独にはとっくに慣れていたし、寂しくなんてなかった。僕はずっと、一人ぼっちだったんだから。これからもそれが続くだけだ。ただ、それだけなんだ。

 そんな僕の前に現れたのが、咲葵子、君だった。

 君はそれまで僕の周りにいた人間とは違って、僕の中にどんどん入り込もうとしたね。僕がどれだけ拒否しても、物おじなんてしなかった。

 お嬢様気質で、おしとやかなのかと思えば案外押しが強くて、根がしっかりしていて、頑固で……そんな人間に出会ったのは初めてだったから、最初は混乱した。

 けれどそんな君に、だんだん惹かれていく自分がいた。ともに人生を歩んでいきたいと、本気で思ってしまっていた。

 だから結婚を決意したんだろうね。その時は自分が結婚に向かない人間だと、結婚などしてはいけない人間だと、気づくほどの余裕がなかった。

 それにようやく気づいたのは、奈月が生まれてからだった。

 家庭を持っても何ら変わりなく、ただ笑顔もなく仕事に熱中していた僕だったけれど、自分が君や奈月を苦しめていることには薄々気づいていた。

 特に君はまだ若い。いくらでもチャンスがあると思った。もともと僕と君は赤の他人だったんだ、僕が縛る権利なんてどこにもない。

 そう思ったから、あの日君を実家に帰した。

 奈月を手放さなかったのは……いつの間にか、一人でいるのが寂しくなっていたからなのかもしれない。奈月をあの家に――自分のもとに残したのは、僕自身のエゴだった。

 きっとこれからも、僕は奈月を苦しめることになる。自分が味わった深い孤独を、きっと彼女にも味わわせることになるだろう。

 それでも僕には、奈月を手放すことができなかった。

 きっと、一人ぼっちになりたくなかったんだと思う。ただ一人、愛した君とのつながりを、完全に断ちたくなどなかった。

 わがまますぎる言い訳だと分かっている。僕は最後まで、わがままな人間だ。どうしようもなく、最低な人間だ。

 だって僕はそのせいで、奈月を犠牲にしてしまった。奈月の感情を殺し、何の罪もないはずの彼女にまで同じ……いや、それ以上の重い孤独を、その細く小さな背中に負わせた。

 そして君を、腹を痛めて生んだ唯一の子供と引き離すこととなってしまった。今では深く、反省している。

 許してほしいなどとは言わない。どれだけ謝罪を重ねようと、僕は一生許してなどもらえないと、わかっている。

 ただ、これだけは言わせてほしい。

 僕は君を、心から愛していた。実は今でも……こうして手紙を書いている今でも、その気持ちは変わらない。そう言ったら、君は怒るだろうか。

 僕が死んだら、君はきっと残された奈月を引き取るだろう。

 僕が彼女に与えたものの全てを、君は壊してくれるだろう。僕が植えつけた価値観も、何もかも。奈月を僕から解放してくれるのは、笑顔を取り戻してくれるのは……きっと君しかいない。僕はそう信じているし、それを何よりも祈っている。

 愛する君と、奈月の幸せ。

 僕はそれを心の中で祈りながら、何も口にすることなく、死んでいこうと思う。


 ただ願わくは、この手紙が愛する人のもとに……君のもとに、届きますように。

 君が、僕の想いを受け取ってくれますように。

 そんな、きっと叶うことのないであろう一縷の望みをこの手紙に託し、僕の告白を終えることとする。

 四月二日 藤野樹』


 ぽたり、と手紙の上に滴が一つ落ちたことで、わたくしは自分が泣いているということにようやく気が付きました。それを自覚すると同時に、みっともない嗚咽がわたくしの口から漏れ出てきます。

「……っ、樹さん……どうして……」

 どうして、何も言ってくれなかったのか。

 別れてからも、わたくしを愛してくれていたのなら。わたくしと同じ気持ちを、ずっと抱き続けていてくれたのなら。どうして何のコンタクトも取ろうとせずに、わたくしにその存在を隠したまま、ひっそりと死んでしまったのか。

 ……いいえ、いっそ本当に何も言わずに死んでしまった方がよかった。

 どうしてあなたは全てを墓場に持っていかず、こんなものを残したのか。今更……わたくしに、手紙を残したのか。

 今更わたくしに、どうしろというのでしょう。後の祭りとは、このことです。

「おかあさん……」

 奈月が切なげな瞳で、わたくしを呼びます。

 わたくしは手紙を持っていない方の手で彼女の腕を取ると、自分のもとへ引き寄せました。奈月は抵抗せず、ただされるがままでした。

 わたくしは奈月を抱きしめたまま、ぼろぼろと涙を流して泣きじゃくりました。

 そんなわたくしの背中を、奈月は幾度もさすってくれました。まるで自らの子供をなだめる母親のように……かつて赤ん坊の頃の彼女を、わたくしがそうやってあやしていた時のように。

 彼女の体温を感じながら、わたくしはこの子を――愛する彼の忘れ形見を、決して手放してはいけないと、再び思い始めていたのでした。

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