その後
厳しい美しさ:前篇
その場所に降り立った瞬間、ザッ、と生温い風が不意に強く吹き、わたくしは思わず目を閉じてしまいました。
「大丈夫ですか、おかあさん」
風により乱れる黒髪を片手で押さえながら、娘の奈月がわたくしを心配するように見つめてきます。「ちょっと、びっくりしただけよ」と答え、わたくしは娘に向けて笑みを返しました。
わたくしの住む街がある場所から電車を二駅ほど乗り継いだ場所に位置するこの場所は、わたくしが生まれ育った街よりもずっと田舎で、閑散とした街……というよりは、町といった方がしっくりくるかもしれません。
娘にとっては生まれ育った懐かしき故郷になるのでしょうが、その実わたくしにとってはあまりいい思い出のない場所とも言えます。
だってここは、かつてわたくしが家族を失った場所なのだから――……。
◆◆◆
その昔、わたくしはこの場所に住んでおりました。
当時の主人だった藤野
あの頃は、樹さんのことを心から愛しておりました。早くに天涯孤独の身となったせいか、少々ストイックな面のあった彼を、わたくしが支えて差し上げたいと……あわよくば止まり木になって差し上げたいと、そういう気持ちがあったのです。えぇ、もちろん本心から。
樹さんは昔から表情らしいものがほとんどなく、非常に仕事熱心な人でした。結婚しても仕事ばかりで家庭などきっと顧みないだろうし、自分に対しても人に対しても、いつだって完璧を求めるだろう。……まぁ、実際その通りだったわけですが、そんなわけで交際時代から、ずっと周りに『別れろ』『あの男だけはやめておけ』などと散々反対されてきました。
若い頃のわたくしは、それでもいいと思っていました。わたくしの力があれば、きっと変わってくれると。いつかは優しく笑ってくれる日が来るはずだと、そう思ってずっと彼に尽くしてまいりました。
そんな努力が功を奏したのか、それともただの気の迷いだったのか……樹さんはわたくしを妻として迎えてくれました。
わたくしはわたくしなりに、仕事熱心な彼の代わりとして藤野家を守ってきたつもりでしたし、一人でしたけれど子供をもうけることもできました。
順風満帆な結婚生活だと、思っておりました。
それが破綻してしまったのに、何か特別なきっかけがあったわけではなかったと思います。おそらく、数年の結婚生活の中で、無意識に少しずつ
わたくしが実家に帰ることになったのは、その歪みがもはや修復不可能なほどに広がってしまった時。
樹さんはきっと、早い頃から察していたのでしょう。自分が結婚に向くような人間ではなかったと……これ以上結婚生活を続けていくのは、不可能だと。
ですが、その変化に全く気付いていなかったわたくしにとっては、ある日突然のことでした。
詳しい状況などについてはあまりよく憶えていないのですが、あの時自分がどのような気持ちでいたのかについては、今でも鮮明に思い出せます。
この家に自分はもう必要ないのだという、半ば諦めにも似た気持ち。
そして……彼の要望により家へ残していくことになった、一人娘の奈月に対する、どうしても諦めきれない想い。
わたくしを呼ぶ幼い奈月の悲痛な声が、離れてからもずっと耳にこびりついて離れてくれませんでした。
それからのわたくしは、残してきた娘のことをずっと案じてきました。樹さんのことですから、きっと奈月にもその考え方を――異常なまでのストイックさを、押し付けているに違いないと。
そんな風に考えていたからでしょうか。離れていた十数年の間に、わたくしの中にはいつの間にか、樹さんに対する憎しみにも似た感情が芽生えていました。
それはもしかしたら、単なる逆恨みとも取れたかもしれません。
どちらにせよ、そのどす黒い感情は年を重ねるごとにどんどん大きくなっていって……とうとうピークに達したのは、十数年ぶりに奈月と再会した時。
樹さんが亡くなったと聞いた時は、正直なところ、悲しみや憐れみの気持ちと少しの喪失感がありました。
けれど……生前の彼と同じ空っぽな表情を浮かべた奈月を見た時、そんな気持ちもすっ飛んでしまうくらいに、彼に対する憎しみが爆発しました。
一体彼は、どういうつもりで奈月を引き取ったのか。
どうして大事な一人娘を、こんな人間らしくもない人間にしてしまったのか。
唯一血のつながりを持った彼女を、ただ自分の思い通りに支配することだけが目的だったのか。
わたくしはひどく後悔し……そして、決意したのです。
もう二度と、樹さんに縛られてなんかやらない。今度こそはわたくしのもとで、わたくしの力で彼女を育てきってみせる。
樹さんのことなんて……きれいさっぱり、忘れてやると。
だから何回命日が来ても、絶対に墓参りになど行ってやらないと。かつて共に暮らしたあの家にも、決して近づいてなどやらないと……そう、固く決意していたというのに。
「――今日は、おとうさんの命日なんですよ」
ポツリとそんな話を口にしたのは、他でもない、娘の奈月でした。
「あら、そういえばそうだったわね」
忘れかけていたそれを突然思い出させられてしまい、わたくしは動揺を悟られないよう何気ない風に一言――少しそっけなかったかもしれませんが――答えて、とにかくその話題から遠ざかろうとしてみました。
しかし、さすがはあの人に似て頭のいい子です。奈月はわたくしの意図を察したらしく、簡単に引き下がってなどくれませんでした。引き取ったばかりの頃のような無表情ではない、至極真面目な表情で、わたくしをじっと見つめてきます。
思わずたじろいでしまったわたくしに、彼女はまるで最終通告とでもばかりに、決意を秘めた強い眼差しを向けながら、きっぱりとした口調でわたくしにこう言いきったのでした。
「わたし、これからおとうさんのお墓参りに行こうと思うんです。一緒に行ってくれませんか、おかあさん」
◆◆◆
電車を降りた後も、奈月は変わらず迷いのない足取りで進んでいきます。
「おかあさんには言っていませんでしたが、わたし、毎年おとうさんの命日には必ずここに来ていました。その日だけは塾も、他の用事も全てお休みして、ただ一人でおとうさんに会っていたんです」
抑揚のない声で淡々と語る彼女の顔を、わたくしからは窺うことができませんでした。けれどきっと、初めて会った時のような無表情に近い表情をしているに違いありません。
父親のことを話す時の彼女は、いつもそうでした。喜怒哀楽をはっきりと表に出すようになった今でも、それは変わりません。意図的に感情を殺そうとしているとか、そういうわけではなく……ただ、自然とそうなってしまうのだと思います。
「あんな性格の人でしたけど、わたしにとっては唯一の人です。形だけとはいっても、わたしを長年育ててくれていた人ですから……」
哀しそうでも辛そうでもなく、ただただ淡々と、父親のことを語る。
そんな奈月の姿に、樹さんを重ねてしまいそうになることが、これまでにも何度かありました。
そしてわたくしは、今も……こうして先を行く奈月の背中に、樹さんの面影を感じてしまっているのです。いつだってわたくしよりも数歩先を歩いていた彼の、仕立ての良いスーツに包まれた、あの広い背中に。
時折漏れる彼女の声に耳を傾けながら歩を進めていくうちに、いつの間にか先ほどよりもずっと人の少ないところまでやってきていました。山の方に向かっているのか、建物もどんどん少なくなっていき、代わりに現れるようになったのは、青々と生い茂った木々。
「足元に、気を付けてください」
わたくしを気遣うように振り向きながら、奈月が言いました。自分の足元にも気を遣いながら、わたくしが転ばないようにと時折手を取って支えてくれます。
いつの間にやらわたくしとさほど変わらない身長にまで成長していた彼女は、最後に別れた時よりも――もっと言えば、久しぶりに一緒に暮らし始めた時よりも、ずっと頼もしく見えました。
そしてやはり、同時に思い出してしまうのは、若かりし日のこと。
無表情ながらも何かとわたくしを気遣ってくれていた、恋人時代の樹さんが脳裏にちらつき、ついつい涙が出そうになります。それは過去への郷愁からくるものなのか、それとも彼に対する説明のつかない感情からなのか、今のわたくしにそれを確かめるすべはありませんでした。
足場の悪い場所を十分ばかり進んでいくと、それまで鬱蒼としていた木々がなくなり、一気に視界が晴れてきました。
よく晴れた空の下、低山の頂上のようなところにあるそれなりに広いスペースには、日本がまだ土葬を採用していた頃の古いものから、磨かれたばかりでぴかぴかと光っている新しいものまで、さまざまな墓石が建っていました。それらはさほど数が多いわけではないのですが、一つ一つが強い存在感を放っていて、来るものを圧倒しているかのようにわたくしには見えました。
奈月について歩きながら、一つ一つの墓石を眺めていると、やがて奈月はその足音を止め、静かにわたくしへと向き直ってきました。
「ここが、おとうさんのお墓です」
いつの間にかわたくしたちのすぐ傍にまで来ていた――正確には、わたくしたちが近づいたのですが――それは、白い文字で『藤野家先祖代々之墓』と彫られた、まだ新しい黒色のお墓でした。黒雲母、といったでしょうか……遠い昔に一度だけ目にしたことのあるそんな名前の石を、ふと思い出します。不思議な模様が刻まれたその漆黒の石は、何故だかわかりませんが樹さんを連想させました。
奈月は黙ったまま片手に抱えていた花を手際よく供え、持って来たチャッカマンで線香に火をつけました。先端が赤く光る線香を奈月から渡されましたが、わたくしは黙って首を横に振りました。
咎められるだろうかと思いましたが、奈月はわたくしの反応をすでに想定していたようで、ただ「そうですか」とだけ呟くと、そのまま一人でお参りを済ませてしまいました。
「……わたしは、」
その後、奈月は唐突に目を伏せ、そんな風に口を開きました。
「わたしは、おとうさんにそれほどひどいことをされたとは、さほど思っていません。確かに……おとうさんはずっと家庭なんて顧みないような人でしたし、わたしはあの広い家で、いつも一人ぼっちでした」
十年以上前に出て行った、あの家が思い出されます。三人で暮らすにも十分すぎるくらいに広かったあの家に、奈月は幼い頃からずっと一人で取り残されていたわけです。
改めて、彼女をそういう環境に置き去りにした樹さんのことが、心底憎らしいと思いました。
わたくしは何も言葉を発しませんでしたが、空気や表情でわたくしが何を考えているのか悟ったのでしょう。先ほどよりもひときわはっきりとした声で、奈月は話を続けました。
「けれどそんなわたしを、おとうさんはおとうさんなりに案じてくれていました。一人ぼっちの孤独は、天涯孤独だったおとうさんが一番よく知っていたから。だから……これからは一人でも寂しくないようにって、一人でも強く生きられるようにって。それでおとうさんがわたしに教えてくれた『処世術』が、感情を殺すことだったんです」
「そんなの……いくら子供を想ってのことでも、あんまりだわ。方策が、両極端すぎるでしょう」
感情的になって、思わず声を荒げてしまったわたくしに、奈月は顔を向けました。そこに浮かんでいた表情は、あまりにも安らかで、穏やかで……わたくしは口をつぐまずにいられなくなってしまいました。
ふふ、と小さく笑って、奈月は言いました。
「おとうさんは、不器用な人でしたから」
それから再びわたくしから顔を逸らし、奈月は空を仰ぐように見上げました。雲一つない青空は清々しく、輝く太陽が少しまぶしく思います。日傘を持ってくればよかったかしら、と、一瞬だけどうでもいいことに意識が飛びました。
静かな声で、やはり淡々と、奈月は話します。
「おとうさんが過労で倒れて、病院に運ばれた後……おかあさんの方にはどう連絡が行ったのか知りませんが、本当はあれから少しの間入院していたんです。精密検査を受けた結果、たまたま大きな病気が見つかって……もう、末期でしたけれど」
その話を聞いたのは、初めてのことでした。
わたくしのもとに来た連絡は、過労で倒れてそのまますぐに亡くなった、というようなニュアンスのものでした。葬儀は彼が勤めていた会社が行ったと聞きましたから、おおかたそちらの方に連絡がうまく行き届いていなかったのでしょう。
「わたしはできうる限り毎日お見舞いに行って、おとうさんのお世話を手伝っていました。いつもなら自分のことは何でも自分でするような人でしたけど、相当衰弱していたんでしょうね……ただされるがままに、わたしや病院の方たちがするお世話を受けていました。亡くなるまでの間、ずっと」
そこでふと疑問を感じ、わたくしはなお語ろうとする奈月の言葉を遮るように、言葉を掛けました。
「奈月……あの人は亡くなる前に、あなたに何か言い残したのかしら?」
奈月は気を悪くした様子もなく、わたくしの質問に対してふっと目を伏せ、静かに首を横に振りました。
「いいえ。……けれど、おとうさんが亡くなった時、病室の引き出しに二通の手紙が入っていました。多分、入院している間……わたしが学校に行ったりしている時間を見計らって、書いたんだと思います。一通目はわたし宛てに」
今でも肌身離さず、ずっと持っているんですよ。
そう言って奈月はとても大切そうな手つきで、持っていた鞄から一通の茶封筒を取り出しました。『藤野奈月様』と、少々他人行儀に宛名の書かれたそれを、奈月は見せつけるように軽く振ってみせます。
「二通目は、あなた宛てに」
もう一通あるはずの手紙について触れた、その言葉があまりに自然すぎて、わたくしは一瞬聞き逃しそうになってしまいました。
数秒遅れてその言葉の意味を理解し、思わず瞬きを繰り返したわたくしの方を、奈月はゆったりとした動きで振り向きました。空っぽな無表情とはまた違った真剣な顔つきで、ずいぶん間の抜けた表情を浮かべているのであろうわたくしの顔をじっと見つめてきます。
芯の通った、はっきりと――それでいてどこか強張った声色で、奈月はわたくしにこう尋ねました。
「……あの家に、答えがあるはずです。知りたいですか、おかあさん」
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