母の愛

 わたくし――西村咲葵子は昔から、のんびりとした家庭で育ってきました。ですから、現実の厳しさをわたくしはそれほど知りません。

 だからでしょうか。厳しい環境に置かれ、自分を律し、笑顔すら棄ててようやく成功を手にした……そんな夫とは、もともと相容れない運命だったのかもしれません。

 そんなわたくしたちが出会い、惹かれあい、結婚し、子供を作った。それは奇跡と言っていいほどの出来事でした。

 わたくしたちは数年後別れることになるのですが、それも今思えば必然だったのでしょう。


 わたくしはある日、とうとう実家に帰らされました。自らの腹を痛めて産んだ、一人娘を置き去りにしたままで。

「おかあさん!」

 幼い娘が、泣きながらわたくしを呼びます。夫がそれを抑揚のない、有無を言わさぬ厳しい声で制します。子供ながらにも父に逆らえないと悟ったのでしょう。娘はやがて静かにわたくしを見送りました。

 わたくしは後ろ髪を惹かれる思いで、二人がいる家を後にしました。


 それから、およそ十年の月日がたちました。

 わたくしのもとに、夫が亡くなったという連絡が入りました。過労で倒れて病院に運ばれ、結局そのまま……とのことでした。

 あぁ、あの人は昔から、何も変わってはいなかったのね。働いて働いて、成功を手にしても決して油断などせず、家族のことなどほぼ見返りもせず、ずっと働いて、働いて、最期まで働き続けて……。

 なんて、可哀想な人。

 わたくしはどうしても、夫のことを憐れまずにはいられませんでした。


 ――それからわたくしは、残された娘のことを思いました。

 案の定、娘には行く所がないようでした。夫はもともと孤児でしたから、他に親戚がいなかったのです。

 わたくしは片時も娘を忘れたことはありません。ですから彼女を引き取り、この手で育てると、わたくしは一寸の迷いもなくすぐにそう決めたのでした。


「えと、藤野奈月です。これから……よろしくお願いいたします」

 十年ぶりに顔を合わせた一人娘は、なんだか他人行儀でした。当然といえば当然ですし、仕方のないことです。十年前のあの時のことなど彼女はもう覚えていないでしょうし、そもそも彼女はわたくしのことを母親とも認識していないでしょう。

 便宜上わたくしたちが名乗る名字は違いましたけれど、それでもわたくしは幸せでした。これからは誰の制止も受けず、親子として暮らすことができるのだから。

 ですから、わたくしはそれほど気に留めてはいませんでした。――それらの件に関しては。

 わたくしが一番気にかかったのは、彼女の態度でした。礼儀正しく物静かなのですけれど、喜怒哀楽がほとんどないのです。

 それだけではありません。最近の女子が喜ぶようなものを買い与えても全く興味を示しませんし、テレビも見ません。読書はするようですが、参考書や論文といった類のものしか読んでいないみたいです。たまには外へ出かけてきなさい、と言っても、せいぜい買い物に――しかも本屋へ参考書を買いに――行く程度で、カラオケなどに行く様子は全くありません。

 お友達は一人だけいるようですけれど、その子ともたまにお茶をする程度のことしかしていないみたいです。彼女いわく『学校が違うしお互い忙しいから、あまり会うことはない』らしいのですが……。

 子供らしさの欠片もない、というのでしょうか。女子高生特有の無邪気さというものが、彼女からは欠落していたのです。さすが親子というべきか……その姿は、夫のものとどこか重なるようでした。

 一度彼女に尋ねました。どうして、あなたはそんな風なのかと。

 彼女はいつもの聡明な瞳でわたくしを一瞥すると、淡々と答えました。

「……おとうさんは教えてくれませんでした。わたしも聞きませんでした。『他人に隙を見せるな。感情など捨てろ』と、おとうさんがそう言ったから」

 わたくしは愕然としました。あの人はどれだけ娘を縛り付けたら気が済むのか。あろうことか自らの娘を、自分の思い通りに操作するなんて。

 わたくしは悩みました。

 このままではいけない。このままでは、彼女は社会で確実に損をする。どうにか彼女に笑顔を、無邪気な心を与える方法はないものか……。

 悩んだ末、わたくしは街外れで塾を経営している青柳龍次さんという方のもとを訪ねました。彼はわたくしの古い友人で、わたくしのわがままに何度も答えてくれた、最も頼れる人です。

 彼なら今度の件も、きっとなんとかしてくれるはず。娘をあの塾に入れればきっと……。わたくしはなぜか、そう確信しました。

 龍次さんは最初難しそうな顔をしていました。それでもわたくしが頼み込むと、にっこり笑って「わかりました」と言ってくれました。そして、嬉しくて思わず華やいでしまったわたくしに、こう高らかに宣言したのです。

「うちには、ぴったりの講師がいます」


    ◆◆◆


 わたくしのこの判断は、正解でした。

 あの塾に入れてから――いいえ、桜井さんとおっしゃるあの講師の方と出会ってから、と言った方が的確でしょうか。どちらにせよ、それからの娘は少しずつではありますが感情を表に出すようになりました。

 その変化は学校ででも効果があったのでしょうか、友達も少しずつできてきたようです。前よりも人当たりがよくなった、と担任の先生もおっしゃいます。この変化はわたくしにとっても大変嬉しいことでした。


 そして、家でも――……。

「ただいま帰りました、おかあさん」

 学校から帰ってくると、奈月は顔を赤らめながらはにかみ、恭しくぺこりとお辞儀をしながら挨拶してくれるようになりました。前までは「ただいま帰りました」と言って礼儀正しくお辞儀をしてはくれても、こんな風に笑顔を見せてくれることなんて絶対にありませんでしたのに。

「お帰り、奈月」

 わたくしもついつい笑顔になり、挨拶を返します。

「もう少ししたら、ご飯ができますからね」

「はい」

 笑顔で返事をし、奈月は自室へ向かいます。

 そんな、他愛もない親子の日常。それでも前までそんなことは一度もありませんでしたから、本当に大きな進歩です。

 しかしなにより一番の変化は、娘がわたくしのことを再び『おかあさん』と呼んでくれるようになったことです。

 一緒に暮らし始めた頃、彼女はわたくしを『咲葵子さん』と他人行儀に呼び、言動もまるで知らない親戚の家に引き取られた少女のようによそよそしいものでした。わたくしたちは本当の親子だというのに……本当に寂しかった。

 一緒に暮らすようになってから、初めて奈月が『おかあさん』と呼んでくれたあの秋の日のことを、わたくしは一生忘れることなどないでしょう。


「――奈月、今日はどういったことがありましたの?」

 夕食時、わたくしはいつもの通り奈月に話を振りました。

「はい。今日は塾があったんですが、桜井先生がハイキングのことをまた『バイキング』と言ったんです」

 奈月はそのたびに嬉々として、一日あった出来事をわたくしに報告してくれます。こんなことも、奈月がわたくしを『おかあさん』と呼んでくれたあの日までは、全くなかったことでした。

 二人で向かい合い、淡々と黙って食事をしていたあの頃は、わたくしがこちらから話を振っても、奈月は抑揚もなく手短に答えるだけ。会話など、すぐに途切れてしまっていました。

 本当に、変わったなぁ……。

 そうしみじみと思いながら、わたくしはフフフ、と笑いました。

「あら、まぁ……食べ放題とお出かけじゃだいぶ違うわよ」

「そうですよね。まったく、前に違うと教えたばかりなのに……『あれ、そうだったっけ? まぁ、細かいことは気にしない気にしない』ですって。相変わらずおかしな人です」

 奈月が話してくれることは学校のことや塾のこと、お友達のことなど実に様々ですが……一番多いのはやはり桜井先生のお話です。奈月自身も彼のお話をするときは実に楽しそうで、珍しくきらきらと瞳を輝かせています。

「奈月は本当に、桜井先生が好きなのね」

「なっ……何を言うんですか、おかあさんったら!」

 少しからかいの言葉をかけると、奈月はみるみる真っ赤になって叫び、パタパタと足を動かし始めました。

 わたくしはそれを見て再び笑いながら、夕食に箸を伸ばしました。


 思えば、このようなことができるようになったのも、全て桜井さんのおかげではないでしょうか。あの塾は――講師の桜井さんは、隔たりがあったわたくしたち親子を引き合わせてくれるきっかけをくれました。

 わたくしはこれからも娘の成長を影ながら応援しようと思います。どんなことがあろうとも、決して反対はしません。


 ――たとえ奈月が、桜井先生に惹かれ始めていたとしても。

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