信じる者の幸福
「せんせ~、振られちゃったぁ」
放課後、学校内の廊下にて。
一人の女子生徒が場所もわきまえず、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら泣きじゃくっている。その隣には、悲しそうに微笑む一人の男性がいた。
「あらら、そっか……。そいつももったいないことしたよね。こんな魅力的な子を振るなんてさ」
男性――桜井健人先生は、そんな彼女の背中をとんとん、と叩きながら、励ますように優しい言葉をかけていた。
「ぐす……せんせぇ」
「あーもう、泣かないの。せっかくの可愛い顔が台無しだよ?」
それでもまだ泣き止まない彼女に対し、困った顔一つせず、今度はその頭をいつくしむように撫でる。
そんな光景を、あたしは複雑な思いで見つめていた。
この学校の非常勤講師である桜井先生は、普段は街外れの塾で講師をしているそうだ。そしてその塾には、今は他校にいるあたしの友人が通っている。
友人――藤野奈月はその塾に通い始めてから、明らかに変わった。笑顔が格段に増えたし、毎日充実しているように見える。たまにしか会わない関係になったからこそ、その変化はあたしの目にはっきりと、鮮やかに映し出された。
特に塾で起こった出来事をあたしに話してくれる奈月は本当に生き生きとしていて、塾での時間を――桜井先生と過ごす時間を心から楽しみにしているのだということが、部外者であるはずのあたしにも十分すぎるくらい伝わってきた。
それなのに……。
先生は彼女に対しても、他の女の子たちと同じように接しているのだろうか。あんなに優しい目で見つめて、誰でも喜ぶような文句をあれこれと思いついてはすらすら並べたてて、優しい手つきで頭を撫でて……。
桜井先生が優しいのは知っている。誰に対しても差別なんてしない、どんな人にも分け隔てなく接する……彼がそんな人だというのは、知っている。
だけどだからといって、誰に対してもあんな風に接するのだろうか?
夏祭りの時、彼女を優しく見つめながら手を繋いで歩いていたのは……奈月だけが彼にとって特別だったからではないのか?
実際の彼は、ただの節操なしな軟派男なのだろうか?
それじゃ奈月が、あまりにもかわいそうすぎる。あんなに彼女は先生のこと、大事に思っているというのに。
これは許せない。奈月のためにも、一言言ってやらなくちゃ。
◆◆◆
次の日の放課後、あたしは早速桜井先生を空き教室に呼び出した。
入った途端あたしは腕を組み、ドアの前に仁王立ちした状態で彼を睨み据える。
「し……東雲? どうしたの。顔が怖いよ」
桜井先生は目の前のあたしに、若干引いているようだ。どうやら呼び出された理由が本気でわかっていないらしい。
そんな彼の態度に、あたしはますます腹が立った。発する言葉も自然と刺々しくなる。
「ちゃんと、教えてもらえませんか」
「教えるって……?」
コテン、と桜井先生は無邪気に首を傾げる。そんな仕草も、今のあたしにはイライラのもとでしかない。
「ふざけないでください!」
耐え切れなくなったあたしは、バン! と勢いよく音を立てて壁に手をついた。「ちょ、今凄い音したよ!? 大丈夫!?」と、すかさず先生が心配したように声を上げる。あたしのことまで気にかけるような言葉を発する、そんな彼が腹立たしくて仕方ない。
「問題は、そんなことじゃないんです。先生……あなたは一体奈月をなんだと思っているんですか!」
「問題って。奈月……え、藤野? なんでこんなところで藤野の話が出てくるの?」
先生は全く訳が分からない、というように首を傾げた。
「重要なことなんです」
先生を睨み据えながら、じりじりと詰め寄っていく。あたしによほど迫力があったのか、先生は引きつったような笑みを浮かべながら後ずさりした。
「あなたは誰に対しても、頭を撫でたり優しい言葉をかけたりするんですね。奈月も所詮、他の女と一緒なんですか!」
「な、何の話?」
「とぼけるのもいい加減にしてもらえませんか。あたし、見たんですよ」
「見たって、俺と藤野が一緒にいるところをかい? それだったらわかるだろう、俺は……」
「違いますよ」
全く見当はずれなことを言いやがった先生をけん制するように、またじろりと睨む。先生はびくり、と一瞬肩を震わせた。全く、男のくせに情けない。
「昨日の放課後、泣いてる女子生徒を慰めていたでしょう」
「あぁ、何だ。そのことか」
あたしが問題視していたことをズバリ指摘してやると、先生は悪びれることもなくさらりと言った。
「だって
「それが駄目なんです!」
「駄目!?」
慰めてただけなのに、何でいけないのー、と不満げな声を上げる桜井先生。子供っぽいと奈月は言っていたけれど、彼女は確実に騙されている。こいつは子供っぽいんじゃなくて、やはりただの節操なしな軟派男だ。
「何でなんですか! 夏祭りの日、あんなに奈月のこと……愛しそうに見つめてたのに。なのになんで、何で……奈月をコケにするんですか」
あまりにも悔しくて、涙が出てきた。
今まで表情をほぼ失っていた奈月を、あんなに魅力的な子に変えた桜井先生。奈月にとって、彼は特別なのだ。
先生もまた、そんな奈月を近くで見守りながら、大事に思っていると、そう信じていたのに……。
「東雲」
桜井先生の手が、あたしの頭に伸びる。その手を思わず振り払った。びっくりしたように先生があたしを見る。
あたしは涙で濡れた瞳で、先生をキッと睨んだ。
「先生は……ひどい人です」
「東雲!」
捨て台詞を吐いて出ていこうとしたのに、先生はそれをさせてはくれなかった。振り払おうとしても、先生は掴んだ腕を離してくれない。
「東雲、聞いて」
「何をですか。今更、言い訳なんか、聞きたくないです」
嗚咽で声を震わせながら、それでも強気な言葉を絞り出す。そんなあたしを見て、先生は控えめに笑った。
「言い訳なんかじゃないよ」
ひとことそう言うと、絶対逃げちゃだめだからね、と言い含め、先生はようやく掴んでいたあたしの腕を離した。それから、その辺に無造作に置かれていた椅子を二つ引いてきた。一つに腰掛け、もう一つの椅子に「君も座りなよ」とあたしを促す。ためらっていると、再び腕を掴まれ無理やり座らされた。
向かい合うと、先生は目を細めながら優しい声で言った。
「それにしても……本当に東雲は、友達思いなんだね」
「あの子には、幸せになってほしい……ただ、それだけなんです」
自然とうつむき加減になってしまう。先生の顔を、まともに見ることができなかった。
先生はそんなあたしの頭をポンポン、と軽く叩いた。
「あのね、東雲。俺は藤野のこと、コケにしたことなんて一回もないよ」
「だったら、何で……」
「君は俺が誰に対しても同じことをしていると言ったね。確かに俺はこんな風に、誰の頭でも見境なく撫でるし、誰にでも触れるよ。君が怒るのも無理はないかもしれない」
だけどね、と先生はひときわ優しい声色で言った。思わず顔を上げて先生を見てしまう。
先生は夏祭りの日に奈月を見ていた時と同じように、甘くとろけそうな瞳をしていた。まるで、この場所にいない愛しい人を想っているかのように。
「俺は、何とも思ってない人に……それ以上のことはしない。手を握ったりも、自分からデートに連れ出したりも、絶対にしない」
デート、という言葉に、自然と顔が熱くなる。前に桜井先生を問い詰めた時は「授業の一環だよ」なんて、言い訳めいた答えを返してきたくせに……あれはやっぱり、そうだったんじゃないか。
そんなあたしに、桜井先生はさらに爆弾を落とした。
「それに……キスだって」
き、キス!? いつの間にそんなことまでしてたの!?
目を丸くするあたしに、先生は屈託なく笑う。
「そんな大したことじゃないよ。単なる悪戯」
まるで何でもない事のようにさらっと言ってのけると、先生はんー、と伸びをした。流れるような仕草で腕時計を眺め、よっこいしょ、と声を上げながら椅子から立ち上がる。
「さて、そろそろ塾の方に行かないと。じゃあまたね、東雲。暗くならないうちに帰るんだよ」
ポカンとしているあたしにそれだけ告げて、桜井先生はさっさと教室を出て行ってしまった。
一人残された空き教室の中で、あたしは一人頭を抱えた。
「ちょっと、一体どういうことなのよぉぉぉぉぉ!!」
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